家康公を御祭神として祀る日光東照宮(写真: kazukiatuko / PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めた。今回は2代将軍の徳川秀忠が発布した「武家諸法度」から、徳川幕府が約260年間安泰の世を築いた理由をひもとく。

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慶長20年(1615)5月の大坂夏の陣の終結により、日本に天下泰平がもたらされた。

織田信長は天下を統一しかけたが、家臣・明智光秀の謀反により頓挫。信長の後継者・秀吉は天下を統一したものの、朝鮮半島でも戦争を繰り広げ、秀吉の死後は関ヶ原の戦い、大坂の陣などの戦が続いてきた。

約260年続いた江戸時代のなかで、島原の乱(1637〜1638年)という内乱はあったものの、幕末期の動乱を除けば、日本列島に平和が訪れたことになる。つまり、大坂の陣は「戦国日本」の終わりを告げる戦いであった。

では、徳川政権は、平和な日本をどのように作ったのか。

秀忠が発布した武家諸法度の中身

2代将軍・徳川秀忠は、元和元年(1615)7月7日、諸大名を伏見城に集め、全13カ条の法令を発布する。これが有名な「武家諸法度」(元和令)である。

これは、金地院崇伝が徳川家康の命令により、起草したと伝わる。では武家諸法度には何が書いてあるのか。以下それぞれの内容をみていこう。

第1条:「文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムヘキ事」。

「文を左にし、武を右にするのは、古の法」として、文武両道に励むことを推奨しているが、「弓馬はこれ武家の要枢」との言葉もあり、武芸を嗜むことをいっそう重んじている。「治に乱を忘れず、何ぞ修錬を励まざらんや」との一文も武芸に励むことを強調している。

第2条:「群飲佚游ヲ制スヘキ事」。

好色にふけり、博打をなりわいとするのを禁じ、節制が求められた。

第3条:「法度ヲ背ク輩、国々ニ隠シ置クヘカラサル事」。

「法はこれ礼節の本」として、法に背く者は、罪が重いとされた。

第4条:「国々ノ大名、小名并ヒニ諸給人ハ、各々相抱ウルノ士卒、反逆ヲナシ殺害ノ告有ラバ、速ヤカニ追出スヘキ事」。

家臣に叛逆・殺人の罪があれば、すぐに追放せよ、との意味だ。

第5条:「自今以後、国人ノ外、他国ノ者ヲ交置スヘカラサル事」。

自分の国に、他国の者をとどめてはいけないとされた。

第6条:「諸国ノ居城、修補ヲナスト雖、必ス言上スヘシ。況ンヤ新儀ノ構営堅ク停止セシムル事」。

大名などが城の修理をするときは、必ず報告しなければいけない。また新たな築城は停止する、とされた。

婚姻や服装に関する規定も

第7条:「隣国於テ新儀ヲ企テ徒党ヲ結フ者之バ、早速ニ言上致スヘキ事」。

隣国において、新たに不穏な動きが出てきたり、仲間を集めて徒党を組む者がいたら、速やかに届けなければならない。


江戸城・伏見櫓(写真: まちゃー / PIXTA)

第8条:「私ニ婚姻を締フヘカラサル事」。

幕府の許可なく、大名同士が勝手に婚姻の約束をしてはならない。

第9条:「諸大名参勤作法ノ事」。

この場合の参勤というのは、いわゆる参勤交代のことではない。大名が天皇に謁見する「作法」のことだ。

「多勢を引き連れていってはいけない。100万石以下20万石以上の大名は20騎を超えてはならない。10万石以下はそれ相応の数とする」と細かく規定された。

第10条:「衣装ノ品、混雑スヘカラサル事」。

服装などは身分に則したもの、とされた。

第11条:「雑人、恣ニ乗輿スヘカラサル事」。

身分の低い者がみだりに輿に乗ってはならない。

第12条:「諸国ノ諸侍、倹約ヲ用イラルヘキ事」。

諸国の侍は、倹約に努めなければならない。

第13条:「国主ハ政務ノ器用ヲ撰フヘキ事」。

大名は、政治能力のある者を抜擢しなければならない。「治国の道、人を得るにあり」とされ、国に善人が多ければ国が栄え、国に悪人が多ければ国が衰えるとされた。

元和元年の武家諸法度の内容を整理すると「文武奨励」「遊楽禁止」「法に背いた者の処罰」「叛逆者・殺人犯の隠匿禁止」「他国の者を自国に住まわせない」「城郭修理許可制」「徒党禁止」「私婚禁止」「参勤作法」「衣装統制」「乗輿制限」「倹約奨励」「国主の在り方」ということになるだろう。

徳川幕府は、この武家諸法度発布よりも以前、家康と豊臣秀頼の会見直後の慶長16年(1611)4月にも「三カ条誓詞」というものを諸大名に出して、誓約させている。

そこには「右大将家(源頼朝)以後、代々の幕府(将軍)の法式のように、これを仰ぎ守ること」「法に背き、上意に背く者は、国々に隠し置いてはならない」「家臣がもし叛逆・殺人を犯したならば、かくまってはならない」とあった。

掟を破った人はどうなったのか

三カ条誓詞は武家諸法度と被る条文内容もあるが、どちらの法令も、徳川幕府は鎌倉幕府の源頼朝から足利幕府を経て続いてきた武家政治の伝統を継承するものと認識され、それが徳川幕府の統治(政治)の正当性を支えるものとされたのである。

ちなみに、武家諸法度は、8代将軍・徳川吉宗(在職1716〜1745年)の時代に至るまで5度の改訂がなされている。有名なものが、3代将軍・徳川家光の時代の「寛永令」(1635年、19カ条)だ。

この時に「大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ」と、参勤交代の規定が登場した。また「500石以上の船」を作ることの停止も盛り込まれた。武家諸法度の違反者は厳罰に処された。

武家諸法度を破った人はいるのか。有名な人物では、福島正則が挙げられる。彼は、元和5年(1619)、幕府の許可を得ず、広島城を修繕したことから、改易となったのだ。

福島正則は信濃・越後国内で4万5000石を与えられ、高井野(長野県上高井郡高山村)にて謹慎、寛永元年(1624)に同地で亡くなった。

武家諸法度は、将軍の代替りごとに諸大名にこれを読み聞かせ、違反した大名には厳罰が加えられる、厳しい内容だったのだ。

(主要参考文献一覧)
・笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016)
・藤井讓治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・本多隆成『徳川家康の決断』(中央公論新社、2022)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)