ヒトの生死にも関わる「水」。入浴習慣と宗教、水に関係する病気の流行の歴史について紹介します(写真:c6210/PIXTA)

地球で生活する私たち人間のくらしは、産業ごとの成長や地道な研究活動により発展を遂げてきました。

生活に欠かせない存在(物質・元素)には、さまざまありますが、中でももっとも身近で、ヒトの生死にも関わるのが「水」でしょう。

飲む、手を洗う、食器を洗う、お風呂で体を流す、お手洗いで水を流す、熱した食品を冷ます……など、多様な使い道に恵まれた「水」は、じつは世界の歴史とも密接に関係しているのです。

今回は、左巻健男氏が上梓した『化学で世界はすべて読み解ける』より、壮大な人類の歴史をひも解いていきます。

人類がお風呂に入るようになったのはいつ?

水と衛生の関係についてお話ししましょう。

衛生とは、健康を保ち、病気の予防、治癒をはかることです。

衛生と水の関係では、きれいな水、安全な水が必要です。安全な水を飲むこと、体をきれいな水で洗うこと、大小便をうまく始末すること、伝染病(感染症)の病原体を含む水への対処などです。

まず、入浴文化の移り変わりを見ていきましょう。

入浴は、体の清潔のために体を水に浸すこと。海、川、池などに入る場合も、入浴用の施設(風呂、サウナ、シャワーなど)を使う場合もあります。

入浴は当たり前のことと思うかもしれませんが、ヨーロッパでは入浴が避けられた時代が長く続いたのです。

古代ヒンズー教徒は、肉体を清潔に保つことが戒律にあったため、紀元前3000年頃には、多くの家庭にお風呂の設備があったと考えられています。

例えば、インダス文明の都市遺跡であるモヘンジョダロ遺跡は、焼成レンガを積み上げてできた城砦や市街地からなり、沐浴場や上下水道が整えられていました。

精巧にできたお風呂は、ギリシアのクレタ島にある青銅器時代最大の遺跡クノッソスのもので、紀元前1700年ぐらいとされています。石の管で給排水する浴槽のお風呂に入っていました。

そこでは、頭上に水槽のある穴便所も使っていました。頭上に水槽があることから、世界最古の水洗便所ではないかと考えられています。

雨水を貯め、雨が降らないときには近くの溜め池からバケツで水を汲んで入れるように、設計されていたということです。

紀元前1500年頃には、エジプトの貴族の家に給湯、給水用の銅管が配置されていたということが、遺跡の発掘により明らかになっています。

これも宗教儀式上、必要不可欠なしきたりであり、聖職者たちは1日に4回も入浴、おそらく冷水浴をしていました。

宗教的な、いわゆる沐浴の習慣は、非常に長い間ユダヤ人に受け継がれていきます。「肉体の清潔は精神の正常に等しい」ということで、 ダビデとソロモンが治めた紀元前1000年から紀元前930年にかけては、パレスチナ中に精巧な水道設備が敷設されていたということです。

古代ローマ人のお風呂愛はお湯より熱かった!?

紀元前2世紀頃のローマ人は、大規模な公衆浴場施設をつくり、優雅な生活を好んでいました。

このような浴場は社交の場でもありました。そこには庭園があり、売店や図書室、また詩の朗読をするためのラウンジまで完備していました。

今でもカラカラ浴場が残っています。とても大きな浴場で、皇帝カラカラがつくらせた浴場です。そこでは、健康と美容に関する多種多様なサービスを受けることができました。

例えば、巨大な建物の中に、体に油を塗って汚れを落とす部屋や、温かい水、冷水の浴槽やサウナルームもあり、シャンプー、香りつけ、カーリングの髪を整えるコーナーやマニキュアのコーナー、運動をする部屋もありました。

運動し、汗を洗い流し、頭や手足などの手入れをした後、図書室で読書を楽しむこともできれば、講堂に集まって哲学や芸術を論じることもできたそうです。

カラカラ浴場は、一度に2500人の入場も可能だったといわれています。

5世紀にローマが滅亡すると、ヨーロッパは中世という時代に変わっていきます。大浴場は壊され、今は修復され観光施設になっていますが、水道橋もかなり破壊されました。

その後、中世末期まで入浴や衛生という考え方がなくなる時代が来るわけです。それはなぜなのでしょうか?

