「ぼくたちのことば」に置き換えて書き上げた『一億三千万人のための「歎異抄」』は、どのようにして生まれたのでしょうか(写真:朝日新聞出版写真映像部・上田泰世)

この10年の間、親鸞の『歎異抄』を繰り返し読んできた作家の高橋源一郎さんが、みずみずしい「ぼくたちのことば」に置き換えて書き上げた『一億三千万人のための「歎異抄」』。今まで誰も読んだことのない『歎異抄』は、どのようにして生まれたのか。700年前の本を今に届ける意味を、高橋さんに聞いた。

『歎異抄』と『ゴジラ-1.0』

日本でも大ヒット公開中の『ゴジラ-1.0』が、12月1日に全米2308館で公開された。オープニング興収1100万ドルのヒットで外国映画の実写映画としては、2004年公開の中国映画『HERO』に次ぐ史上2番目となる記録で日本の実写映画としては歴代1位だという。公開日こそ2位スタートだったものの、その勢いは止まらず、12月4日にはついに全米興収1位にまで上り詰めている。このニュースを目にした時に、『一億三千万人のための「歎異抄」』を上梓したばかりの高橋源一郎さんの翻訳についてのこんなことばを思い出した。

「19歳の長男にNetflixで世界配信中の『PLUTO』を勧めたところ、全8話をノンストップで鑑賞していました。そのあとすぐに『ゴジラ-1.0』を観に行っていて、どちらの作品もものすごく面白かった、と。『PLUTO』は手塚治虫の『鉄腕アトム』の中のエピソード『史上最大のロボットの巻』のリメイクですし、『ゴジラ』にしても国内だけでも30作もシリーズ化されています。どちらも本質はきちんと残ったまま、新しい解釈で進化している、これも翻訳なわけです。

もちろん『歎異抄』の翻訳の場合は、映画のように新しいものを生み出していくわけではないけれども、わかりにくい日本語をわかりやすい今の日本語にしながら、何百年もの長い間、愛されて現代まで読み継がれてきています」

翻訳の意味とは何か。高橋さんは、<いま現在を生きる人びとの切実な問題に変換してみせる>こと、と考えている。『PLUTO』であれば、60年前のロボットの悲劇をAIという最新技術と共存していく現代社会に、全米ヒットとなった『ゴジラ−1.0』は、戦争のトラウマを持つ帰還兵の葛藤が現代的なテーマとして捉えられたことだろう。では700年も前の宗教書である『歎異抄』の場合はどうか。

「『歎異抄』の書かれた時代は、今から700年も前の戦乱と飢餓と天災という大変な世の中です。そんな大昔の話と思いがちですが、今だって戦争と紛争、そして災害の時代ですよね。だからこそ、その先を見通すような思考が必要なのですが、今の作家は、その瞬間に面白いと思われるようなものを求められ、書くそばから消費される運命にあります。それでは、その先を見通すような思考は生まれません。


『歎異抄』には、時代を超えた普遍的な人間の智慧が書かれている、と語る高橋源一郎氏(写真:朝日新聞出版写真映像部・上田泰世)

この10年間、『歎異抄』を繰り返し読んできましたが、読めば読むほど夢中になりました。ぼくは親鸞を宗教家というよりもことばの人、つまり作家に近い人だったと思っています。人間がことばを使ってコミュニケーションする生きものである以上、宗教も政治も文学もこれを避けては通れない。

親鸞のことばは700年たった今も古びずに生きていて、『歎異抄』には生きるための知恵が書かれていると思います。だからこそ『歎異抄』が700年前の宗教の本、という枠の中に閉じ込められているのは、あまりにももったいないと思いました」

まるでわたしのために書かれているようだ

<太宰治(ダザイオサム)という作家がいる。この国の作家の中でもとりわけて人気がある。もしかしたら、いちばん人気がある作家かもしれない。もちろんぼくも大好きだ。/ダザイオサムが好きだという読者に、その理由を訊ねると、こんな答えが返ってくることが多い。(略)/「彼の作品を読んでいると、まるでわたしのために書かれた作品のような気がしてくるんです。(略)/読者のみなさんはもう気づかれていることだろう。ここでも「シンラン」に起こったことが繰り返されているのだ>(『一億三千万人のための「歎異抄」』より)

太宰治を読んでいると、まるで自分ひとりのために書かれているような気がする、と高橋さんは言う。それと同じように、『歎異抄』を読んでいると、まるで自分ひとりのために、あるいは、親鸞が直接自分に向かって語りかけているように、書かれている。そんな気がするはずだとも。

ただし、そのためには、『歎異抄』のことばを太宰治のことばのように、いまのことばにする必要があるかもしれない。『歎異抄』を、700年前の人のように読むために、古いことばという「壁」を壊す必要がある。だから、翻訳するときに、古くなってしまった、少しわかりにくいことばを今のことばに、今なら親鸞はこういうだろうなというふうに、少しだけ変えることにしました。読者が置いてきぼりにされないように、と高橋さんは言った。

「おもしろいのは、自分ひとりに向かって誰かが語りかけている、あるいは語りかけられているという体験を、親鸞自身がしていることです。アミダというエラいホトケは、この親鸞を救うために誓いを立てられた。そんな気がする。そう親鸞は言っています。常識的に考えるとおかしいですよね。ホトケはあらゆる人びとを救うために誓いを立てたのだから。

でも、それほど個人に寄り添える思想でなければ、ひとりひとりの個人が、それは自分に向かって手を差し伸べた救いなのだと信じられるようなものでなければ、なんの力も持たないのです。そのことを親鸞はよく知っていたのだと思います。そんな親鸞だからこそ、彼のことばもまた、現代の我々ひとりひとりに、直接訴える力を持つようになったのです。

