なぜ日本から世界的なラグジュアリーブランドは生まれないのでしょうか(写真:Berkut34/PIXTA)

さまざまな消費財の分野で、日本には優れたものづくり力や、才能あるデザイナー、そして消費者の目も肥えている。そこに目を向ければ、日本からラグジュアリーブランドが輩出される要素は揃っているように見える。しかし、なぜ日本から世界的なラグジュアリーブランドは生まれないのか。

先日、コロナ危機後に、破壊と変革を繰り返し、ますます成長する世界の各ブランドの最新動向をまとめた『世界のラグジュアリーブランドはいま何をしているのか?』が邦訳出版された。

同書に関連し、日本でのラグジュアリーブランドの可能性について、ロングセラーの経営書『新しい市場のつくりかた』の著者で、日本のものづくりやラグジュアリー分野にも造詣の深い、経営学者の三宅秀道氏に論じてもらった。

丁寧なものづくりメーカーからの相談


非常に丁寧なものづくりで知られる、あるバッグメーカーの社長さんから、「うちもいつか、ヨーロッパの有名ブランドみたいな、ラグジュアリーのブランドになれるでしょうか?」と聞かれたことがある。

これは正直、非常に答えに困る問いである。そうした問いにこちらも本気で向き合うとしたら、それこそ何日も説明した末に、最後の結論はこうなるだろう。

「社長さん、御社のスタッフの皆さんのものづくりは素晴らしいです、それは工場を拝見してつくづく実感しました。でも、御社がここからラグジュアリーブランドになるためには、今のままでは、非常に難しいです。

特に課題となるのは、社長さん、あなたの『ラグジュアリーとはこういうものだ』というものの見方、つまり、ラグジュアリー観です。そこからガラッと変えることができますか?」

こんなことを実務家の人に言うにも、誤解されずに十分にこちらの意を尽くすように伝えるのは難しい。相手のものの見方の根本から、覆そうとする物言いになってしまう。実際には口にせず、こちらの胸にずっと苦いもどかしさがわだかまってきた。

ラグジュアリーへの「哲学」が欠けている

筆者は縁あって、日本の工芸やファッションアパレル業界の調査取材の機会に恵まれてきた。また、2017年から2019年にかけて、フランスのEHESS(社会科学高等研究院)の国際共同研究プロジェクトに参加して、日仏のクラフト業界の比較調査に加わった。

このプロジェクトはLVMHの本社がスポンサーとなり、調査協力も得られたので、非常に貴重な知見を得られた。

さまざまな消費財の分野で、日本には優れた技能を持つ職人人材も、また高品質の素材も、才能あるデザイナーも揃っている。消費者の目も肥えている。そこに目を向ければ、日本からラグジュアリーブランドが輩出される要素は揃っているように見える。

しかし日本には、素材はあるが、それを実際にラグジュアリーに持っていくための「ラグジュアリー哲学」が、きわめて乏しい。言葉を選ばずに口にすると、日本で生活消費財の製造に携わる人々の多くは、あまりにも「無邪気な職人」なのである。

だからこそ、彼らは真面目にいいものをつくることができるのかもしれない。同時に、だからこそ彼らはラグジュアリーを理解することが難しい。

これまで生活消費財のさまざまな分野、宝飾品、衣料品、インテリア、陶器など、いろんなものづくりを調査取材してきた。ご協力いただいた方たちに深い敬意を抱きつつ、本当にもったいないと思う。

高品位品とラグジュアリーブランドを分けるもの

これらの業界の多くの方々は、「真面目にいいものをつくっていれば、いつか世間がわかってくれてブランドの声望が高まるのでは」と思っている。いわば「至誠天に通ず」派である。その可能性は確かにゼロではないが、かなり低い。

厳しい言い方をすれば、彼らはものの品質ばかりを見て、消費者にとっての価値、そしてその意味を見ていない。特に、消費者がなぜ、いわゆる「ラグジュアリー」を買うのか、それになぜ、どのような価値を見出しているのか、そこに考えが及ぶところが少ない。

結果として、彼らは消費者の欲求をちゃんと見すえない。それでは当然、ブランドのプレステージを構築することも困難である。目隠しをしてトランプの城を建てようとしているようだ。

消費者は「なぜ」「何のために」ラグジュアリーを買うのか? ここにこそ、単なる高品位品と、ラグジュアリーブランドを分けるものがあると筆者は考える。

単なる高品位品と、ラグジュアリーブランドを分けるのは、消費者がそれをなぜ選び、買うのか、その動機である。たとえば、ここに1つ、丁寧につくられた美しい生活消費財Xがあるとする。そして、これを店頭で発見する消費者AさんとBさんがいて、ふたりがXを買う動機はそれぞれに違うとする。

このとき、同じXなのに、Aさんにとってはそれは単なる高品位品で、Bさんにとってはラグジュアリーブランド商品であったりする。消費者の購買動機が、単なる高品位品とラグジュアリーブランド商品を分けるというのはこういう意味である。

筆者がそれに気づいたきっかけは、ミキモト出身の宝石商で、また世界的な宝飾史家でもある山口遼氏をインタビューした経験である。このインタビューをもとに、筆者は自分なりのラグジュアリー論をモデル化した。

