「若者が消えた」と言われている渋谷を軸に、「若者の街」の変遷について考える(写真:node/PIXTA)

ふとした用事で渋谷を歩いていたときのことだ。スクランブル交差点を見回して気づいたことがある。

「若者の姿が少ない」

20代と思しきカップルなどはちらほら目につくが、10代と思しき人々は少ない。高校の制服を着ている人となると、ほぼいないような気がする。そして、外国人がとても多い。

都市開発と変化し続けている「若者の街」

私だけが気付いたことのようではないようだ。

ネット上を見てみると、「渋谷から若者が消えた」「渋谷はもう若者の街ではない」といった記事が散見される。中には「渋谷はおじさんの街化している」という、少し過激な表現で、こうした渋谷に集う人々の変化を解説している記事もある(「渋谷は「おじさんの街」化、新大久保は10代が溢れる若者の街に…予期せぬ社会的背景」/「ビジネスジャーナル」2023年7月3日)。

この記事の中で、オラガ総研代表の牧野知弘は、近年の渋谷の再開発によってオフィスが増加したことや、ハイブランドショップが増えたことをその原因として挙げている。渋谷の都市開発のターゲット層が10代などの若者ではなくなってきている、という。

いずれにしても、このような言説は真新しいものではなく、ここ数年でしばしば語られることだ。しかし、そもそも私たちが忘れていることがある。それは、「若者の街」はつねに変化し続けている、ということだ。

「街」は変化し続けるものであり、そうであれば当然「若者の街」も変化していくはずだ。そこでこの記事では、渋谷を軸として若者の街がどんな理由で、どのように変化してきたのかについて考えてみよう。

東京大学名誉教授で社会学者の吉見俊哉は、『都市のドラマトゥルギー』という著作の中で若者たちが集まる「盛り場」、いわば「若者の街」の変遷について語っている。同書では、戦前は浅草から銀座へ、戦後は新宿から渋谷へと盛り場が移り変わってきたことが指摘されている。

現在の浅草や銀座から、そこが「若者の街」であった面影を探すのは難しいかもしれない。しかし、1910年代の浅草六区はハイカラな映画館が立ち並び、多くの若者がこぞって向かう場所だったし、1920年代の銀座は、いわゆる「モガ(モダン・ガール)」「モボ(モダン・ボーイ)」たちが集う街だった。

とはいえ、そこから若者がいなくなったとしても、その街自体の特徴が消えるわけではない。銀座にせよ浅草にせよ、それらの街は東京の都市の中で独特のポジションを持っている。浅草なら、東京スカイツリーと合わせて来日観光客向けの街としての側面が強いし、銀座は、海外ブランドの1号店がしばしば出店することによって「一流品が集う街」としてのイメージがある。

もしも街に1つの「人生」のようなものがあるのだとしたら、銀座や浅草はかつて「若者の街」としての姿を経験し、現在はそこから成長して円熟した街になったといえるかもしれない。そのように「街」が変化していくことは当然のことである以上、当然「若者の街」も同じであり続けるはずはない。

そうした街の人生を大きく左右するのが、社会情勢や災害などの外的要因だ。例えば、浅草から銀座へと盛り場が移り変わってきた要因には、1923年に発生した関東大震災の影響が大きい。当時、浅草のシンボルマーク的存在だった凌雲閣という12階建ての塔が崩壊し、そこから震災復興の時期を経て、盛り場は銀座へ移っていく。

さまざまな要因が相互に作用しながら、街は変遷し、その人生をたどっていく。

若者の街「渋谷」の誕生

では、渋谷という街はどのような人生をたどってきたのだろうか。

渋谷が大きく変化したのは、1970年代である。もともと、戦前から東急グループが東横百貨店を作り、渋谷の開発に力を入れていたが、思うように開発が進まなかった。というのも、渋谷の隣にある新宿が若者の街として人気だったからである。

