アナタハン島から救出された際の比嘉和子さん

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 太平洋戦争の終結から数年後、南洋の孤島から日本に生還した沖縄出身の女性。日本の敗戦も知らず、32人の男性兵士とジャングルで暮らしていたという身の上は、世間に大きな衝撃を与えた。しかもその間も12人が命を落とし、うち数人は彼女をめぐって殺害されたという。想像を絶する過酷な状況のなか、生き抜くことを決意した彼女が選んだ生き方とは――。

(前後編記事の前編・「新潮45」2005年8月号特集「昭和史七大『猛女怪女』列伝」掲載記事をもとに再構成しました。文中の年齢、年代表記は執筆当時のものです)

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【写真】喜びと緊張が混じった表情で前を見据え…アナタハンから救助された際の比嘉さん 帰国後のおだやかな表情も

「女王蜂」の生還

「帰ってください! お話しすることは何もありません。私の知る和子さんは近所の子供たちから『カズおバア、カズおバア』と慕われた優しい女性でした。もう、帰ってください」

アナタハン島から救出された際の比嘉和子さん

 今年(編集部注:05年)2月、かつて「アナタハンの女王蜂」と呼ばれた比嘉和子の故郷、沖縄県名護市で、ある親族を私が訪ねてみると、激しい言葉が返ってきた。

 比嘉和子は、太平洋戦争での敗戦が色濃くなった昭和19年6月から6年間、敗戦も知らず、南洋の孤島「アナタハン」で取り残された32人の兵隊たちとジャングル生活を続けてきた女性である。この間、一匹の「女王蜂」比嘉和子をめぐり、壮絶な性と生の「もう一つの戦争」が繰り広げられた。

 和子がアナタハンから米軍により救出され生還したのは、昭和25年6月。そして、翌年7月6日、米軍に救出された兵隊たちが米軍機で羽田空港に降りたった。その数僅か20人。残りの12人は、「女王蜂」を争って殺されたり、原因不明の死を遂げたと帰還した兵隊たちの証言で伝えられたのだ。

世界にも知られた「アナタハン」

 和子の親族が触れられたくないという訳を近所の古老がこう話す。

「無理も無いでしょ。当時マスコミは『男たちを操った女王蜂』とか『彼女をめぐり何人もの兵隊が殺しあった』とか、さんざん非難しましたからね。それに『アナタハンで一緒に生活していて殺された』と言われている男性の遺族は今でもこの街に住んでいるのです。ですから、比嘉和子の兄弟や親戚はずっと肩身の狭い思いをしてきたんですよ。そのため家出した親戚の人も居ましたから」

 確かに昭和26年から29年にかけ「アナタハンの女王」ブームが日本中を席捲した。旅芸人一座が和子の故郷名護市や那覇市でテント小屋を張り、「アナタハンの女王蜂劇」を演じたこともあった。

「欲望という名の島アナタハン」「欲情の女」などの見出しも新聞や雑誌の紙面を飾った。「お久しぶり」という代わりに「アナタハン」という挨拶が流行り、「女王蜂」「アナタハン」と名付けた飲食店も続々登場した。ハリウッドの巨匠ジョゼフ・フォン・スタンバーグが監督した映画「アナタハン」が上映されるとアナタハンブームに一層拍車が掛かり、「ニューヨークタイムズ」や「ライフ」も採り上げるなど世界中の話題にもなった。

32人の兵隊たちと1人の女

 世間の関心は、敗戦も知らずに、孤島に6年間も取り残され、戦い続けた帝国軍人の武勇伝や勇姿ではなく、32人の兵隊たちと1人の女との“関係”である。

「私はこの島で骨を埋める覚悟をしたが、和子は『生きて祖国へ帰りたい』と何度も私に言っていた。和子と“関係”を持った男たちが殺されたのは事実なんだ。私も、2人殺されたのをこの目で見た。和子は決して『女王蜂』のように君臨した訳ではないが、彼女の奔放な振る舞いが男たちを刺激したことは間違いなかった……」

 これは、生還者の1人、田中秀吉(94歳)の証言である。6年前にも私は『アナタハンの真相』を取材し、20人の生還者を訪ね歩いたことがある。既に他界したり、連絡不能となっている者が大半で、存命が確認できたのは宮城県内に住む男性と埼玉県内に暮らす田中秀吉だけだった。

 宮城県の男性は「思い出したくもない」と取材を完全に拒否。一方、田中は「これまでの報道で真実が伝えられていない」と快く応じてくれたのだった。

アナタハンに寄港した三隻の漁船

 田中に召集令状が届いたのは昭和18年12月29日、34歳の時だ。ミッドウェー海戦で敗れた日本軍は南洋諸島での攻防に全戦力を注いでいる戦局だった。この頃になると兵役免除のはずの者や未成年者まで臨時召集兵として戦地へ駆り出された。

