(写真:あっき〜/PIXTA)

ノーベル賞のパロディとして創設され、世界中の独創性に富んださまざまな研究や発明の中からさらに「人々を笑わせ、同時に考えさせる研究」に贈られるのがイグノーベル賞です。私たちの日常で遭遇するぼんやりした「?」や滑稽な出来事、事件を科学的に解き明かして、見事イグノーベル賞を受賞した研究を紹介した書籍『ヘンな科学 “イグノーベル賞”研究40講』より一部抜粋・再構成してお届けします。

タマネギを切ると目に沁みる理由が意外と複雑だった

夕飯の準備の手伝いでタマネギのみじん切りを頼まれ、目に沁みてめげてしまう。多くの子どもが経験することだろう。タマネギを切ると涙が止まらなくなることは、小学生でも幼稚園児でも知っていることだが、意外にもなぜそのようなことが起こるかは2000年代初頭まで解明されていなかった。

というか、学術界は知ったつもりでいたが、当初思われていたほどシンプルな話ではないことが分かったのだ。謎を解明したのは、今井真介博士をはじめとするハウス食品の研究グループ。この発見を称えて2013年の化学賞が贈られた。

発見を一文でまとめてみよう。タマネギを切る時に飛び出る成分が、酵素1つに反応して催涙成分に変わると思われていたところ、実はもう一つの隠れた酵素の働きも重要で、2つの酵素反応を経ないと目に沁みない、ということだ。

植物は、ただボーッと生えているだけのように思えるかもしれない。でも、植物だってなるべく多くの子孫を残せるように、懸命に生きている。そのため、草食動物から身を守るべく様々な工夫をしている。

ニンニクやタマネギが持っている防御機能の一つが「アリイナーゼ」という酵素。動物に噛みちぎられたりして細胞がダメージを受けると、刺激性の物質を作り出す働きがある。

ハウス食品による研究が行われるまでは、タマネギに含まれる「PRENCSO」という化合物が時とともにこのアリイナーゼによって催涙成分に変化すると思われていた。

ところがこのPRENCSOを、タマネギ由来のアリイナーゼ溶液に混ぜると催涙成分ができたのに対し、ほぼ同じ成分のはずのニンニク由来アリイナーゼ溶液ではなぜかできなかった。ならばきっと、タマネギ由来のアリイナーゼ溶液には、ニンニク由来アリイナーゼにはない何かがあるのだろうと、研究チームは考えた。

そこで、タマネギ由来のアリイナーゼ溶液から見つかったのが「催涙成分合成酵素」だ。PRENCSOはアリイナーゼによって、一瞬だけ「プロペニルスルフェン酸」という物質に変化する。新しく見つかった催涙成分合成酵素が、そこからさらに、このプロペニルスルフェン酸を催涙成分へと変化させていることがわかった。

現在、この催涙成分合成酵素は、ネギ、ラッキョウ、リーキ、シャロット、エレファントガーリックなど、切った時に「うるっ」とくるネギ属植物でも見つかっている。 この2つの酵素の働きを抑えられれば、目に沁みないタマネギが作れるわけだ。

ハウス食品は涙が出ないタマネギを開発

実際、ハウス食品はこの研究を応用し、涙が出ないタマネギを開発、2015年に発表した。重イオンビームを照射し突然変異を起こさせ、酵素の働きがはるかに弱いタマネギを作り出した。催涙成分が出ないだけでなく、辛みもほとんどないそう。10年がかりで開発したこのタマネギ、水にさらす必要もなく、目にも沁みず、匂いも手につきにくいため、より手際よく調理できるということだ。

ちなみに、普通のタマネギを切る時になるべく目に沁みないようにするには、3通りの方法がある。
(1)切る前によく冷やして、酵素反応を抑える
(2)良い包丁で切って、なるべくタマネギの細胞を壊さないようにする
(3)目に沁みる前にさっさと切ってしまう

要するに、手間を惜しまず、道具に投資して、料理上手になれ、ということだ。

この研究は、ハウス食品でレトルトカレーの製造中に発生した謎の現象がきっかけで生まれた。

レトルトカレーの製造では、タマネギとニンニクを混ぜて炒める工程がある。普通はよく炒めると美味しそうなキツネ色に仕上がるところ、ある時、不思議なことに青々とした色になってしまったことがあった。この時は残念ながら、何百キロものタマネギとニンニクを捨てざるを得なかったそうだ。

今井博士が研究について振り返る


この現象が起きた理由を探り再発を防ぐために、タマネギの研究を始めた。今井博士は当時をこう振り返る。

「始めた頃は、まだ遺伝子に関する研究をしたことがなかったので、実験の手引書(初級編)を頼りに手探りで行ったことを今でも覚えています。また、たくさんのタマネギを切って実験していたので、作業着がタマネギ臭くなってしまい洗っても落ちなくなりました。特に、洗濯後にアイロンをかけると部屋中がタマネギ臭で充満するため、家庭では不評というより、ちゃんと仕事しているのかと心配されました」

研究打ち切りの危機も乗り越えてやっとの思いでまとめた研究成果は、著名な学術誌の『Nature』に掲載された。イグノーベル賞の授賞式で今井博士は、タマネギによって泣かされたすべての人、そして人間に食べられた全てのタマネギにも感謝の意を伝えた。

(五十嵐 杏南 : サイエンスライター)