1960年代、若者の街といえば新宿だった。しかし1968年に発生した新左翼による暴動事件・新宿騒擾(そうじょう)事件、そして西口広場を占拠して行われた「新宿西口フォークゲリラ」以後、学生運動の沈静化と共に新宿自体が「若者の街」としての姿を失っていく。おりしも1971年には京王プラザホテルが誕生し、新宿西口には高層ビルが次々と建てられ、オフィス街としての姿が強くなっていく。

そんな中、1973年に西武百貨店などの流通部門を担ったセゾングループが「渋谷パルコ」を作ったことから、渋谷は若者たちに注目される街になっていく。セゾングループは糸井重里などを用いた巧みな広告戦略によって、当時の消費文化の最先端を切り開いていった。渋谷は一躍最先端の文化が集まる街となり、若者たちがそこに集うようになる。

また、1990年代前半には、女子高生のギャル、通称「コギャル」が渋谷センター街や東急の商業ビル「109」に集まるようになる。コギャルたちは渋谷センター街を歩きながらそのスタイルを道ゆく人々に見せ、ストリートカルチャーの一環として彼女たちのファッションが全国に広まっていく。

加えて、数々の文化的なコンテンツを供給する施設が渋谷に集中していたことも見逃せない。例えば、渋谷には数多くのレコードショップなども立ち並んでいたが、1995年には現在の「タワーレコード 渋谷店」が誕生している。1500坪を超える売り場面積と、在庫枚数70万枚という在庫枚数で世界最大規模のカルチャーストアとなった。1999年には「TSUTAYA」がスクランブル交差点に面する位置に誕生した(ちなみに、現在は一時閉店し、2024年にリニューアルされる)。


渋谷の文化を担ってきたTSUTAYA。2024年春にリニューアルオープンする見込みだ(筆者撮影)

このTSUTAYAは数々の貴重なVHSをレンタルできる場所としても知られ、日本における映像文化を陰で支え続けた存在でもある。筆者の周りでも、「サブスクに目当ての作品がないときは、渋谷のTSUTAYAに行け」と言う映像クリエイターたちがいた。

渋谷という街の人生を大きく変えたのは、やはりセゾングループによる渋谷の開発だろう。それによって渋谷には「若者の街」というイメージが根付き、以後さまざまなユースカルチャーがそこで生まれてきた。

「渋谷」から若者が消えた理由

こうした若者の街としての渋谷の姿に変化が起こったのが、2010年代だ。ここには2つの理由がある。1つは若者の文化の中心が、ネット上に移り変わってきたこと。2つ目は、渋谷という街自体が変化してきたことだ。

1つ目だが、2000年代後半に、メジャーなSNSがほとんどその姿を現す。2007年にはYouTubeの日本版がサービスが開始し、2008年にTwitterとFacebookの日本語版サービスが開始する。また、それより少し後の2014年にはInstagramの日本語版サービスが始まる。そして、なにより2000年代後半からスマートフォンの急速な普及が始まる。

こうしたSNS、ネットの急速な発展を通して、そもそもリアルな街という場所に若者を惹きつける要因がなくなってしまった。かつては実際に会わなければコミュニケーションができないがために、街が必要だったのが、そもそもデバイス上でコミュニケーションが完結してしまうのである。そうなると、必然的に渋谷という街のポジションは低下する。

筆者が以前、教職をしていたとき、高校生に「最近、みんなはどこで遊ぶの?」と聞いてみたことがある。すると「遊びに行かない。オンラインゲームで友達と遊んでいる」と言われて驚いた。もちろんこれは私の個人的な体験に過ぎないが、かつてよりも家の中で友人たちとつながる機会が増えているのは間違いない。

こうした流れを決定づけたのがコロナ禍であろう。そもそもリアルな街に出ること自体を禁じられ、全世界的にネット世界の普段使いが広がった現在、リアルな街に対する需要が低下していると言わざるをえない。