 妻と洋品店を営み、9歳の長男を頭に5人の子供がいた田中も陸軍二等兵として兵役に赴いた。補給部隊に配属され、軍用貨物船「能登丸」(9000トン)に乗船、激戦地の南洋諸島へ向かった。

 サリガン島に上陸直後、米軍機の爆撃を受け、田中は、臀部貫通及び左肩甲骨粉砕の重傷を負う。海軍に石巻港から徴用された木造漁船「海鳳丸」で、治療のためにサイパン島へ向かう途中、アナタハン島に寄航したのだった。

 波止場には同じく徴用漁船で神奈川県三崎港の「兵助丸」、函館港の「曙丸」が攻撃を逃れて避難していた。

米軍機の猛爆撃を受けて

 だが、海鳳丸の乗員は上陸してまもなく、米軍機の猛爆撃を受ける。波止場近くの岩窟で戸板に身を横たえていた田中は、停泊中の三隻の漁船が炎上していく様を戦争映画の一シーンのように眺めていた。島から脱出する手段はすべて破壊されていた。

 兵隊10人と臨時徴用された漁師など軍属21人、計31人の男たちは、こうしてアナタハンに取り残されたのである。昭和19年6月13日のことである。

 アナタハン島は、サイパン島から北へ150キロに位置する周囲30キロの小さな孤島である。楕円形の島の中央に火山があり、その周囲は熱帯のジャングルで平地は殆んどない。島の南側は浜辺と穏やかな水面が広がっているが、北側は断崖絶壁。海は荒波にもまれ渦を巻いている。

 一方、比嘉和子がこの島へ来たのは昭和18年10月、20歳の時である。5年前の昭和13年11月、同じマリアナ諸島のパガン島で知り合った同郷の比嘉正一(23=当時)と結婚。正一は南洋諸島農園事業を展開していた会社「南洋興発」の青年社員だった。18年にアナタハンの「コブラ(ココヤシの胚乳を乾燥させたもの)園」主任に栄転したことで、妻の和子も一緒に赴任した。この時期、和子の人生の中で最も平穏で幸福な生活だったといえよう。

継母に懐かず大阪へ

 和子のアナタハンへ来るまでの道程は決して平坦ではなかった。彼女は大正12年5月8日、沖縄県国頭郡名護町(当時)で生まれた。生家は貧農で、5人きょうだいの4番目。上に2人の兄と姉、下に妹がいた。しかし、和子が7歳で母親が、12歳で父親が相次いで他界。

「母親が亡くなった後、すぐ父親が再婚したので子供たちは継母に育てられました。でも、カズちゃん(和子の愛称)だけは継母に懐かず、尋常小学校を3年で中退し、大阪へ働きに出て行きました。南洋の孤島で6年間も生きていけたのは幼い頃に苦労していたからでしょう」

 名護市に住む義姉の宮里歌子(87歳)は昔日を思い起こして語った。

 14歳の時、大阪・岸和田のナニワ紡績に就職、織姫になったが長続きせず、1年3ヶ月後に沖縄に舞い戻った。しばらく地元の飲食店などで働いた後、昭和13年2月、サイパンへ出稼ぎ中だった長兄を頼り同島へ渡った。17歳の和子は、現地で兄の仕事を手伝っていたが、まもなくして隣島のパガン島へ。そこの食堂で女中奉公していた時、正一と出会い運命の島アナタハンへ辿り着いたのだった。

腰振りダンスを披露した和子

 アナタハンには南洋興発の責任者で同郷の比嘉菊一郎(29=当時)の一家が暮らしていたが、怪しくなってきた戦局を察知した菊一郎は妻子をサイパンへ避難させた。アナタハン島には南洋興発に雇われた原住民のカナカ族47人が、サトウキビ栽培などに従事しているだけだった。

 和子の平穏な生活はB29の来襲と共に吹き飛ぶ。昭和19年6月12日午後、この島は米軍機の猛爆撃を受けた。和子は当時、正一の子を身籠り、妊娠5ヶ月目に入っていた。産婆など居ない島での出産は不安だと、正一はパガン島に居る妹を迎えに行くため、2日前に島を離れていた。これが永遠の別れとなった。

 実はその前日に田中は食料調達の命を受けてアナタハンに上陸していた。この時、比嘉正一・和子夫妻と菊一郎から熱烈な歓迎を受けていた。ヤシの樹液で作った“トバ酒”を振舞われ、和子はカナカ族から教わったという腰振りダンスを披露してくれた。

 この席で田中は和子が身籠っていることを知り、翌日には能登丸でサリガン島へ向かう田中は、正一を同行させて、バガン島へ送り届けていた。田中はその直後に米軍機の爆撃を受け負傷し、奇しくも和子と再会したのだ。島に取り残された後も、この縁で和子は、年窩で分別を弁えている田中を慕っていた。

