お正月は多くの伝統行事に触れる機会。改めて“しきたり”を確認しませんか(写真:zak/PIXTA)

新たな年の始まりには、多少なりとも「日本ならではのならわし」を意識するものではないだろうか? 古式ゆかしき“日本らしさ”と向き合ってみれば、多少なりとも新鮮な気持ちにもなるはずだ。

とはいえ私たちは、はたしてどのくらいその“日本らしさ”を理解しているのだろうか?

「初日の出」拝む習慣は明治時代から

そもそも日本は、農耕を主たる生業とし、四季の自然にも恵まれていたため、季節の移り変わりを非常に大切にしてきました。一年のうちにいくつものハレの日を置き、日々の生活に変化と潤いを与えてきたのです。そして、自然そのものに感謝をし、自然とともに生きる自分たちの生活の安泰を願ってもきました(中略)

そのような歴史から生まれた年中行事やしきたりは、日本人が長い歴史のなかで培ってきた、まさに生活の知恵であり、豊かな人生観の表れでもあったのです(「はじめに」より)

『新装版 日本人のしきたり』(飯倉晴武 編著、青春新書インテリジェンス)の著者がこう述べているように、伝統行事のなかにはいまなお私たちの生活に息づいているものも少なくない。

しかしその一方、いつの間にか忘れられてしまったもの、あるいは意識する機会が著しく減ってしまったものもあるはずだ。そこで、ここでは本書を参考にしながら、「正月行事のしきたり」を改めて確認してみたい。

【初日の出】年神様に一年の幸運を願う

初日の出は、新しい年を迎えるうえでとても大切な行事だ。その年に初めて昇ってくる太陽を拝み、一年の幸運を祈るべく、夜のうちから家を出て見晴らしのよい場所に向かうという方も多いに違いない。

これはかつて、初日の出とともに「年神様(としがみさま)」が現れると信じられていたことに由来します。年神様は新年の神様であり、「正月様」「歳徳神(としとくじん)」ともいって、年の初めに一年の幸せをもたらすために、降臨してくると考えられていました(37ページより)

初日の出を拝む場所は、眺めのよい山や海岸などさまざま。

とくに人気の高い山頂での日の出は、近くの雲に映ったその影が、あたかも光の輪を背にした仏の像のように見えることから、仏の「ご来迎(らいごう)」との語呂合わせで「ご来光」と呼ばれるようになったという。

なお、初日の出を拝む習慣はいまではすっかりお馴染みだが、意外なことに昔から習慣があったわけではなく、明治以降に盛んになったといわれている。

それ以前の元旦は、年神様を迎えるために家族で過ごし、「四方拝(しほうはい)」といって東西南北を拝んでいたのだそうだ。

昔は家長が神社で年越し"一年のケジメ"

【初詣】本来は、氏神様にお参りするものだった

年の初めにお参りをすると「めでたさ」が増すということで、新年を迎えると各地の神社・仏閣は初詣をする人で賑わう。

大晦日の除夜の鐘(残念なことに、近年は騒音だというクレームも増えているようだが)を聞きながら家を出て、元旦にお参りを済ませて帰ることを「二年参り」という。

昔は一年のケジメとして、一家の家長は、大晦日の夜から神社に出かけて、寝ないで新年を迎えるのが習わしでした。そのころ、家族は自分たちが住んでいる地域の氏神を祀っている神社にお参りしていました。

やがて、伊勢神宮や出雲大社などの有名な神社に出かけたり、その年の干支によって年神様のいる方角、つまり恵方が縁起いいということで、恵方に当たる社寺に出かけて初詣をする「恵方参り」がさかんになりました(38ページより)

ご存じのとおり現在では恵方参りの習慣はなくなり、明治神宮、成田山新勝寺、川崎大師、住吉大社など、各地の有名社寺に出かけてお参りをする人も多くなっている。

【門松】神が宿る木を門前に立てる

正月になると、玄関前や門前に「門松」を立てる家は多い。左右に一対並べるのが一般的で、玄関に向かって左側の門松を「雄松(おまつ)」、右側を「雌松(めまつ)」と呼ぶ。

