2008年、中国の胡錦濤国家主席(右)と対面する池田大作名誉会長。(写真/時事)

リーダーとは孤独なものである、とよく言われる。

創価学会という日本最大の新宗教団体に長く、唯一のカリスマとして君臨した池田大作名誉会長が今年2023年11月15日に死去したが、いま振り返ってみれば、その生涯は何とも孤独なものではなかったのではないか。

彼の人生を揶揄しているのではない。そもそも国家だろうと企業だろうと宗教団体であろうと、リーダーとは孤独なものなのであり、池田氏もまたその例に漏れなかったのではないかという、ただそれだけのことである。

池田氏が創価学会の第3代会長に就任したのは1960年5月3日、若干32歳のころであった。「第3代会長」である。誤解している人もいるが、創価学会は池田氏がつくった教団ではなく、よって彼は「教祖」ではない。創価学会を1930年に立ち上げたのは牧口常三郎という教育者で、第2代会長は戸田城聖という実業家肌の、非常に戦闘的な人物だった。

突き進んだ「政教一致路線」

戸田時代の創価学会、すなわち池田氏がトップを引き継いだ時点の創価学会の組織目標は「一閻浮提広宣流布、国立戒壇建立」というものだった。「一閻浮提」とはこの世の中全体のこと、「広宣流布」とは教えを広く布教していくこと。つまり「一閻浮提広宣流布」とは「世界全人類に布教する」ということである。

それが貫徹されれば世界中の一般市民はもとより政治家や王族といったような人たちまで全員が創価学会員(正確には当時の上部団体・日蓮正宗の信者)になるわけだから、創価学会として世界を統率している状態を目指した。そういうことの結果に、自分たちの影響下に置いた政治権力に自分たちの宗教施設を造らせること、これが「国立戒壇建立」である。

池田氏によって公明党が設立されたのは1964年のことだが、創価学会の政界進出自体は戸田氏によって1950年代から始められていた。なぜ会員(信者)を各種の選挙に立候補させているのかということについて、生前の戸田氏は「それは国立戒壇を造るためだ」とはっきり答えている。

戸田氏の時代から始まった、創価学会の強引な折伏(布教)活動なども、言ってみれば、当時の彼らの「政教一致路線」を実現させるためだった。
 
ところが、戸田時代の流れの創価学会を引き継いだ池田氏は、1970年前後に大変な痛棒を食らうことになる。

政教一致路線を隠しもせず、各種の選挙で当選を重ねる公明党に世間の警戒感が強まり、1960年代後半にはさまざまな創価学会批判本が発売された。そうしたバッシングへの対抗措置として、創価学会が批判本の流通に圧力をかけていた事実も明るみに出た。言論出版妨害事件である。1970年、池田氏はついに謝罪に追い込まれてしまった。

同時に池田氏は、今後は創価学会、公明党として政教一致路線を追求しているかのように受け取られる態度はとらないとも明言。その後の公明党は、仏教が説く弱者救済や争いの否定といった道徳観を一般の政策論に落とし込んで活動するという「政教分離」の姿勢を堅持するようになった。

池田氏が民間平和外交の旗手を自認し、世界中を訪ね歩いて政治家や文化人らと交流、勲章や名誉博士号などをもらっていたという事実を知る人は多いだろうが、そうした彼の行動はもっぱら1970年代以降のものである。

池田氏が1971年に設立した創価大学のホームページには「創立者 池田大作先生」というコーナーがあり、池田氏が海外の学術機関からもらった名誉学術称号の一覧が掲載されているが、1960年代以前の彼はそうした称号を1つももらっていない。

1970年を境に組織的性格を変えた

池田氏が民間外交活動のなかで歴史学者のアーノルド・トインビー氏や国際政治学者のヘンリー・キッシンジャー氏らと対談したことは広く知られているが、実のところ、そうした交流の中で池田氏は、彼らに仏教的な話を語って聞かせるようなことをあまりしていない。

