偏差値35の高校に通っていた櫛山さん。大学受験を目指した理由とは(写真:nonpii / PIXTA)

浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか?また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。

今回は、大阪府内で「もっとも偏差値が低い私立高校群」に通いながらも勉強を続け、2浪で同志社大学に合格。その後、神戸大学への編入を経て、現在はマスコミ関係の仕事に就いている櫛山さんにお話を伺いました。

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10年以上前、関西ではよく知られた、大阪府内でもっとも偏差値の低い私立学校群がありました。その中の高校の1つに通っていた方が、今回お話をお聞きした櫛山さんです。

「高校に行くのも難しい」と言われた


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彼は小さい頃から周囲にバカにされ続け、「高校に行くことすら難しい」と言われたほどの劣等生でした。

しかし、彼は2浪した末に同志社大学に入り、神戸大学への編入を経て、現在はマスコミ関係の仕事に就いています。

予備校のチューターから、「その学校から同志社に行ったのは今まで聞いたことがない」と言われるほどのことをやってのけた彼は、周囲の理解がない中、どうして勉強を続けられたのでしょうか。絶望的な環境から、関西の難関私立大学に入れるまで学力を伸ばせた理由はどこにあるのでしょうか。今回は、そんな彼の半生に迫っていきます。

櫛山さんは岡山県真庭郡久世町(現:真庭市)に、小売業界で働く父親と専業主婦の母親のもとに生まれました。

「父親が転勤族だったので、4年に1回ほど転勤をしており、小学校で広島・大阪、中学校は1年間だけ名古屋ですごしました」

幼少期から転校を繰り返し、やっと大阪にとどまったのが中学校2年生のときでした。目まぐるしく環境が変わる中で幼少期を送った彼は、自分自身を劣等生であったと振り返ります。

どこに行ってもバカにされた

「小学校時代は3段階評価でほぼ最低評価のCしかありませんでした。中学校では社会と国語を除けば、あとはオール1。アルファベットも何もわからなくて、英語の授業で先生に番号順・席順に指名されて答えるときに、自分だけ当てられずに飛ばされていたくらいです。

中学生になってから個人塾にも通い始めたのですが、あまりにもできなくて『お前は生きている価値がない』と先生に言われて物差しで叩かれていました。どの環境に行ってもバカにされる人間でした」

「勉強も運動も何もできず、高校に行くことすら厳しいと周囲に言われ、将来の夢もやりたいことも何もありませんでした」と当時を振り返る櫛山さん。

そんな彼の意識を大きく変えるきっかけは、中学3年生のときに個人塾で代々木ゼミナールの案内を見たことだったそうです。

「なんとなくその資料を見ていて、私立大学だったら、3教科を必死に頑張れば大学に入れると気づいたのです。そのとき僕は、勉強なら自分次第で逆転ができると思ったんですね。何をしてもあまりにも周囲にバカにされるから、見返してやりたいと思い、勉強を始めたんです」

中学の成績は250人中220番くらい。数学では0点を頻繁にとっていた櫛山さんでしたが、社会の成績だけはよかったことが自信になっていたそうです。

とはいえ、活路を見いだしたのが高校に上がる直前だったため、高校受験には間に合わず、当時大阪で偏差値35だった私立高校に進学します。

「いちばん偏差値が下のコースに入ったのですが、40人中27番くらいの成績でした。大学に進学することすら夢物語でした」

当時、偏差値35だった高校でも真ん中より下というきびしい現実に打ちひしがれていた櫛山さん。しかし、彼は決して希望を捨てませんでした。得意の日本史だけは、全国でもトップレベルだったからです。

「外に出て遊ばない子どもだったので、夕方にテレビで放送される政治や経済などのニュースが楽しみでした。そこから歴史に興味を持ち、親に本を買ってもらって読んでいたんです。だから、歴史は『勉強をした』という感覚はまったくありません」

高校に入ってからも興味を突き詰めていた彼は、参考書を買って、自分自身の知的好奇心を満たすために、勉強していたそうです。その甲斐あってか、高校2年生のときに受けた旺文社の全国模試では、英語の偏差値27、国語の偏差値43に対して、日本史は67.9という好成績を叩き出しました。

「高校2年生からは、ずっとクラスで成績がいちばんだった」と語る彼。「学校は3年生から日本史Bの授業が始まった」と語りますが、独学で高校日本史の範囲をすべて終わらせていた彼は、3年生になってからの模試では偏差値75を切らなくなったと言います。

