一向一揆で裏切り、家臣団からの評判はよくなかったある武将。一方で家康からは絶大な信頼を得ていた。写真は三河三ヶ寺本證寺(写真:ブルーインパルス / PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第52回は家康を支えた家臣団の最期を紹介する。

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ついに天下人となった家康

戦乱の世にピリオドを打ち、江戸幕府を開いた徳川家康。「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」で豊臣家を亡ぼすと、名実ともに天下人となり、265年間も続く泰平の世の基礎を築くことになる。

天下人への道のりは平坦ではなく、様々な危機が家康を襲った。なかでも「家康三大危機」と言われている「三河一向一揆」「三方ヶ原の戦い」「伊賀越え」では命を落としてもおかしくはなかった。

三河一向一揆では、家康が一向宗徒に対して、強硬な手段をとったことで、家臣団が分裂。内部崩壊のピンチを招いた。

次の三方ヶ原の戦いでは、甲斐の武田信玄に惨敗。家康が家臣たちの忠告を聞かず、信玄の挑発に乗って浜松城から脱して、信玄軍の背後を突こうとしたところ、返り討ちにされてしまった。

3つ目の伊賀越えでは、織田信長がいきなり重臣の明智光秀に討たれるという「本能寺の変」によって、家康らは明智軍や落ち武者狩りに狙われることに。一度は自決さえ考えたが、協力者たちの力添えを得て、険しい山道を越える伊賀越えを成功させている。

いずれの危機も、家臣の存在がポイントとなっている。味方につけると頼もしいが、ないがしろにすると、危機的な状況に陥ってしまう。それが家臣というものである。家康は祖父も父も、家臣によって殺されていることからも、そう実感したに違いない。

三方ヶ原の戦いでの敗戦後は、たびたび「宝の中の宝というは人材に如くはなし」と口にしたともいわれる家康。豊臣秀吉が太閤だった頃、「宝物は何か」と尋ねられたことがあった。このときの家康の返答は語り草となっている。

「私は田舎の生まれですので、これといった秘蔵の品はありません。しかし、私のために命を賭けてくれる武士が500騎ほど配下におります。この侍たちを何にもかえがたい宝と思って、いつも秘蔵しています。」

やりとりが本当にあったかどうかはともかく、家康が家臣を大切にし、それぞれの実力を最大限に引き出したのは確からしい。なかでも家康を支えた重要人物とされているのが「徳川四天王」、つまり、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人である。

乱世が終わろうとするなか、4人はどのような最期を迎えたのだろうか。

重要視された酒井忠次の存在

家康は三河一向一揆をなんとか鎮めたあとに軍制改革を行い、「三備体制」を整備。東と西の2組に編成し、東の旗頭として、酒井忠次を抜擢している(記事「徳川家康、側室すら適材適所で使う組織固めの凄さ」参照)。

ちなみに、西の旗頭となったのが石川家成だ。のちに甥の数正に旗頭を譲るが、数正はまさかの出奔。秀吉側へと走ったため、酒井忠次の存在が、ますます重要視されることとなった。

忠次といえば、大河ドラマで「海老すくい」を踊るムードメーカーとして知られるが、15歳年上の重臣は家康にとっては頼りになる存在だったらしい。

外交面でも忠次は徳川家臣を代表する立場にあった。永禄11(1568)年12月には、大井川を境にして、駿河は武田、遠江は徳川が奪い取るという密約が結ばれるが、このときに信玄は、穴山信君を酒井忠次のもとに派遣している。他の大名から見ても、家臣を代表する存在だったことがわかる。

結局、家康と信玄は決裂し、武田家とは長きにわたり対立。最後の戦いとなったのが「長篠の戦い」であり、徳川軍と織田軍が連合して、武田勝頼が率いる武田軍と激突する。このときには合戦前夜に、忠次は信長の前で、海老すくいを披露して喜ばせたという。

そして、いざ戦となれば、奇襲作戦を提案。信長からは却下されるも、家康には採用されて、武田軍を追い詰めるのに一役買っている。

天正14(1586)年10月に家康が上洛した際には、忠次も同行したところ、秀吉から近江に1000石の地を与えられている。おそらく、忠次の実力を警戒して、秀吉は家康から忠次を引き離そうと考えたのだろう。

その2年後に忠次は隠居。慶長元(1596)年に京都で死去し、70年の人生に幕を下ろした。

有能な井伊直政らしい最期

忠次と同じく外交の窓口として活躍したのが、井伊直政である。

今川家の支配下にある国衆の一つである井伊家は「桶狭間の戦い」で、当主が命を落とす。井伊家が存続の危機に陥るなかで、15歳になった直政(当時は虎松)が、徳川家康に仕えたことで、井伊家は再興の道をたどることになった。


外交の窓口として活躍。井伊直政の像(写真: チョリン / PIXTA)

井伊は徳川と対等な家格で、築山殿を介して、家康とは親族関係になる。そんな直政は対外的に使者として送り出すのに、格好の人材だったようだ。

もっとも家柄だけではなく、実力も兼ねそろえていた。徳川が豊臣政権のなかに取り込まれると、直政は調節役としてさらに重用され、諸大名や公家らと交際しながら、大名と同格として扱われている。