親鸞は、自分は僧侶でも俗人でもない『非僧非俗』の身だと宣言しました。宗教者なのに妻帯し子どもを持ちました。難しいお経を読んだり、理解しなくてもかまわない、と言いました。寺もいらない、修行なんかしなくてもいい、寄進も不要だと言いました。ただネンブツを称えるだけで、誰でも救われると言いました。どれもこれも常識はずれでした。けれど、あらゆる常識を捨てた親鸞のことばは、当時の悩める人びとの心を深いところからつかまえたのです。

あらゆる世間の常識とかけ離れた『歎異抄』は700年前の人びとの心をつかまえました。そこには、時代を超えた普遍的な、人間の智慧が書かれているようにぼくには思えます。親鸞は700年前に『君たちはどう生きるか』と問いかけました。そして、今も、まったく同じように、『歎異抄』の中から、そういうことばが現代の我々に向かって語りかけられているのです」

果たして、現代を生きる私たちの悩みに親鸞ならどう答えるのか。高橋さんに、将来に漠然とした不安を持つ40代のビジネスパーソンの質問に親鸞的思考で答えてもらった。

高橋源一郎が読者の悩みに答える

【質問】

40代になりました。今のところ健康に不安もなく、家庭生活も特に問題はありません。けれど、将来を考えると不安は尽きません。わたしの仕事は、誰にでもとって代わられるようなものです。いや、AIがもっと発達すれば不要かもしれません。かつてのようなやりがいは今は感じられません。どうしたらいいのか、考える端緒さえわかりません。高橋さんの『歎異抄』は、実は『君たちはどう生きるか』なのだそうですが、わたしのような人間へのヒントは書いてあるのでしょうか。申し訳ありません、質問になっていないのかもしれませんが。

【回答】

ご質問ありがとうございます。「パレスチナとイスラエルの争いをどう見たらいいのか」とか「子どもがスマホばかりいじって困っています。とりあげるわけにもいきません。親としてどうすればいいのかお教えください」といった具体的な質問なら、わたしでも簡単に(ではありませんが)答えられます。でも、人びとの悩みの大半は、もう少し曖昧なものなのかもしれません。そして、そちらの方がずっと答えにくいのです。

『歎異抄』は、弟子の唯円が師の親鸞が亡くなって遥か後、師のことばを思い出しながら書いた本です。そこに書かれた親鸞のことばを読むと、どれもが、我々ふつうの庶民たちが抱えている、曖昧で答えにくい問いへの回答になっているような気がします。そんなことばは、わたしも他では読んだことがありません。一冊まるごと読めば、読み終わった後で、なにか大きなことを教えられた、そう感じることができる本なのだと思います。

親鸞は偉大な僧侶、というか仏教者だと思われています。歴史の本や教科書にはそう書かれているかもしれません。でも、実際はちがうとわたしは思っています。親鸞は、若い頃、宗派の争いに巻きこまれました。そして、反対する宗派の迫害にあって、流刑になります。仲間の中には処刑された人もいました。なんだか、いまと変わりありませんね。

その後、親鸞は変わりました。「非僧非俗」を称え、自分は僧侶でもなく(僧侶という形式など信仰に関係ないから)一般人でもない(それでも信仰はいちばん大切にしているから)といったのです。そして親鸞は、僧侶なんて姿形で威張っても意味がないからと結婚し、子どもをつくり、家庭生活を営みました。

『歎異抄』の中にも書いてありますが、宗教的な儀式もいらない、お布施もいらない、といいました。当時の一般庶民は字も読めず書けない人が大半だったので、お経もいらない、そんなものは自分で読むだけでいい、といいました。

結局、親鸞の浄土真宗では「南無阿弥陀仏」という念仏(ネンブツ)を唱えるだけで、あとはなにもしなくても、死んだ後は浄土(ジョウド)へ行けるといったのです。当時の僧侶たちは困ったことでしょう。自分たちが僧侶としてやっていることが、ぜんぶいらないことだといったのですから。

人として生まれた以上、最後まで迷う

そんな親鸞がやったのは、一般庶民の悩みを聞いて答えることだったのですが、わたしが好きなのは、次の問答です。

あるとき弟子の唯円は、彼らの信仰の根本である「念仏」を唱えても実は喜びを感じないのですといいました。自分には信仰心がないんじゃないかと告白したのです。すると、意外なことに、親鸞は「おれも同じだ」と答えました。こんなふうにです。


「いくらネンブツをとなえても、うれしくならないのは、信じられないからだ。なぜ信じられないのか。迷うこころがあるからだ。この世に執着しているからだ。おれたちが生きているからだ。おれたちがこの世界に生きて、欲望にまみれているからだ。おれたちがゴクラクより地上にしばられているからだ。ユイエン、だからこそ、おれたちはジョウドへ行けるんじゃないのか?」

人として生まれた以上、最後まで迷うのだ。これが親鸞がたどり着いた結論でした。それこそが生きている証拠であり、意味なのだと。親鸞はそう考えたのです。もちろん、具体的な悩みは具体的に解決するしかありません。けれども、人が人として生きる限り生まれる悩みは解決しません。解決しないからこそ人である意味があるのです。

いや、親鸞はもっとずっとうまく説明してくれています。ぜひ『歎異抄』を読んで、直接、親鸞本人にお訊ねになってください。きっとあなたに直接響くなにかを教えてくれるはずです。

(高橋 源一郎 : 作家)