とはいえ、英語と国語に関しては勉強をまったくしておらず、偏差値は横ばい。1日の勉強時間が平均10分だったと語った彼は、現役時の受験では早稲田大学を2学部、立命館大学・近畿大学・島根大学を受けて全滅だったそうです。

「高校3年生の最初のころから1年では受からないと思っていたので、最初から浪人を覚悟していました。理想は高くても行動に移せなかったので、心の中で甘えがあったんです」

今生きている環境と違う世界に行きたい

こうして河合塾で浪人することを決断した櫛山さん。その理由については「バカにされたくなかったから」と語ります。

「自分自身が凡人だとわかっていたので、そんな自分が頑張れることといえば勉強しかないと思っていました。今生きている環境から違う世界に行きたかったので、大学に行きたいと思っていました。このままやめたらずっとバカにされ続ける人生を送るので、やめるわけにはいきませんでした」

とはいえ、1浪のときの意識も大きく変えられなかったそうです。

「勉強時間はとっていたのですが、勉強そのものに身が入りませんでした。英語はまったくわからないままで、模試を受けても全部適当にマークしていました。私は関関同立(関西大学、関西学院大学、同志社大学、立命館大学)クラスにいたのですが、基礎学力がないから5文型すらわからず、授業についていけませんでした。結局講義に行かなくなってしまいました」

「面白くない」と思っていた英語はずっと後回しにしていたので、偏差値はつねに27〜30という最低レベルだったようです。

とはいえ、塾で受けた国語の授業は彼にとっては新鮮だったようで43だった偏差値は65にまで上がりました。日本史に至ってはいつも満点で、つねに偏差値は80前後だったようです。

「結局、成績が上がっているのは自分で面白いなと思って取り組んでいたものだけでした。まったく勉強しなかった現役時と比較すると、この1年は1日7時間程度勉強していたのですが、英語は面白くないと思っていたため、勉強はおろそかになっており、結局最後まで成績は伸びませんでした」

親に「こんな成績で早稲田を受けるな」と止められた櫛山さんは、立命館大学と龍谷大学、滑り止めで産近甲龍(京都産業大学、近畿大学、甲南大学、龍谷大学)より少し下のレベルの大学を受けて、唯一滑り止めの大学に合格しました。

合唱団の歌の歌詞で浪人を決意

大阪で最下位レベルの学力の高校に通っていた時代を思えば、1浪して大学に進学できただけでもすごいことのように思えます。

しかし、彼は大学に入ってすぐにもう一度仮面浪人をすることを決めました。それは入学式の日に屈辱的な出来事があったからだそうです。

「入学式の日に、合唱団が入学を祝って歌ってくれたんですが、その歌詞に『ぼくらは頭が悪いけど〜』というフレーズがあったんです。その言葉を聞いたときに愕然として、またバカにされる日々が始まってしまうと思ったんです。やっぱり自分は早稲田に行きたいと思って、アルバイトで受験料を稼ぎながら宅浪をすることを決断しました」

1浪目の受験でそれなりに頑張ったからこそ、大学生たちが自虐をするような環境は、彼にとってどうしても受け入れがたかったようです。

「夢物語みたいなことを言うな」と親にも見放された櫛山さんは、それでもなんとか受験をするために日雇いの引っ越しのアルバイトを始めます。

「11月くらいまで週3〜4回働いていたのですが、つらかったですね。その中でもいちばん悲しかったのが、大阪大学の学生の引っ越しを手伝った日の出来事でした。仕事が終わって私が帰る際に、その阪大生が雨が降る中で丁寧に頭を下げてくださったのを見て、自分も同じくらいの歳なのに、全然人間の種類が違うんだなと思ってしまって、とても惨めでした」

とはいえ、櫛山さんの当時の取り組み自体は何ら悲観するものではありません。彼は2浪の生活を送る中で、頑張っているのに結果が出ていない危機感を誰よりも抱いていました。

そこで1浪目の失敗の要因をじっくり分析したところ、「反省せずにやみくもに勉強していた」ことが原因だったと気づいたそうです。

「2浪目の最初の1カ月で、徹底的に自己分析をしました。どうして自分がダメだったのかを考えたら、やはり英語ができなかったことだと思い、その内容も突き詰めると、基礎学力がなかったことがすべてだと思いました。

