日本では目新しい考えではなかったダーウィンの進化論ですが、「生存競争」の概念が日本の科学者に響いたのは、自分たちの生きる世界を反映しているように思えたからでした(asante photo/PIXTA)

コペルニクスやガリレイ、ニュートン、ダーウィン、アインシュタインといった科学者の名前は、誰もが知っている。そして近代科学は16世紀から18世紀までにヨーロッパで誕生し、19世紀の進化論や20世紀の宇宙物理学も、ヨーロッパだけで築かれたとされている。
しかし、科学技術史が専門のウォーリック大学准教授、ジェイムズ・ポスケット氏によれば、このストーリーは「でっち上げ」であり、近代科学の発展にはアメリカやアジア、アフリカなど、世界中の人々が著しい貢献を果たしたという。
今回、日本語版が12月に刊行された『科学文明の起源』より、一部抜粋、編集のうえ、お届けする。

エドワード・モースによる進化論講義


エドワード・モースは演壇に立ち、進化論に関する3回連続講義の1回目を始めた。

アメリカ合衆国から日本にやって来たのはわずか数カ月前、長い進化の歴史を持った海洋生物、腕足(わんそく)類の日本固有種を調べるためだった。しかしこのときには、東京大学で800人を超す聴衆を前に講演をすることになった。

1877年10月6日、その講義の冒頭で自然選択の原理を印象的に説明した。モースは聴衆に次のようなシナリオを思い浮かべるよう求めた。

もしもこの講堂の扉にしっかりと鍵をかけたら、聴衆の中で身体の弱い人はたった数日で死者のリストに挙げられてしまうだろう。健康な人は2週間か3週間で死ぬことだろう。

モースはしばし待って、いま言ったことを聴衆にかみしめてもらった。中には振り返って、講堂の後ろの扉がまだ開いていることを確かめる者もいた。真っ先に倒れそうな人を頭の中で思い浮かべる者もいた。

モースは話を続け、自然界もこの講堂のように「食料の不足した閉じられた空間」のようなものだと語った。そのような場面設定では、もっとも強い者だけが生き残って、自分の身体的特徴を後世に伝える。

「この状況が何年も続いたら、未来の人間は現在の人間とまったく違ってくるだろう。力が強くて凶暴なタイプの人間が生まれるだろう」とモースは締めくくった。

それから数週間にわたってモースは進化論に関する講義を続けた。2回目の講義では「生存競争」の概念をさらに突き詰めた。東京大学の聴衆が耳を傾ける中、「戦いで役に立つ形質を持った集団がもっぱら生き延びる」と唱えた。

また、適者生存においては技術的進歩が重要であると説明した。「当然ながら、金属製の武器を作れる集団は骨や矢で戦う集団を打ち負かす」。自然選択は「進んだ種族が生き延びて遅れた種族が滅びる」という原理にほかならない。

戊辰戦争を経験した生物学者

このような軍事への喩えは、19世紀の進化論には付きものだった。

日本でもそのような話にはとりわけ説得力があった。この10年足らず前、日本人は激しい内戦に巻き込まれた。1868年に何人かの武士が同盟を結び、徳川幕府を転覆すべく戦いを始めた。

彼らは、将軍が日本の近代化を妨げていて、外国の軍事的圧力に対しても弱腰だと考えていた。武士たちは江戸まで進撃して幕府軍を倒し、若き明治天皇を皇位に就けた。こうして明治維新と呼ばれる改革が始まった。

東京大学でモースの講演を聴いていた聴衆の中に、この内戦をじかに経験した若き日本人生物学者がいた。その人、石川千代松は1861年に江戸で生まれた。

将軍に仕えていた父親は、日本古来の博物学や医学に関する著作を大量に集めていた。そのため少年時代に石川は、貝原益軒『大和本草』(1709〜1715)などといった書物の多くを学んだ。

そうして博物学、とりわけ動物学に強く惹きつけられた。毎年夏には江戸湾沿岸でチョウやカニを採集した。

しかしそんなのどかな状況がいつまでも続くことはなかった。内戦が勃発して幕府方の人間が追われ、石川の一家も江戸から逃げ出さざるをえなくなった。

1870年代に戻ってきたときには、すでに将軍は退位して、江戸は東京と改称されていた。父親は幕府での地位を失ったが、それでも明治維新は石川に新たなチャンスをもたらした。

1877年に明治天皇が東京大学(旧制、のちに東京帝国大学と改称)の創設を認可した。理学部を備えた日本初の近代的な大学である。それに続いて新たな大学がいくつも作られ、1897年には京都帝国大学が、1907年には東北帝国大学が創設された。

明治維新の間に進められた近代化計画の一環で、そのほかにも全国に研究所や工場、鉄道や造船所が建設された。それとともに日本政府は外国の科学者や工学者を雇いはじめ、新たな教育機関の多くで教鞭を執らせた。

