家康が血縁ではなく、実力で重宝したある男とは?写真は江戸城跡(写真: taktak99 / PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集めた「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)。今回は番外編として、身内に甘かった家康が、血縁ではなく実力で重宝したある男について紹介します。

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「初代・京都所司代」は自分の身内に

豊臣家の影響力はまだ色濃いものの、関ヶ原の戦いに勝利したことで、実質的に武家のリーダーとなった家康。これから新しい組織をつくろうしたときに、どんな人事を行ったのだろうか。

「京都所司代」というポジションに注目すると、家康が重視した人間関係が見えてくる。

京都所司代とは、京都の監視と治安維持のために、もともと織田信長が置いた職名のこと。近畿8カ国の訴訟を処理するだけではなく、朝廷や西国大名を監視するという重要な役割も担っており、幕府の老中につぐ最重要役職とされていた。

家康は、初代の京都所司代に、奥平信昌を任命したものの、たったの1年で交代させている。「信昌では京都所司代が務まらないと、家康が判断した」ともいわれているが、そもそも家康は、信昌にそれほど大きな期待をしていなかったと思われる。

にもかかわらず、重要な役職につけたのは、信昌が家康の長女・亀姫の夫だったからにほかならない。

家康は、関ヶ原の戦いののち、次女・督姫の婿である池田輝政や、三女・振姫の婿である蒲生秀行に大幅な加増を行っている。

そんな身内に甘かった家康が、同じく婿にあたる信昌を京都所司代に任命した理由について、歴史学者の本郷和人氏はこう分析している。

「家康は長女・亀姫の婿である信昌も厚遇したい。それで京都所司代をしばらく任せて、その功績に報いるというかたちをとった」

事実、家康は信昌にわずか1年だけ京都所司代を務めさせると、上野国の小幡3万石から美濃国の加納10万石へ加増転封を行っている。もし、家康が不適格を理由に、信昌を京都所司代から外したとすれば、このような厚遇はありえないだろう。

関ヶ原の戦い後も、厳密には豊臣家の最有力家臣でしかなかった家康にとって、婿は自分を裏切ることのない存在として貴重だった。「京都所司代の初代」というポジションは、大事な婿に箔をつけるために、利用されることになったようだ。

家康に重宝された板倉勝重

ならば、血縁ではなく純粋な実力で家康が重用したのは、誰だったのか。その1人が、板倉勝重である。家康は京都所司代を1年だけ信昌にやらせたあとは、勝重に引き継がせ、実に19年にもわたって任せている。


板倉勝重を開基とする妙安寺(写真: mr.アルプ / PIXTA)

勝重は京都所司代になる前にも、駿府町奉行、小田原地奉行、江戸町奉行、京都奉行を経験し、数多くの事件と訴訟を裁定した。見事な裁きぶりは『徳川実紀』で、こんなふうに評されている。

「勝重の裁きとなれば、訴訟に負けた者すらも自分の罪を悔いて、奉行を恨まなかった」

まさに理想的な「名奉行」といえるだろう。江戸の名奉行といえば、大岡越前が最もよく知られているが、有名な「三方一両損」を始めに、越前のエピソードには、勝重の裁きが元になっているものがいくつかある。さしずめ「元祖・江戸の名奉行」といったところだろうか。

もっとも勝重の裁きを収録した『板倉政要』もまた脚色が指摘されている。そのため、そのまま事実とは受け取れないが、伝説化したのもまた名奉行として、勝重がそれだけ知られていたがゆえだろう。

新たに駿府町奉行を命じられた家康の家臣、彦坂光正に対して、勝重はこんなアドバイスをしたとも伝えられている。

「町奉行の守るべきことはただ1つ、町人から賄賂を受け取らないことだ」

賄賂を一切、受け付けなかった勝重は、係争者から賄賂として浅瓜を贈られたときは、そのことを公にしたうえで、公平にジャッジし、敗訴を言い渡している。

京都所司代に任命されるやいなや、妻に仕事への口出しを禁じたのも、妻への賄賂を無効化するためだったというから、徹底した清廉潔白ぶりである。

親子ともに名奉行ぶりを見せた

勝重はもともと僧侶だったが、父が討ち死にしたことから、板倉家は断絶。そんなときに勝重を家臣として召し抱えてくれたのが、家康だった。

勝重が家康に仕えたのは天正9(1581)年で、家康が甲斐の武田勝頼と戦を行っていた頃だった。

召し抱えられたとき、勝重はすでに37歳だったが、その後、家康の信用を勝ち取って、順調に出世を重ねている。

42歳で駿府町奉行に任じられ、その4年後に、家康が関東に移封すると、関東代官、小田原地奉行、江戸町奉行を命じられている。いざというときに、家康が頼りにしていることがよくわかる。

57歳の時に京都奉行となり、その2年後に京都所司代に就任。76歳まで続けたあとに、息子の重宗に京都所司代の職を譲った。

重宗もまた名奉行として活躍したため、勝重と重宗の二人による名奉行話が庶民によって集められ、元禄期に『板倉政要』としてまとめられている。

戦乱に明け暮れた戦国時代において庶民が何より願ったのが、安心して暮らせる社会であることはいうまでもない。家康は信頼できる家臣に、治安を取り仕切る重要なポジションを任せることで、新たな時代にふさわしい、安定した社会基盤をつくろうとしたのである。

【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
丹野顯『江戸の名奉行43人の実録列伝』(文春文庫)
本郷和人「【本郷和人の日本史ナナメ読み(70)】どケチ家康、娘婿には甘かった?」(産経ニュース2016年1月18日)

(真山 知幸 : 著述家)