もともとは新年を迎える際、年神様が降りてくるときの目印として、杉などの木を立てたのが始まりだ。

とくに松が飾られるようになったのは平安時代からです。

これは松が古くから神の宿る木と考えられていたためで、この時代の末期には、農村でも正月に松を飾るようになったといわれます。さらにここに、まっすぐに節を伸ばす竹が、長寿を招く縁起ものとして添えられるようになりました。

現在のように、玄関前や門前の左右に一対立てるようになったのは、江戸時代ごろからです(39ページより)

門松は12月28日ごろに立てるのがよく、29日に立てるのは「苦立て」、31日ぎりぎりに立てるのは「一夜飾り」といわれ嫌われる。

立てておく期間は、一般的には7日までの「松の内」の間。ただし5日、10日、15日と、地域によってまちまちであるようだ。

【しめ飾り】家のなかを、神を迎える神聖な場所に

正月近くになって玄関口や家の神棚などに「しめ飾り」をするのも、門松と同じく正月に年神様を迎えるための準備。

もともとは、神社がしめ縄を張りめぐらせるのと同じ理由で、自分の家が年神様を迎えるにふさわしい神聖な場所であることを示すために、家のなかにしめ縄を張ったのが始まりでした。

かつては、「年男」と呼ばれる家長が、しめ縄を家のなかに張る役目を担いましたが、やがて、そのしめ縄が簡略化されていき、現在のようなしめ飾りや輪飾りになっていきました(40ページより)

しめ飾りは、しめ縄にウラジロ、ユズリハ、ダイダイなどをあしらってつくられる。

ウラジロは常緑の葉であることから長寿の願いが、ユズリハは新しい葉が出てきて初めて古い葉が落ちることから、次世代に家系を「譲って絶やさぬ」という願いが込められている。

ダイダイは家が代々栄えるといったことから、縁起ものとして正月飾りに使われるようになった。

「鏡餅」はなぜ丸餅を2つ重ねるのか

【若水】元日最初の水汲みで一年の邪気を払う

元日の早朝に、最初に汲む水を「若水」といいます。平安時代の宮中では、立春の日(当時の正月元日)の重要な行事であり、やがて元旦の行事として庶民の間にも広まっていきました(42ページより)

年頭にあたって若水を汲むことを「若水迎え」といい、できるだけ遠くに汲みに行くほど吉とされ、水を汲む途中で他人に出会っても、話をするのは厳禁だったという。

それほどまでに「水」にこだわったのは、年神様に供えたり、雑煮をつくったりするのに使ったから。また、この若水を飲めば、一年の邪気を払うことができると信じられていたからでもあるようだ。

【鏡餅】なぜ丸餅を2つ重ねるのか

正月に餅を食べる習わしは、中国で元旦に硬い飴を食べる習慣にあやかり、宮中で「歯固め」の儀式として始まったことに由来する。

だが日本ではそもそも、餅はハレの日に神様に捧げる神聖な食べ物と考えられていた。そこで室町時代以降、正月に年神様に供える目的で、床の間に「鏡餅」を飾る習慣が定着していったのだ。

鏡餅は、半紙を敷いた三方(三方の側面に透かしのある四角形の台)に、大小二つの丸餅を重ねてのせ、ダイダイ、昆布、ウラジロ、ユズリハなどを添えるのが一般的です。ダイダイ、ユズリハは、しめ飾りと同様の理由で用いられ、昆布には「子生」「子生婦」という字を当てることもあることから、子孫繁栄の願いが込められています。

ウラジロはシダの一種で、白い葉の裏を見せるように裏返して飾ります。その白さが「裏を返しても心は白い」という潔白と、「夫婦共白髪(ふうふともしらが)」という長寿のしるしであり、二葉が相対していることから、夫婦和合の象徴ともされています(44ページより)