「世界を歩く池田大作」の語り口は、一般的な国際政治学者が口にするような内容と大きな差はなく、こうした面でも1970年代以降の池田氏の「政教分離路線」が見て取れる(穏当な姿勢だったからこそ海外から各種の勲章などをもらうことができたのだろうが)。

また池田氏は、国内に向けては憲法9条擁護、核兵器廃絶といった「平和思想」を語り続けた。公明党の政治姿勢も池田氏の思想に少なからず規定され、現在に至るまで、改憲や安全保障政策の強化を目指す自民党との間で軋轢が起こる原因になっている。

ただ、池田氏の政治的発言は、結局のところ戦後民主主義的な微温的リベラル派の言説と大差なく、よくも悪くも「独自の仏教理論から社会と対峙する宗教指導者」といった風貌(戸田氏はそういう人物だった)は、1970年代以降の池田氏には希薄だった。

1970年を境にして創価学会はその組織的性格を大きく変えたのだ。

1970年以降の創価学会は、宗教的価値観を前面に出して活動するというより、「世界に評価されるリベラル文化人たる池田大作先生」のカリスマ性で組織をまとめ、公明党もまた、「宗教政党」として存在感を出すのではなく、微温的リベラル政党として一般社会に浸透する努力のほうを優先させてきたきらいがある。

戸田時代に顕著だった戦闘性は薄れて穏健化し、今では過激な折伏などほとんど行われていない。かつて忌避していた町内会活動や神社のお祭りなどにも、今の創価学会員は進んで顔を出している。

近年の池田氏、創価学会の姿に対して、創価学会に批判的な立場の宗教団体は「本来の宗教精神を忘却した、単なる『池田教』である」といった声が出ていた。他にも、自身のカリスマ性を高めるために海外からの勲章類をもらい集める池田氏の姿を、「宗教家とは呼びえぬ俗物」と指弾する声が多々あった。

「過激な教団」を社会に適合させるために

そうした批判には的を射た部分もあったが、池田氏の立場に立って考えれば、自分がつくったわけでもない「過激な教団」を、どうにかして戦後社会に適合できるようソフィステケートしなければならなかったのではないか。

企業社会においても、道化的にメディアへの露出を高めて自身を「名物経営者」に仕立てることで企業の存在感を高めようとする企業トップは珍しくない。池田氏もまた道化を演じながら、創価学会を日本最大の宗教団体としてまとめ、育て上げた人物だったのかもしれないのである。

もちろん池田氏の本心は、もはや永遠にわからない。リーダーは、やはり孤独なものなのである。

ところで、池田氏の手抜かりは、創価学会の内部に自身の後継者をつくれなかったことに尽きるだろう。彼のカリスマ性で率いられてきた教団は、彼が公の場から姿を消した2010年以降、明らかに衰えを見せている。

2世、3世を中心とする若い学会員は、池田氏と直接会ったことのない人々が大半を占めており、親たちから「池田先生のためにがんばりましょう」などと言われてもピンとこない。

今後の公明党に明るい材料はほとんどない。たとえば現行制度の国政選挙において、公明党が最も多くの比例票を獲得したのは2005年の衆議院議員選挙時で、実に898万票を集めた。しかし昨年の参院選で集まったのは618万票。この十数年で、公明党支持者は300万人近くがどこかへ消えてしまったのである。

また、現状で創価学会員の多数を占めるようになった2世、3世会員は1世ほど熱心には活動しない傾向があり、古参学会員などからは「もう組織の半分くらいは幽霊会員と化しているのではないか」といった声も聞かれる。

それもまた、池田氏の孤独が生んだ現象なのだとしたら、創価学会の現在は「リーダーとは何か」を考える、一つの重要な教訓を社会に与えてくれているのかもしれない。

(小川 寛大 : 『宗教問題』編集長)