ダーウィンの熱心な信奉者

それまでハーヴァード大学比較動物学博物館に勤めていたモースも、東京大学で生物学を教えるために招かれた一人だった。

1868年から1898年までに明治政府は、おもにイギリスやアメリカ合衆国、フランスやドイツから6000人を超す外国人専門家を雇い、日本で教えさせた。以前の時代からの大きな政策転換だった。徳川幕府は外国人の入国を厳しく制限していたのだ。

石川はそんな明治維新後の改革の恩恵をいち早く受けた一人だった。創設時の1877年に東京大学に入学し、モースに師事した。

毎年モースは石川たち学生を、横浜の南にある小島、江の島に連れていった。この島で石川は、水中から各種海洋生物を採取し、顕微鏡で観察して解剖するという、近代的な生物科学の基本的手法を身につけた。

モースはハーヴァード大学時代に『種の起源』を読んでいて、チャールズ・ダーウィンの熱心な信奉者でもあった。江の島旅行の最中には、長い時間をかけて学生たちに進化論の原理を説いた。

実はモースに東京大学で進化論の連続公開講義をおこなうよう勧めたのは、自然選択の概念に魅了された石川だった。また、モースの講義の内容をのちに日本語に翻訳して、『動物進化論』(1883)というタイトルで世に出したのも石川である。

東京大学を卒業した石川は1885年、ドイツ留学の道を選んだ。

このときすでに政府は、このまま外国人科学者を日本の大学に雇いつづけていたらあまりにも費用がかさみすぎると判断していた。

そこで文部省は、優秀な学生を海外留学させて進んだ科学教育を受けさせたらどうかと提案した。彼らが帰国したら、全国に新設された大学で教職に就かせるというもくろみである。

「先進国に人材を派遣して学ばせない限り、日本は進歩しない」と文部大臣は言い切った。このあといくつかの章で見ていくとおり、19世紀末から20世紀初頭にかけて大きな影響をおよぼした日本人科学者の多くは、外国、おもにイギリスやドイツ、アメリカ合衆国でしばらく学んでいた。

石川はその先駆けの一人で、1885年から1889年までフライベルク大学でドイツ人生物学者アウグスト・ヴァイスマンに師事した。

当時ヴァイスマンは「生殖質理論」を発展させている最中で、精子と卵子によってのみ伝えられる何らかの遺伝物質が存在するはずだと予想していた。

その主張によってヴァイスマンは、生きているうちに獲得した特徴が子孫に受け継がれるという、ダーウィンも支持した古い学説に異議を唱え、現代遺伝学の基礎を築いた。

石川が見つけた細胞分裂の名残

そんなまさに重要な時期に石川はフライベルク大学で学んだ。ヴァイスマンと共同研究もおこない、ドイツを代表する学術誌に6本の共著論文を書いた。

うち一本の論文では、半透明の小さな海洋生物ミジンコの体内で生殖細胞が分裂する様子を観察した結果を報告している。

顕微鏡でミジンコを観察していたところ、卵子が分裂する際に、その端に2個の小さな黒い点が作られるのに気づいた。染色体の複製と細胞の分裂によって生殖細胞が作られる、「減数分裂」と呼ばれるプロセスを観察したのだ。

石川が見つけた黒い点は細胞分裂の名残だった。のちに「極体」と呼ばれるようになるその構造体は、ヴァイスマンの生殖質理論を裏付ける重要な証拠となる。精子と卵子が体細胞とは異なる細胞分裂によって作られるというヴァイスマンの主張が正しいことを示していたのだ。

石川は1889年に日本に帰国して、東京帝国大学で教職に就いた。それから何年にもわたって新たな世代の日本人生物学者を育て、その多くが進化論に重要な貢献を果たす。

ほかの多くの国と同じく、ダーウィン進化論は明治日本の近代化と密接に結びついていた。「生存競争」の概念は生物学者だけでなく政治思想家にも響いた。産業化と軍備増強の必要性を裏付けているとみなされたのだ。

東京大学でのモースの講義に出席した政治学者、加藤弘之(ひろゆき)は、1894年から1895年にかけての日清戦争の直前に次のように述べている。

「自然選択による生存競争は、動植物の世界に当てはまるだけでなく、人間の世界にも同じ切迫性を持って通用する。この宇宙は一つの広大な戦場である」

日本の博物学者が受け入れていた考え方

ダーウィンの学説が人気を集めたのは、多くの日本人博物学者が以前から信じていた事柄を裏付けているように思えたためでもあった。石川も少年時代に日本の自然史に関する旧来の著作を通じて理解していた事柄だ。

17世紀の日本人博物学者、貝原益軒は、「すべての人間は両親のおかげで生まれたのだと言えるが、その起源をさらに掘り下げると、人間は生命の自然法則ゆえに誕生したことが明らかとなる」と記している。