鏡餅の飾り方(出所:『新装版 日本人のしきたり』)

鏡餅と呼ばれるのは、昔の鏡が円形だったから(意外と理由はシンプルだ)。

その鏡は人の魂(心臓)を表す神器であり、そこから丸餅になったということのようだ。

気になるのは、なぜ丸餅を2つ重ねるのかという点だが、これは月(陰)と日(陽)を表しており、「福徳が重なって縁起がいい」と考えられたから。

かつては年末になると鏡餅用に多くの家で餅つきをしたものだが、12月31日の大晦日につくのは「一夜餅」、また12月29日につくのは「苦餅」といわれたため、これらの日につくのは嫌われた。上記の門松と同じ発想だ。

ともあれ正月中は1月11日の鏡開きまで、家の床間などに大きな鏡餅を飾り、各部屋に小さな鏡餅を飾ったりする。

おせちや雑煮は正月料理ではなかった

【おせち料理】もとは正月料理ではなかった

「おせち」は、もともとは季節の変わり目の節句(節供 せちく)に、年神様に供えるための「お節」料理でした。それが、やがて大晦日の年越しのときに食べるようになり、年に何回かある節句のなかでも正月がもっとも重要ということから、正月料理に限定されるようになりました(46ページより)

当初は「松の内」の間じゅう食べるものだったが、次第に正月三が日に食べるのが通例となっていったらしい。

おせちは年神様に供えるための供物料理であるとともに、家族の繁栄を願う縁起ものの家庭料理でもある。

そのため「めでたい」とされる日持ちのする材料でつくり、家族が食べるだけでなく、年賀に訪れるお客様にも出せるようにと、重箱(お重)に詰めておくのが一般的だ。

重箱は中身によって区分けしてあり、一の重には口取り(かまぼこ、きんとん、伊達巻きなど)、二の重には焼物(ブリの照り焼き、イカの松風焼きなど)、三の重には煮物(レンコン、里イモ、高野豆腐など)、四(与)の重には酢の物(紅白なます、酢レンコンなど)を入れるのが習わしで、さらに五の重を用意するところもあります(47ページより)

【雑煮】年神様の下がりものの餅をいただく

正月といえば雑煮だが、これはもともと年神様に供えた餅を神棚から下ろし、それを野菜や鶏肉、魚介などと一緒に煮込んでつくった料理。「雑煮餅」ともいわれたそうだ。

元来、雑煮は正月用ではなく、室町時代のころの儀礼的な酒宴などで出されたのが始まりです。最初に雑煮を食べて、胃を安定させてから酒宴に移るという前菜の役割を果たしていました。それが、やがて正月料理になったといいます(47ページより)

そんな雑煮は、地域によってそれぞれ特色がある。

おもに関西では白みそ仕立て、関東ではしょうゆ仕立て(すまし仕立て)と分かれ、なかに入れる餅の形も、関西では丸餅(年神様に供える鏡餅をかたどっているため)、関東では切り餅(のし餅、角餅ともいう)が一般的だ。

“学べる”というより“楽しめる”一冊

ここでご紹介したのは第一章「正月行事のしきたり」の一部だが、これだけを見ても「へえ、そうだったのか」と改めて感じたのではないだろうか。


そのため個人的にも、“学べる”というより“楽しめる”内容だと感じた。

もちろん、「年中行事のしきたり」「結婚のしきたり」「懐妊・出産のしきたり」「祝い事のしきたり」「贈答のしきたり」「手紙のしきたり」「葬式のしきたり」「縁起のしきたり」と続いていく以後の章についても同じことがいえる。

楽しめて、そしてためになるだけに、知的好奇心を刺激されるはず。

各項目がコンパクトにまとめられており読みやすいので、正月休みを利用して、ぱらぱらとページをめくってみるのも悪くないかもしれない。

(印南 敦史 : 作家、書評家)