2つ目の、渋谷という街自体の変化については、2010年から2020年にかけての渋谷の再開発が大きな影響を及ぼしている。この10年の間に渋谷には、渋谷ヒカリエ(2012年)、渋谷ストリーム(2018年)、渋谷スクランブルスクエア(2019年)、渋谷フクラス(2019年)が誕生。それぞれ、オフィスビルが入居している場合が多く、それに合わせてこうしたビルのテナントも、30〜40代を対象とするハイブランドが多くなった。こうした再開発が、若年層を渋谷から遠ざけているのだろう。


2019年にリニューアルオープンした渋谷パルコ(筆者撮影)

渋谷に訪れた人がつねに持つ印象として「ずっと工事をしているな、この街……」ということがある。本当に、いつ訪れても、どこかしらが白いフェンスに覆われているのである。

かつて、浅草が関東大震災によって壊滅した結果、若者が集う街が銀座へと変化したというのは先にも書いたとおりだが、渋谷の再開発もまた、ある意味ではそれぐらい、根本的に街を変えてしまうようなインパクトを持っていると思える。

この2つの要因が合わさって、渋谷という街は変化を余儀なくされたのだと筆者には思われる。

渋谷から消えた若者はどこへ行ったのか

では、渋谷から姿を消した若者たちはいったいどこにいるのだろうか。新宿から渋谷へ、という流れを描いてきた若者の流れについて最後に私が考えている見取り図を提示してみよう。

筆者が東京を散歩していて若者が多いと感じるのは、例えば新大久保や下北沢、三軒茶屋のような副都心周辺エリア、あるいは清澄白河・門前仲町といった東東京エリアである。

これらの街に共通している点は2つある。

1つ目は街としてのスケールが小さいことである。渋谷や新宿のように大きい通りや大きい建物がある街とは異なり、街全体が小さい路地のような道で構成され、こぢんまりとした雰囲気を持っている。人間のスケール感にマッチした街だということもできるかもしれない。全体としては「大」から「小」へ、といった街への志向が表れているとも分析できるだろう。

2つ目の共通点についてだが、これらの街のほとんどは、若者が多く住む街でもあるということである。とくに東東京エリアは東京スカイツリー開業以後、若者が多く住むようになったことでも有名だ。

これは何を意味するか。つまり、若者が「地元」からあまり動かなくなったということではないか。

すでに一部の若者に「地元志向」が強く見られることはこれまで語られてきた。ましてや、現在はアフターコロナの時代で、人類史上に例を見ないほどに「家」という場所が重要になっている時代である。「地元志向」の高まりは過去に例を見ないほどだろう。

渋谷にも「地元感覚」で若者が集まる場所がある

実は、以上の文脈でいえば、渋谷の中にも若者が集まる場所がないわけではない。


すっかりおじさんの街と化したと言われる渋谷だが、「MIYASHITA PARK」の飲食街のように、若者で混雑するエリアもある(筆者撮影)

例えば、2020年に誕生した「MIYASHITA PARK」にある「食とエンターテインメントの融合施設」である「渋谷横丁」などは若年層の利用も多いように見受けられる。擬似的にせよ、「横丁」とは表通りから横に入った細い道のことを示すのであり、「小」への志向性が感じられる。

加えて、同じ「MIYASHITA PARK」のフードコートには地元の高校生たちが多くたむろしている。「地元感覚」で「MIYASHITA PARK」を使っているのだろう。


渋谷を軸としながら、若者の街の変遷について考えてきた。何度も言うように、若者が集う街はさまざまな要因によって変遷し続けているのであり、これからも変遷を続けるに違いない。

とくに渋谷については、「若者の街でなくなった」から、渋谷が街としては見所がなくなってしまった、と考えるのは拙速だ。この記事で語ってきたとおり、それは渋谷という街の人生の一部分でしかないからだ。

むしろ、渋谷の終焉を嘆くよりも、さまざまな外的要因によって変わっていく渋谷が今後、どのようなイメージを持つ街へと変貌していくのか、それを的確に見つめることが重要なのではないだろうか。

(谷頭 和希 : チェーンストア研究家・ライター)