それをかつて『新しい市場のつくりかた』という本にも書いたので、ご興味のある方は同書の第8章をご覧いただきたい。

コモディティとラグジュアリーは成り立ちがまったく違う

「三宅さんね、ラグジュアリーを調べようってんなら、コモディティの世界からできあがったブランド理論は、あれ、まったく役に立たないよ。ラグジュアリーブランドは、コモディティブランドとはまったく、成り立ち方が違う。

つまり、われわれも含めて、ラグジュアリーブランドってのは、自信のない消費者のためにある。自分の美意識に自信があって、自分がこれだけの金を払う価値があると思うならそれでいい、と思う客には、ブランドなんてただの屋号で、ありがたがるようなもんじゃない。

ヨーロッパでいうと、そういう客は、つまり、貴族です。でも、自分の目利き、美意識に自信がない消費者がいて、しかし、彼らは金は払える。つまり、そういう成金が、経済成長でたくさん発生して、彼らが文化的に憧れる対象が貴族で、その貴族がどこの店で何という商品を買うか、それをじっと見ていて、その真似をする。そのときに役に立つ目印の記号がラグジュアリーのブランドなんだ。

成金が貴族の真似をして、ああこれで自分も文化的な暮らしができている、と安心できる。落語の『茶の湯』みたいなものです。人間っていうのは、金が手に入ると、次に文化教養を欲しがる。そのときに、モノの良し悪しを自分ではわからないから、その銘柄を見る、それがラグジュアリーブランドです」

ミキモトのヨーロッパ外商部門のトップセールスマンとして、王侯貴族にジュエリーを売ってきた山口氏の言葉には説得力があった。

「えーと、つまり、ラグジュアリーブランドってのは、フィッツジェラルドの、『華麗なるギャツビー』に出てくる贅沢なパーティみたいな消費ということでしょうか……」

「おう、そうそう。あんた案外予習しているな。ただあれだって元は、ローマ時代のトリマルキオの饗宴というのが元ネタなんだよ」

後で聞けば、山口氏は同志社の英文学科の出身で、西洋の古典教養、美術史や文学史にも詳しいのがミキモトの顧客、中でも貴族に気に入られた。先方の邸宅に商品を持っていっても、ずっと歴史文学の話になって、最後にチラッと商品を見た相手が、気に入った商品を糸目をつけずに買い取る、という様子だったらしい。

アメリカ流マーケティングで見落としていること

「アメリカのマーケティング学者はさ、商品に何らかの意味が付与されていて、消費者はそれを記号として消費する、とか言うじゃないか。元はボードリヤールかな。でも、いくら宝石の商売だって、それがすべてでもないんだよな。神様がつくったような美しい石が、やっぱり時にはある。

そして、それを感じ取ることができて、それに魅入られた人の中には大金持ちもいて、金に糸目をつけずに買うから、高い値段になる。そのとき、その石は記号じゃないよ。その石に付与された意味ではなく、文字どおり、その石自体の美しさを、どんなにお金を出しても自分で所有したいだけなんだな」

その後、筆者は山口氏が収集した天然真珠のコレクションを、神戸の山本通の真珠流通業界団体の会議室で見せてもらったことがあった。業界の旦那衆の勉強会の末席にいさせてもらったのである。

その中に、ピンク色のコンクパールでとても鮮やかに火炎模様が浮き出ている直径15ミリほどの大珠があった。神様の気まぐれとしかいいようのない、奇跡のようなコンクパールを見ていて、脳の奥のほうから、じわっと温かい血行が蘇ったような、解れるような感覚を味わった。

その奇跡のコンクパールを、カルティエが2000万円で買ったと後日聞いた。山口氏はそれをもとはメキシコのバハカリフォルニアの漁村の小さな業者から買い付けたのだった。カルティエくらいになると、おそらく2000万円の素材を真ん中にいろいろジュエリーとして飾って小売価格はその10倍、2億円くらいに商品化したのではないか。

もちろん、そのジュエリーは小売店頭には並ばず、富豪の常連客に外商が持っていったはずである。そのヘッドになる素材を、貧乏院生時代の私が見ていて、もう、脳がリラックスする治療薬のような効果があった。それから数日は、なんだかうっとりして、研究生活の気鬱が晴れていた。

ラグジュアリーには中核の美が不可欠


筆者にはそういう経験があるので、ラグジュアリーは全部が記号で幻想だとは思わない。どんなラグジュアリーも、その真ん中に本当の「美」がないと、いずれ顧客は乗せられなくなり、いっときのブームで終わる。しかし、中核の美がしっかりしていると、まずその価値がわかるプロたち、通人が評価する。

その評価を参考に、直接はその美を感じられない素人も、その業者から買う気になる。そうやって雪だるまのように周辺に幻想がくっついて大きく膨らんでいく。その周辺では、ラグジュアリーとして売買されるのは、やはり記号としての価値である。

筆者にはこの原体験があるので、世の中には、もし自分にお金があれば大枚はたいて買いたくなるような、生理的に心地よい、それを目の前にすると言葉を失うような「美」が、確かに実在していることを知っている。それはもう触れた瞬間にわかる、感性への絶対的な衝撃で、何か記号の表徴作用と混同するような余地がない、圧倒的な驚きがある。

(三宅 秀道 : 経営学者、専修大学経営学部准教授)