映画『犬神家の一族』から学べることとは(写真:kazukiatuko/PIXTA)

東インド会社を起源とする500年の歴史を持つ「株式会社」制度。なぜ、このような制度が生まれ、現在まで続いているのか。その謎に迫った『株式会社の世界史──「病理」と「戦争」の500年』(平川克美著)を、映画『犬神家の一族』における共同体の描き方から、青木真兵氏が考察する。

怖さより面白さが勝る映画

僕たちはもう一度社会を再構築しなければいけないフェーズに入っています。


1990年代以降隆盛を極めた新自由主義的イデオロギーに染まった僕たちは、困っている人に手を貸しづらくなっていたり、自己責任論で冷笑的に社会を眺めたりしています。「果たして人間社会はどこに向かっているのだろうか」という疑問が頭をもたげます。インターネットなどのテクノロジーの発展によって人間は直接的なコミュニケーション機会を得ずに、不快を遠ざけて快を求めることで一人だけでも生きていくことを可能にしました。

しかし僕たちにとって「一人でも生きていける」ことは、本当の幸せに結びつくのかといったらはなはだ疑問です。生きる意味を求め出すも見つからず、他者との競争関係の中にしか存在意義を見出せなくなってしまっては、あまりに悲しい事態です。

このような状況のなかで、社会を再構築するヒントとなる映画が1976年に公開された『犬神家の一族』です。本作は横溝正史の長編推理小説が原作。かの有名な探偵、金田一耕助が登場します。大ヒットした漫画『金田一少年の事件簿』の主人公金田一一の祖父はこの耕助という設定です。

本作は殺人事件が次々と起こるサスペンスストーリーではあるのですが、明らかにコミカルな場面や人物が描かれ、怖いというより面白さが勝ります。バックに流れるジャズや服装、持ち物、家具などもオシャレで格好良いし、家族内であるがゆえのドロドロした人間関係や戦争がもたらした不条理な事情など、本当にたくさんの要素を詰め込んだ極上のエンターテインメント作品です。その後のさまざまなテレビ、映画で使われているネタ元の宝庫でもあります。

物語の舞台は信州長野。時代背景は太平洋戦争で日本が敗戦から2年が経った1947年だと考えられています。犬神家はその土地の一大製薬会社です。映画は、会社を一代で築き上げた犬神佐兵衛が亡くなるシーンから始まります。巨万の富を築いた彼が亡くなるということは、遺産相続の問題が巻き起こることを意味します。佐兵衛翁には男子の後継はおらず娘が3人いましたが、彼は生涯妻を持ちませんでした。その3人の娘はそれぞれが別々の妾の子だったのです。妾とは正妻のほかに愛し、扶養した女性のことをいいます。

江戸時代、特に武家社会では家の継承者として男子を得ることが強く望まれていました。正妻に男子が生まれない場合は養子として迎えることもありましたが、妾を囲うことで男子が生まれる確率を上げようとしました。明治時代になり一時的に妾は制度として認められましたが、近代化の過程において1882年に廃止されました。しかし戦前まではその伝統は残っていましたし、戦後も「愛人」という名前で存続していました。佐兵衛翁はこの伝統を引き継いでいたといえます。

莫大な遺産を相続するに際して、佐兵衛翁は遺言を残します。この遺言の管理は会社の弁護士に託されていました。しかしその法律事務所に勤務する男性が、弁護士にも内緒で探偵の金田一に調査を依頼します。男性は「犬神家に容易ならざる事態が起こりそう」だというのです。娘の3人やその家族などが集まる場で遺言状が開封され、男性が予測したとおり、怨嗟渦巻く遺産相続問題の中で連続殺人事件が起こっていくというのが筋書きです。

現代の人権感覚では考えられない存在

連続殺人事件の顛末はネタバレになってしまうので明らかにしませんが、本作で巻き起こる事件の問題の根幹は妾の存在にあります。もちろん妾は現代の人権感覚であればあってはならない存在です。

しかし前近代における上流階級の社会では家を存続するためには、妻は一人ではなく複数いることが必要でした。妾は女性の人権を完全に侵害しているわけですが、男性だって長男であれば家を継がねばならなかったり、次男以下であれば家を出なければならなかったり、そもそももし戦が起これば戦いに行くのは男性だったりするという意味で、全く「自由」は尊重されていませんでした。

問題は近代化によって身分制度は解体され、四民平等の社会を実現するために日本国民全体に通じる価値観を創出しなければならなくなったことでした。

しかしそのようなナショナル・アイデンティティの創出は日本側の一方的な都合では決められず、西洋列強に一人前の国民国家として認められなければならないという外圧もありました。

大日本帝国と犬神家の解体

また観念的な問題のみならず、殖産興業、富国強兵によって国家自体を強くしなければなりませんでした。このような過程において、武家という上流階級の家父長制的価値観が大日本帝国臣民全体に押し付けられていきました。

民俗学者の高取正男は以下のように述べています。

明治以降、20年代(1890年前後)に進行した産業革命は、地縁や職能による旧来の共同体の最終的な解体を進めた。やがて30年代、今世紀(20世紀:筆者補足)に入るころから、 重化学工業を指標とする第二次産業革命がはじまった。庶民のあいだに存在した横の連帯感が、これを境に急速に消滅しはじめたのは当然として、その度のあまりに急激であったために生じた空白部に、すべてを血縁になぞらえ、父方の出自のみ重視する武家社会に象徴的に発達した、いわゆる「タテ社会」の論理が不当に拡大され、充填されることになった。私たちの先輩が目の前にした強力な家父長制的家族秩序と、それを根幹にしたさまざまな社会組織は、多くは明治国家が近代化の過程でつくりだした巧妙な擬似共同体であった。これをもって大昔からあるように思うのは、大きな錯覚といわねばならない。(高取正男『日本的思考の原型 民俗学の視角』筑摩書房、21頁)