爆撃から逃げる際に流産

 12日の米軍の攻撃は凄まじかった。和子は菊一郎や合流した兵隊たちと共にジャングルの中を逃げ惑った。道無き道を走り、岩場から飛び降りた時、下腹部に激痛が走った。見る間に鮮血が股間を赤く染めていく……。流産だった。

 このことは和子の後半生を大きく変えたと言ってよい。もし、正一の子を出産していれば、兵隊たちが女として和子を見る目が変わっただろうし、彼女をめぐる凄惨な殺し合いは防げたかもしれないのだ。

「サリガンの猛爆撃を体験し、近隣のパガンもやはり爆撃されたと思った。そのため、正一はもう生きてはいないと思ったのだ。和子を呼び、そう伝えたんだ。そして、菊一郎と夫婦を装い、皆と離れた場所で暮らすように助言した。2人は偽装夫婦として生活を始めたが、次第に正式の夫婦でないことが分かるに連れ、男たちが和子を求めるようになった」(田中)

 その頃の若き和子は豊満な肉体を持ち、奔放な性格だった。

6年間で5人の男と“結婚”

 兵士や軍属たち、菊一郎ら32人とのアナタハンでの6年間の生活で、和子は5人の男と“結婚”した。勿論、正式な結婚ではなく、ピストルを所持する“権力者”に強引に娶られたり、争いを恐れた男たちが合議した末、次の夫が指名されたりしたのだ。そのうち4人は明らかに殺害されたり、不自然な事故で命を落とした。

 最初の“夫”菊一郎は和子と同居して3年3ヶ月目に、和子より4歳年下の「兵助丸」のコックYに射殺された。後に和子は、その“地獄”を田中にこう報告している。

「私たちの小屋にYがやって来て3人でヤシ酒を飲んだの。Yはかなり酔って、『帰れないから泊めてくれ』というので3人で川の字になって寝たんです。異様な雰囲気を感じて目を開けると、Yは菊一郎に跨ってビストルを発射していた」

 菊一郎の殺害後、Yは和子に「ワンピースを脱げ」と命じ、男の“目的”を達したという。菊一郎の遺体は小屋の近くに埋められたが、和子は夫の亡骸の上にワンピースをかけたとも告白した。

殺し合いの果てに…

 菊一郎の死後、男たちが集まって会議が開かれた。和子が一人になれば奪い合いが益々エスカレートするのは目に見えていた。和子に次の夫を選ばせるための会議だった。

「『誰か一緒になりたい男はいないか』と和子に聞くと、菊一郎を殺したYを指名したんだ。これには一同、唖然とした……」(田中)

 後に和子は、“夫選び”の理由を泣きながら田中に説明した。

「他の人を選べば、ピストルを持っているYに、その人がまた殺される。仕方の無いことでしょう……」

 ある時、和子は田中に強い口調で詰め寄ったことがあった。

「私も生身の人間です。男たちの要求を拒否すれば私も殺されるわ。殺し合いは男たちの問題でしょ。私は生きて祖国へ帰りたい」

 これは真実の話だと私は思う。ある“信念”が常に和子の心奥に垣間見える。男たちの争いを自分の力では止められないことを、実は和子自身が一番分かっていたのではないか。事実、和子は生還した。

神様は死なせてくれなかった

 救出され名護に帰った後に勤めた料亭「南栄楼」の上司、伊波(いは)寛一(取材当時76歳、平成13年没)に、和子はこう打ち明けたことがあった。

「アナタハンで菊一郎が殺された後私は自殺を2度図ったの。1度目は海に飛び込んだけど、苦しくなって泳いでしまって、2度目は木の枝に縄をかけて首を吊ろうとしたけど、枝が折れてしまって死ねなかった。私が死んでしまえば、男たちの殺し合いは無くなると思ったけど……神様は死なせてくれなかったのね」

 和子は、この言葉の後に「神様は知っていたのね。私が悪くないことを」そう付け加えたかったに違いない。伊波はそう思ったという。男たちの殺し合いに一番苦しんでいたのは、和子自身だったのかも知れない。死に切れなかった和子は、生き抜いていく覚悟を決めた。それには男たちの言い成りになる生き方を選んだ。

 菊一郎を殺し、和子に選ばれたYもまた、彼女と同棲して2年後に「海鳳丸」の水夫Sの手によって殺害されてしまった。

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 仲間が次々と命を落とすなか、男たちは遂に和子の「処刑裁判」を開いた。その残酷な“判決”を知った和子は――。つづく後編ではアナタハンからの脱出、そして帰国後も見舞われた男がらみの波乱などについてお届けする。

後編【「私が悪い女だから、沢山の男が命を失ったように言われています…」 日本へ帰国、51歳で亡くなるまで続いた「アナタハンの女王」の苦悩】へつづく

秋本誠

デイリー新潮編集部