徳川家康公銅像(写真: ブルーインパルス / PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めた。今回は徳川家康が愛読したある本について解説する。

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徳川家康は学問好きであった。家康の侍医を務めた板坂卜斎(いたさか ぼくさい)は、家康の学問について「家康公は書籍を好まれた。僧侶や学者とも常々話された。学問を好まれた。詩作・歌・連歌はお嫌いであったが、論語・中庸・史記・漢書・六韜・三略・貞観政要、和本は延喜式・東鑑を愛読していた。漢の高祖(劉邦)の度量の大きいことを褒められ、唐の太宗や魏徴を褒められ、張良・韓信・太公望・文王・武王・周公、日本では源頼朝の話を常々された」と記している。

源頼朝を尊敬していた家康

源頼朝の話をよくしていたというのは、武家政治の創始者としての頼朝を家康が尊敬していたからだろう。鎌倉幕府の準公式記録ともいうべき『吾妻鏡』をよく読んでいたのも、頼朝から学ぼうという姿勢の表れかもしれない。

また卜斎の話からは、中国の古典をよく読んでいたことがわかる。家康が好んだ中国の古典として挙げられている『貞観政要』は、現代においても、経済人や学者が絶賛する書物である。

では『貞観政要』とはどのような書物なのか。「貞観」とは、中国の唐の時代(618〜907)の元号だ。「政要」というのは、政治の要諦(物事の最も大切な点)という意味だ。

貞観の世を統治したのが、唐王朝の2代皇帝・太宗(李世民)である。『貞観政要』は、この太宗(598〜649)と側近たちの言行録だ。


唐王朝の都、長安(現・西安市)の街並み(写真: メソポタミア / PIXTA)

敵対勢力の征伐や、骨肉の争いという修羅場をくぐり抜けた武将であった太宗。 皇帝の座についた翌年(627年)に、貞観と改元した。太宗の治世は23年続く「貞観の治」と呼ばれ、平和で安定した時代として、後世から讃えられている。

忠告してくれる人の大切さを説いた太宗

『貞観政要』には例えば、次のような問答が記されている。

貞観年間(627〜649)の初め頃、太宗は側近に対し、次のように言った。

「君主の道というものは、必ずまずは民衆を思いやらなければいけない。もし、民衆に負担をかけて、君主に奉仕させようとするのならば、それは自らの股の肉を裂き、自分で食べるようなものだ。お腹がふくれても、死んでしまうだろう。

もし、天下を平穏にしたいと思うのなら、君主は必ずまずは、自分の身を正しくするべきだ。身が正しいのに、影が曲がっていたり、上が治っているのに下が乱れるということはない。

私はいつも思っている。自らの身を損なうものは外部にあるのではなく、すべて自分の欲望(私欲)によって起こり、災いを起こすのだと。 美味しい食事をし、音楽や女色を喜ぶときは負担も大きい。政治にも悪影響を与え、民衆を混乱させることになる。

また、君主が一度でもおかしなこと、道理に外れることを言えば、民衆は不安定になり、君主に対する恨みの声があがり、ついには離反する者も出るだろう。私はいつもこのように感じているからこそ、勝手気ままに欲望のおもむくままに過ごそうなどとは思わないのだ」と。
 
太宗の発言を受けて、諫議大夫(皇帝を諫める官職)の魏徴はこのように答えた。

「昔々の素晴らしい君主は、皆、何事においても、自分事として物事を考えました。だからこそ、国はよく治っていたのです。昔、楚国の荘王が賢人の袪何(せんか)を招いて、国をよく治めるための秘訣を尋ねたところ、袪何は、君主が身を慎んでいるのに国が乱れた例を知りませんとのみ答えました。陛下(太宗)の仰ったことは、この昔の逸話と同じです」

これが『貞観政要』の最初にくる文章だ。

太宗は、忠告してくれる人の大切さを実感し、魏徴を諫議大夫に任命した。時には、魏徴を寝室に招いて、意見を聞くほどだったと言われている。

太宗は、魏徴を重用する理由を「私が嫌な顔をしても、いつも切実に諫めて、私の非道を許さない。私が彼を重用するのは、そのためだ」と語っている。

政治の世界においては、周りを「友達」で固めたり、裏切らない官僚出身の政治家を重職に採用したり、反対意見の者を異動・左遷する例が見られるが、そうしたところから悪い意味での「忖度」が生まれ、意見をしてくれる人が減っていく可能性も高い。

多くの人の意見を聞くことの重要さ

しかし、それでは、よい政治をすることはできないだろう。同書には次のような問答も掲載されている。

貞観2年(628)、太宗は魏徴に次のように尋ねた。

「よい指導者、悪い指導者は何をもってそういうのであろうか」と。

魏徴はこのように答える。

「君主がよい指導者といわれるには、多くの人々の意見を聞くことです。悪い君主は、限られた人の言うことのみを信じます。『詩経』(中国最古の詩集。前9世紀から前7世紀頃の詩を収録。儒教の経典の1つでもある)にはこのようなことが書いてあります。

先人は言った、薪を刈る人にも問えと。

尭や舜(いずれも中国古代の伝説上の帝王)は、四方の門を開き、よい人材を集め、広くさまざまなことを見聞しました。

その優れた知恵と人徳は四方を照らし、無能な輩や、言行一致しない者も尭・舜を惑わすことはできませんでした。

秦の2世皇帝は、宮殿の奥深くにひきこもり、人々を遠ざけ、趙高のみを信任しました。だから、天下が乱れても、その情報が耳に入りませんでした。

梁の武帝は、朱异(しゅい)を信任したために、侯景という武将が兵を挙げ宮殿に迫ってもそれを知りませんでした。

隋の煬帝は虞世基という政治家を信任したために、反乱軍が町や村を襲撃しても、それを知らなかったのです。

君主が下々の者の意見を広く聞けば、権力を持つ家臣でも、主君の耳を塞ぐことはできず、下々の事情は必ず上に通じるのです」と。

太宗は魏徴の言葉をとてもよいものと受けとめた。魏徴は、名君と暗君の違いは、多くの人の意見を聞くか否かにあると語っている。『貞観政要』の要諦は、そこにあると言えるだろう。

とは言え、名君と言われた太宗であっても、完璧ではないし、家康でもそうだ。

忠告を聞かなかった家康

家康は元和2年(1616)3月、腹部に腫瘍を発見するが、医学や薬に精通していた家康は、自己診断し、万病円という丸薬を服用。それを諌めたのが、家康の侍医・片山宗哲だった。

中国古典や『貞観政要』を愛読している家康ならば、宗哲の諫言を聞き入れるかと思いきや、さにあらず。機嫌を損ねて、宗哲を信濃国に配流としたのだ。家康を論語読みの論語知らずというつもりはないが、いかに名将と言われる人であっても間違いもあることを知ることが、歴史の教訓となるのではないか。

(主要参考文献一覧)
・笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016)
・藤井讓治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・呉兢編纂、石見清裕訳『貞観政要 全訳注』(講談社、2021)
・本多隆成『徳川家康の決断』(中央公論新社、2022)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)