佐兵衛翁の正確な生年は不明ですが、おそらく明治初頭の頃だと考えられます。そういう意味では第二次産業革命の進展と家父長制的家族秩序の形成期に、佐兵衛翁は青年期を過ごしたことになります。また犬神家が製薬会社として日清・日露戦争、海外植民地の拡大を機に大きくなっていく過程は、近代における大日本帝国の歩みと符合しています。どうしても僕には、「犬神家」自体が「明治国家が近代化の過程でつくりだした巧妙な擬似共同体」そのものであり、佐兵衛翁の死とともに訪れた家族の解体に太平洋戦争で敗北した日本の姿を重ねてしまうのでした。

では近代日本がつくりだした家父長制的家族秩序こと「犬神家システム」は完全に焦土に帰したのかというと、そんなことはありません。

戦後の経済成長を実現するためにこのシステムの復活が要請されたのです。確かに農村から都市へと人口移動が起きたことで、農村における家父長制的共同体は徐々に衰退していきましたが、これは人口移動によって引き起こされただけであり、人びとが移動した先の都市に「小さな犬神家」が出来ていったのです。

しかしその後、このような企業ばかりでは雇用の流動性は生まれないとして公営企業を解体し労働市場をつくり出したのが新自由主義的経済体制でした。

そして現代。確かに「失われた30年」という続く景気の低迷のなかで、家父長制的家族秩序はその歴史的な使命を終えようとしているようにみえます。

このように社会的価値観が揺らいでいる現代において、誰もがこれからの社会ビジョンを模索しています。なかには再び犬神家システムを日本の「伝統的な家族像」として再インストールしようと主張するグループもいます。

しかしここまでの説明でも分かるように、犬神家システムは明らかに力の弱い側が我慢を強いられます。日本社会を犬神家のようにすることで、仮にいくらGDPが上がったとしても一人ひとりの人権が守られていない社会が「まとも」だとは思えません。どうせどこかの宗教団体や中抜き企業が儲かるだけになりそうです。

「等価交換の男」ではなかった金田一

ではどうすれば良いのか。ここで金田一です。今回の金田一の仕事は「犬神家に容易ならざる事態が起こりそう」なので調査することでした。そして残念ながら、金田一は事件を未然に防ぐことはできませんでした。

でも金田一は文献を渉猟したり現地に赴いたり関係者に話を聞いたり、事件が起こったら一目散に駆けつけたり、とにかくこの問題に親身に関わりました。彼は部外者ではあるのですが、最後のシーンでとある寡黙な人物に「金田一のことが忘れられない」とつぶやかせるまでに至ります。

なぜこの人物は金田一のことを忘れられなくなってしまったのでしょうか。それはたぶん金田一が、「等価交換の男」ではなかったからでしょう。もちろん金田一も仕事として依頼されたので犬神家に関わったわけですし、相応の報酬はもらっています。

しかし仕事をするとはそういうことではないということを、金田一はその背中で示したのです。頭を掻きむしり悩みながら、さまざまな場所に顔を出しながら、とにかく謎を追ったのでした。

文筆家の平川克美は会社や共同体が生まれるとか育つことが可能になる時について、以下のように述べています。

私が言いたいのはこういうことである。つまり、何かが生まれるということ、それが育つということが可能になるのは、そこに等価交換ではない別の原理が働いているからである。家族のような血縁共同体であればそれは親の子に対する無償の愛ということになるだろう。会社の場合だって同じだ。経営者や従業員による、会社に対する無償の贈与がなければ、会社もまた育つことはない。
多くの従業員が継続して会社で働くこと、その結果生まれる仕事に対するモチベーションを担保するものに対して名前をつけるのは難しいが、あえて言えばそれは共同体への信頼といったものであると言えるのではないだろうか。そうした信頼の上にしか、共同体の倫理というものが生まれないこともまた確かである。
経営者も、労働者も、ただ自らの仕事に情熱を注ぐことで、自分では予期していなかった倫理創造を結果として行うことになる(平川克美『株式会社の世界史--「病理」と「戦争」の500年』東洋経済新報社、2020年)。

無力と微力の相違

テクノロジーが発展し、人でなければできない仕事は減ってきていると言われます。

しかし会社は何のためにあるのか、そして共同体は何のためにあるのかといったら、全ては人間が生きていくためです。何のために歯を食いしばって利益を上げるのか、何のために痛い思いをして通過儀式をこなすのかといったら、全ては人間が生きていくためなのです。

『犬神家の一族』を観れば分かるように、あれだけ精一杯調べ、悩み、足を運んでも金田一は事件を防ぐことができませんでした。同じように、僕たち一人ひとりは本当に無力で気候変動や人権侵害など、諸問題を完全に解決するには及ばないでしょう。

しかしそれでも善処を尽くして一生懸命関わることが大切なのです。

誤解しないでほしいのは、結果などどうでもいいと言っているわけではありません。金田一だってできれば殺人事件は起きてほしくなかったし、できることなら止めたかったはずです。

でもその姿をどこかで誰かが必ず見てくれている。この繰り返ししか、人が生まれたり育ったりすることをことほぐことのできる社会を構築することはできません。

『犬神家の一族』から学べることは、とってもハートフルな結論なのでした。

(青木 真兵 : 「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」キュレーター、古代地中海史研究者、社会福祉士)