キリスト教の厳格な戒律が入浴の習慣に影響

1つの原因は、キリスト教が権力と一体化し、キリスト教の戒律が人々の生活に大きな影響を与えたことです。

当時のキリスト教は厳格で、「いかなる肉欲もできる限り制すべきである。全身浴というお風呂で裸になることは、肉体を完全にさらし、誘惑に身を委ねることになるから罪深いことである」という教えが、ヨーロッパのほぼ全域に広がりました。

そのため、全身を水に浸すのは、洗礼を受けるときぐらいで、その後は無縁になるわけです。

そうすると、人々は滅多に全身浴することがなくなりますから、体がとても臭くなります。それで香水が発達したのですが、香水を使うことができたのは、金持ちだけ。庶民はみんな、それぞれの体から悪臭を発することになりました。

公衆浴場や自分の家の風呂にかかわらず、入浴することがなくなってくると、家の中にお風呂をつくろうなどという考えも消えうせます。

そして社会のあらゆる階層で、屋外の便所・野外の穴や溝便所・寝室用の便器(しびん)が、当たり前になっていきました。キリスト教の厳格さが、衛生観念の息の根を止めたといってもよいでしょう。

その後、何百年もの間、病気は日常茶飯事になり、いくつもの町や村が伝染病によって滅ぼされていきます。

そんな中、1500年代に宗教改革が起こるのですが、衛生観念を無視する点は変わらなかったといいます。

宗教改革によってキリスト教は、大きくプロテスタントとカトリックに分かれました。しかし両者は「相手より自分のほうが肉欲を抑制している」ということで競い合います。そして共に「入浴はとても罪深いものだ」と主張しました。

そのため、一生の間、石鹸や水に肌をさらさない人々が、大多数になっていきました。

2000年前、古代ローマ帝国では当たり前に発達していた入浴設備は無視され、無きに等しい存在になってしまったわけです。

ヴェルサイユ宮殿には、トイレがなかった?

中世のヨーロッパでは、宮殿においてさえ、同様の衛生状態でした。当時、フランスの雑誌が次のような記事を書いています。

「パリはひどい。道路には嫌な臭いが立ち込め、外出もできない。道行く大勢の人々は悪臭を放ち、その臭いこと。とても耐えられない」

当時、排泄物は瓶に溜められていました。

では、それをどう処理していたのでしょうか?

それを処理する業者もいたそうですが、お金が払えない家は、何と夜間、暗闇に乗じて2階などから道路に中身を捨てていたのです。

17世紀にヴェルサイユ宮殿がつくられます。そこにはフランス国王と一族、王侯貴族、臣下や召使いなど約3000人が住むことになります。

ヴェルサイユ宮殿の初期建設工事では、トイレやバスルームにも、水道設備は敷設されていませんでした。

汚物が下の受け皿に溜まる腰かけ式便器が使用されていましたが、200〜300個ぐらいしかなく、何千人もお客が来るようなイベントの場合にはまったく足りません。そうすると、あらゆるところが排泄場になってしまうわけです。

ヴェルサイユ宮殿には、豪華な庭園がありましたが、その庭園が排泄場になってしまいました。

大きなイベントがヴェルサイユ宮殿で行われるとき、一部の参加者は召使いに、用を足す「おまる」という携帯用便器を持たせて参加しました。便器に溜まった汚物は、召使いたちが庭に捨てていました。

そこで怒ったのは、庭園を管理している庭師でした。彼らは「立ち入り禁止」の札を立て、人が庭園に入らないようにしてしまいました。「立ち入り禁止」の札を、フランス語でエチケット(étiquette)といいました。そこからエチケットが、今のような広い意味で使われるようになったといわれています。

中世ヨーロッパでは、女性もどこでも用が足せるように裾の広がったスカートを穿くようになりました。

ところが道路は汚物でぬかるみになっています。かかとの低い靴では、ドレスの裾に汚物がついてしまいます。それを避けるため、女性は高い靴、つまりハイヒールを履くようになりました。