一方で、戦場に出れば、「井伊の赤鬼」と恐れられるほど暴れ回った。家康は直政の部隊に武田の軍法を継承させたが、その期待に十分に応えたといえよう。

しかし、慶長7(1602)年2月1日、42歳の若さでその生涯を閉じる。約2年前の関ヶ原合戦時の鉄砲傷が治らなかったとも言われている。

ほかの重臣に比べて早い死となったが、活躍しすぎたゆえの最期だと思えば、直政らしい人生だったともいえるのではないだろうか。

直政の死から4年後、慶長11(1606)年5月14日に死去したのは、榊原康政である。康政はもともと酒井将監忠尚の小姓だったところを、13歳で家康に召し出されて側近となった。

酒井忠次が旗頭となった「三備体制」において、康政は19歳にして「旗本一手役之衆議」に抜擢。その後は戦を重ねるごとに存在感を増していった。豊臣秀吉と激突した「小牧・長久手の戦い」では、秀吉を逆上させる檄文を書いて、注目を集めている。

挑発された当時は怒り狂った秀吉だったが、のちに「今では遺恨もなくなり、かえって主君への忠義に感服するばかりだ」と、康政の忠義ぶりを評価。自分と同じく知略を武器にしたこともあって、秀吉は康政にシンパシーを感じたのかもしれない。

康政が支えたのは家康だけではなかった。家康の息子の秀忠が関ヶ原の戦いで遅参したときは、懲罰をも覚悟して秀忠をかばっている。

秀忠も恩義に感じていたのだろう。康政が皮膚の感染症を患うと、秀忠は病床へ見舞いに訪れている。だが、その甲斐もなく、病が侵攻し、康政は59歳でその生涯を閉じている。

本多忠勝の意外な「辞世の句」とは?

さらに4年後、慶長15(1610)年、「徳川四天王」の生き残りだった本多忠勝が生涯を閉じる。

幼少期に父を失った忠勝が、初陣を飾ったのは13歳のときのこと。桶狭間の戦いにおける大高城への兵糧入れで戦場に出て以来、場数を踏むにつれて、勇猛な武将として名を轟かせた。

「生涯57回の戦で1度もかすり傷を負わなかった」という逸話が残っているほどの猛々しさで、その活躍ぶりは、織田信長から「花実兼備」(花も実もある武将)と絶賛されている。

しかし、関ヶ原の戦いが終わり、家康が江戸幕府を開いてからは、段々と影を潜めていく。隠居を申し出て、家康にいったんは慰留されるが、その後、眼病を患った忠勝は、嫡男に家督を譲っている。

慶長15(1610)年、2月には徳川秀忠の狩りに同行していたが、同年10月に、桑名の地で死去している。63歳だった。

それでも戦場であれだけ暴れ回ったのだ。その生涯に悔いはなかったかと思いきや、意外な辞世の句を残している。

「死にともな、嗚呼死にともな、死にともな……」

「死にともな」とは「死にたくない」の意味だ。忠勝らしからぬ弱気な言葉だが、その後に「深き御恩の君を思えば」という言葉が続いている。

「御恩の君」とは、家康のことだ。家康への恩義を考えれば、まだまだ死にたくない。忠勝は主君を見送れない無念さを、最期の句に込めたのである。

家康は健康に気をつけていただけあって、長生きした。「徳川四天王」の死を見届けてから、元和2(1616)年に74歳で死去している。

家康の最期を見送った「嫌われ者」

そんな家康の死を見送った側近がいた。本多正信である。正信は若いときに一向信徒の一揆を指揮し、家康に立ち向かったが失敗。亡命を余儀なくされたが、周囲の取り成しによって、帰ってくることができた。正信が家康に忠誠を誓ったのはそれからのことだ。

2人が蜜月の関係となってからは、家康が首を縦に振るか、横に振るかは側にいる正信の表情でわかったという。正信が目をつぶっていればノー、目を開いていればイエス――。正信はまるで家康の分身のようだった。

深い信頼関係を築いて、家康から「友」と呼ばれていた正信。それにもかかわらず、「四天王」の一人として数えられなかったのは、一向一揆で裏切ったこともあり、家臣団からの評判がよくなかったかららしい。

本多忠勝は同じ本多の一族だが、それだけに「一緒にされたくない」という思いが強かったようだ。忠勝は正信のことを「佐渡の腰抜け」と酷評していたともいわれている。軍議の席上では、榊原康政から「腸(はらわた)の腐れ者が戦のことが分かるのか」と罵倒されたこともあったという。

ちょっと周囲から浮きがちだった正信。家康が死去すると、周囲の武士からは「あれだけのご信託を受けながら、なぜ殉死しないのだ?」となじられている。さすが嫌われ者だが、正信は意に介することなく、こう答えたという。

「腹を切るまでもない。俺はとっくに死んでいる」

その言葉通り、正信は家康が死んでから、まるで抜け殻のようになり、後を追うように2カ月後に他界。享年79歳だった。


【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
福田千鶴『徳川秀忠 江が支えた二代目将軍』(新人物往来社)
山本博文『徳川秀忠』(吉川弘文館)

(真山 知幸 : 著述家)