ヨーロッパのキリスト教圏と違って、日本の博物学者は以前から、すべての生命が何らかの共通の起源を持つという、仏教にも神道にも見られる考え方を受け入れていたのだ。

モースもそのことに気づき、「祖国と違って神学的先入観に邪魔されずにダーウィン理論を説明できて幸いだった」と記している。

19世紀初頭の仏教哲学者、鎌田柳泓(りゅうおう)は独自の進化論まで編み出していた。

1822年、ダーウィンがわずか13歳のときに鎌田は、「すべての動植物は一つの種から分岐して多数の種になったに違いない」と書き記している。

このように日本では、進化論の基本的な考え方は目新しいものではなかった。しかしそのメカニズムは目新しかった。「生存競争」というダーウィンの概念は日本人生物学者の想像力をしっかりととらえたのだ。

丘(おか)浅次郎も石川千代松と似たような経歴を歩んだ。明治維新の年1868年に生まれ、大阪で新政府の官僚の息子として育った。

しかし幼少期は悲劇の連続だった。妹が着物の燃える悲惨な事故で命を落とし、翌年には両親も世を去ったのだ。一人残された丘は東京に移って親戚に育てられた。

石川と同じく東京帝国大学で動物学を学び、1891年に卒業した。そしてドイツへの留学生に選ばれ、同じくフライベルク大学でアウグスト・ヴァイスマンのもと研鑽を積んだ。

1897年に日本に帰国して、東京高等師範学校の教授となった。それから数十年にわたって、日本に進化論を広める中心的な役割を果たした。

東京高等師範学校での講義をもとにした著作『進化論講話』(1904)は売れに売れた。

また丘は自身でも進化論に数々の重要な貢献を果たした。

丘によるコケムシの観察

丘の専門はコケムシの生態学だった。この奇妙な生物は高名なドイツ人生物学者エルンスト・ヘッケルによって研究されていて、丘もドイツ語でそれを学んだのだろう。植物と動物の境界線をあいまいにするような存在だった。

コケムシの個体は何千万もの単細胞生物の群体から構成されている。それらの細胞が集まると、植物そっくりの構造体を作りはじめる。

丘は東京のあちこちに出向いては自分の手でコケムシを採集した。水たまり脇の下草の中を探して小さなガラス瓶に標本を採り、研究室に持ち帰っては顕微鏡で観察した。

丘いわくコケムシは、自然界をさまざまな生物種に分けるという生物学者の方法が間違いであることを物語っている。「明確な境界線を引くのは不可能である」。

これはダーウィン『種の起源』の礎となった発想そのものだ。ある生物が別の生物に進化しうるとしたら、それを特定の生物種と表現することに何の意味があるだろう?

丘はこの考え方をさらに推し進めて、動物と植物など、自然界のもっとも基本的な区分すらももはや意味がないと論じた。

動物がときに植物のように、植物がときに動物のように振る舞う。「自然界に見られるものはすべて変化の連続である」と丘は結論づけている。

丘が著作『進化論講話』を世に出した1904年、日露戦争が勃発した。日本軍とロシア軍が朝鮮半島と満州の覇権をめぐって18カ月にわたり戦火を交えた。

20世紀で初となるこの近代戦で20万の命が失われた。最終的に日本が勝利したが、多くの日本人は戦争の意義に疑問を抱いていた。

丘は再びコケムシについて考えはじめた。コケムシは人間社会とかなり似たような振る舞いを見せ、個々の細胞が集結して一つの強力な軍隊として戦う。一つの群体の中では各細胞が資源を共有してともに働く。

丘はさらに、ピペットでシャーレに藻を入れてコケムシの群体に食べさせる実験もおこなった。群体のことを丘はしばしば「国家」と呼んだ。

「餌を摂取するとその栄養分は必ず均等に分配される」と丘は報告している。コケムシの個々の細胞は明らかに協力しあうことができるのだ。しかしその協力関係が争いを招くこともある。

丘は1つの容器に2つの群体を入れて同じ実験をおこなった。するとその2つの群体が戦い、最後には一方だけが生き残った。さらに群体の中には、毒で満たされた特別な細胞を送り出して敵を攻撃するものもあった。

化学兵器も進化的適応の一つであって、生存競争の必然的な産物であるように思われた。日本軍も、第一次世界大戦で塩素ガスが広く使われるのに先駆けて、日露戦争でヒ素化合物を使用した。

「その点で人間もほかの生物と少しも変わらない」と丘は結論づけた。恐ろしいことに、一見無害な生物学の概念が最悪の暴力行為を正当化するのに用いられかねないことを、この一件は物語っている。

戦争と「生存競争」の概念

ダーウィンの学説が日本に入ってきたのは、1868年の明治維新に始まる歴史的な変化の時代だった。「生存競争」の概念が日本の科学者に響いたのは、自分たちの生きる世界を反映しているように思えたからだ。

1894年から1895年の日清戦争と1904年から1905年の日露戦争は、丘が「生と死の法則」と呼んだ原理を裏付けているように思われた。

丘いわく、人間も彼が研究室で調べたコケムシと何ら変わらず、集まって大きな集団を作り、野蛮な戦争に突入する。

この地域で日本の最大の宿敵だった中国において進化論に対する関心が高まったのも、それとほぼ同じような形で軍事対立をとらえていたためだった。

(翻訳:水谷淳)

(ジェイムズ・ポスケット : ウォーリック大学准教授)