しかし、今のようなかかとだけが高いハイヒールではありません。つま先もかかとも両方高くないとダメなわけです。

また、建物の2階3階の窓から、便器に溜めた排泄物を道路に投げてしまう人々が多かったので、道路の端っこを歩くと汚物がかかってしまいます。

そのため、男性は女性が道の真ん中を歩くようにリードするようになりました。

こうして、紳士は淑女が道の真ん中を歩くようにエスコートする習慣ができ、上からの汚物がかかっても中の衣服が汚れないように、マントを着たという時代がありました。

コレラの原因を見抜いた! 天才医師のすごい仮説

しかし、悪い衛生状況は変わっていきます。それは伝染病が蔓延し、人々が多数亡くなっていったからです。

「水系感染症」といわれる病気があります。病原微生物(細菌類、ウイルス類、原生動物類)に汚染された水を介して感染する感染症です。

その1つがコレラです。昔からパンデミックを起こしています。

コレラは、感染者の便で汚染された水や食べ物を口から取ることによって感染し、激しい下痢や嘔吐を引き起こす、死亡率が高い病気でした。

なお、現在流行しているコレラは、19世紀以前に流行し、たくさんの死者を出したコレラとは別の型で、死亡率も2%程度です。

原因のコレラ菌は、コッホという微生物学者が発見しますが、それよりも前の1855年、まだコレラの原因がわかっていなかった時代に、前年の調査結果を取り入れた論文を発表し、水が原因だということを見抜いたジョン・スノウという医師がいました。

スノウの業績は、衛生化学という学問分野の事はじめになるのではないかといわれています。

衛生化学とは、ヒトの健康な生活の確保と病気の予防のため、食品や環境中のあらゆる物質とヒトとの関わりを探究する学問分野です。

この病気の原因については、当時は悪い空気を「ミアズマ」といいましたが、それを吸うことによって、病気が起こると考えられていたのです。

ミアズマというのは、ギリシア語で「不純物、汚染」といった意味を持っています。コレラは何度も大流行を起こし、多数の人々が死んでいきました。

スノウは、「コレラはミアズマで起こるのではない。水に含まれている何かが原因している」と見抜きました。

スノウが実践したのは、現代の「疫学」だった

彼は、ロンドンでコレラの流行が起きた際、水を供給する会社の違いによって、コレラの死亡率が異なることに気づきます。

取水口が下流にあり、そのため汚染された水を供給する会社の水を飲んでいる家庭では、コレラの死亡率が高かったのです。

ミアズマ説では、水を供給する会社が違うだけでコレラによる死亡率が異なることを説明できません。

スノウは1854年にロンドンのブロード街でコレラが流行したとき、死者が出た家を一軒一軒訪ねて歩き、どこの水を飲んだかを聞いて、それを地図上にプロットして分布図をつくりました。

そうすると、ほとんどの死者がブロード街の中央にある手押し井戸の近くの住民でした。また、この井戸から離れている家の人でコレラにかかったのは、井戸の近くの学校に通っている子どもであったり、井戸の近くのレストランやコーヒー店の客であったりと、その井戸の水を飲んでいた人たちであったことがわかりました。


そこでスノウは、井戸の手押しポンプのハンドルを取り外し、その井戸を使用禁止にしました。こうして、コレラの流行は収まりました。

今の学問分野で疫学という分野がありますが、スノウはまさに疫学を実践し、その重要性を明らかにしたのです。

疫学というのは、集団を観察し、病気になる人とならない人、それぞれの人の生活環境や生活習慣などにおいて何が違うのかを調べ、原因を明らかにしていく学問です。

のちに、肥料の汚水溜めにコレラ患者の糞便が混入し、その汚水溜めと井戸が近かったことから、汚水溜めから井戸にコレラ菌が入り込んだということがわかりました。

コッホが「コレラ菌という細菌がコレラの原因である」という報告したのは、スノウが見抜いた何と約30年後のことでした。

(左巻 健男 : 東京大学非常勤講師。元法政大学教授、『RikaTan(理科の探検)』誌編集長)