だからこそ、基礎の勉強法を徹底しようと思い、書店で『私の早慶大合格作戦』などの合格体験記が書いてある本を買いました。そこに書いてあった2浪して早稲田に受かった人の勉強法を参考にしながら、中学1年生の範囲から勉強をし直し、文法問題や中学校で使う辞典の内容は全部覚えました。基礎が身についてからは、早稲田の人間科学部で出題されるような短い英文をたくさん読むようになりました」

自分の長所に気がついた

「勉強時間が重要なのではなく、基礎をしっかり理解して進むことが重要」だと気づいた櫛山さん。プライドを捨て、自分自身の弱さに向き合った彼はこの年、快進撃を見せます。

8月に受けた早大入試プレでは英語の偏差値で67を叩き出しました。国語も偏差値65、日本史も偏差値81と、早稲田大学が射程圏に入る好成績を記録しました。

「私は大量の情報をインプットしても、それを短時間で処理できる性質だと気づいたんです。バイトをしているときなどの1日の勉強時間はわずか30分でしたが、短い時間に集中することが大事だと思っていたので、それを徹底することで成果が出たのだと思います」

そうした元々の長所に慢心することなく、11月にバイトをやめてからの3カ月は、追い上げのために1日11〜12時間の猛然とした追い込みを始めます。櫛山さんの勉強への姿勢を見て、最初は諦めることを促していた親も受験費用を負担してくれることになったそうです。

親の支援を受け、万全の体制で受験に臨んだ彼は、早稲田大学社会科学部・商学部と同志社大学商学部・文学部の計2大学4学部を受験。早稲田はダメだったものの、同志社大学は両方合格し、商学部に進学しました。


櫛山さんが進学した同志社大学(写真: Higashi2017 / PIXTA)

「早稲田には合格できませんでしたが、自分なりにやりきった感がありました。それよりも周囲の方々がとても驚いてくれたのが印象に残っています。チューターの方には、『(櫛山さんが通っていた)大阪の高校から同志社に行くなんてありえないし、今までに聞いたことがない』と言ってもらいました。頑張ったねって褒めてくれたのがとても嬉しく、自信になりました」

こうして大阪の「底辺高校」から2浪の末に同志社大学に合格した櫛山さん。

彼に浪人してよかったことを聞くと、「無理だと言われた目標に向かい、結果を出せたこと」、頑張れた理由については「周囲を見返したかったから」と語ってくれました。

「困難に思える目標を打ち立てて、自分自身と戦って、ある程度の結果を出せたのは自信になりました。それがなかったら、つらい場面に直面したときに『自分ならできるから頑張ろう』とは現在のように思えていないと思います。結果を出すために長い時間勉強しましたが、絶対に通らないといけないと思っていたので、苦ではなかったです」

神戸大学に編入し、マスコミの仕事に就く

大学に入ったあとの櫛山さんは同志社大学の寮で経済学や政治学の本をたくさん読んでいたこともあり、3年次試験で神戸大学の経済学部に編入学。現在はマスコミ関係の仕事で校閲や編集をするかたわら、法律の資格を取るために、勉強を続けています。

「大学に入るまでは学歴を取ることが目的でしたが、今は勤務先での経験から法律に興味を持ち、資格試験の勉強を続けています。宅建に合格したので、行政書士や司法書士も受けて、時間はかかると思いますが、最終的には司法試験も目指したいと思っています。

思えば、資格試験に受かるまで頑張ろうと思えるのも、周囲に誰も理解者がいない中で浪人生活を頑張れたからだと思います」

「失敗例から頑張れる人は少数ですし、努力したらみんなが目標を達成できるわけではありません。大学受験のときも、同じ学力レベルから早慶を目指した知人たちがいましたが、大体の人が挫折しました。それでも、自分はその過酷な状況の中で乗り越えてきたから、自分は絶対にやれる、頑張ろうと思っています」

逆境を乗り越えたからこそ、頑張れる

最後に「自己分析をしたうえで、撤退する必要もあるかもしれません、でも、したいと思ったら、自分を信じて挑戦することも大事だと思います」と語ってくれた櫛山さん。

きっと彼は、その逆境を乗り越えてきた精神力と分析力で、法律の勉強も乗り越えていくのだろうと思いました。

櫛山さんの浪人生活の教訓:「困難な目標を打ち立てて結果を出せたら、今後の人生でも頑張れる」

(濱井 正吾 : 教育系ライター)