「親ガチャ」の根本原因といえる「教育格差」をなくすには、教育の成果のとらえ方を変える必要があると語る(写真:露木聡子)

学習支援ボランティアの様子を『ルポ 無料塾』として上梓した教育ジャーナリストのおおたとしまささんと、『教育は遺伝に勝てるか?』などの著書がある行動遺伝学者の安藤寿康さんが、教育格差の解決策について語り合う<前編>。

学力差の要因は遺伝が50%、家庭環境が30%

おおた:『ルポ 無料塾』を書き終えたとき、まっさきに安藤さんとお話ししたいと思いました。無料塾の現場を取材して得た気づきをヒントにして、自分たちがどんな社会を目指すべきなのかをさらに考えるにあたって、行動遺伝学の知見が欠かせないと思ったからです。本では十分に深められなかったところを、今日は伺っていきたいと思います。

安藤:いくつかのご著書を拝見しました。教育現象について、私たちはかなり同じことを感じたり考えたりしているのではないかと思います。僕は現場を知りませんから抽象的に考えていたところに、おおたさんの具体的な言葉が乗ってきたという感じがして、すごく感銘を受けました。立場は違うのに、同じような結論といいますか、見方に達している。

おおた:一応おさらいをしておきますと、無料塾というのは、何らかの理由で一般的な塾に通えない子どもたちに対して勉強を教えるボランティア活動です。子ども食堂の勉強版だととらえればイメージしやすいと思います。

安藤:自分でもやろうかと思うくらい、もともと興味がありました。支援もしています。

おおた:いわゆる「教育格差」を少しでもなくしていくための素晴らしい活動に共感する一方で、いろんな矛盾にも気づいちゃうわけです。塾に通えない子どもが競争の土俵にも上がれない社会って設計としてどうなのよ、とか、そもそもなんで教育で競争しなくちゃいけないんだっけ、とか。

安藤:その視点が素晴らしいなと思いました。

「生まれ」の影響を打ち消せば、教育格差はなくなるか

おおた:親の社会経済的地位(SES)や出身地、性別などの「生まれ」によって、学力や最終学歴に差がつく傾向のことを教育格差といいます。結果的に学力差がつくことが問題なのではなくて、本人にはいかんともしがたい「生まれ」と学力・学歴が相関していることがフェアではないという問題提起が、主に教育社会学の分野からされてきました。

いわゆる「親ガチャ」ですね。そこでいきなりですが、核心に迫る質問をしたいと思います。教育社会学的な意味でいう「生まれ」の影響を打ち消せれば、教育格差はなくなるのでしょうか。

安藤:行動遺伝学の立場から見れば、子どもの学力に対する影響力は、遺伝が約50%、家庭環境(親の社会経済的地位など)が約30%、残り(いい先生と出会う偶然や本人が変えられる要素)が約20%です(図)。親の社会経済的地位に由来するように見える影響のうち半分くらいが、実は遺伝的要因の反映(環境と遺伝の受動的相関)だとわかってきています。


おおた:とすると、いくら家庭環境や教育環境の差を埋めても、遺伝による差が残ってしまう。

安藤:その通りです。教育社会学会にも参加して、私はそう主張しましたが、あんまり反応はよくありませんでした。理論的にそうなるだけではなく、実証もされています。アメリカに比べて、日本社会における学力の遺伝率は若干ですが高く出ます。アメリカよりも均質な教育が行われているので、遺伝の差が出やすいのです。

おおた:みんなが同じ条件で教育を受けられる社会で結果の差ができたとしたら、それは努力の差ではないかと思われがちですが、実は遺伝の差だったということになりかねない。それこそ本人にはいかんともしがたい。

安藤:もちろん社会経済的地位の影響も一定程度はあるので、そこを埋める努力を社会として続けることは大事です。特に1点2点を争う受験競争においては、この違いが合否を分ける可能性がある。無料塾の役割はまずはそこにあるのだと思います。

おおた:学業的な成果の約半分が遺伝で予測可能と聞くと、夢も希望もないディストピア(ユートピアの反義語)に暮らしているような気がしてくるひともいるかもしれません。そこで、遺伝に関する前提をちょっとだけ整理しておきましょう。遺伝率というのは、親に似る確率という意味ではなくて、もって生まれた遺伝的特性がどれくらい影響するかということですよね。

安藤:そうです。

おおた:両親からどういう遺伝子を受け継ぐかはまさしく「ガチャ」ではあるけれど、「カエルの子はカエル」という話ではなくて、むしろ受け継いだ遺伝子の組み合わせによっては「トンビがタカを生む」ことが十分あり得る。

安藤:ただし、いちど受け継いだ遺伝子の組み合わせを変えることはできなくて、その遺伝的特性の影響を受けながら生きるしかありません。身長や体重については遺伝の影響が90%以上あります。知能や学力に関しても、遺伝の影響が50%くらいはあると考えられているということです。

評価されるべき能力は多種多様なはずなのに…

おおた:でもそれを夢も希望もない残酷な話だととらえてしまうのは、そもそも教育に対する考え方が偏っているからだと思うんです。

安藤:教育格差と経済格差が世代間連鎖する構造を変えていく糸口はそこです。一般的にこういうところで「学力」といった場合、入学試験で測られるような能力になりますよね。いわばジェネラル(一般的)な教科学習能力です。

学校で教わる教科内容は、人類が長い苦悩と歓喜の歴史のすえに生み出し発見した文化的知識の集大成で、その知識によってわれわれの社会は動いているわけですから、これは試験で測られる点数の高低いかんにかかわらず、やはりひととして誰でも知る機会を与えられるべきジェネラルな知識だと確信しています。


おおたとしまささん(写真:露木聡子)

おおた:もちろんです。

安藤:でもジェネラルとは反対のスペシフィック(限定的)な能力もある。つまり、ひとによって、関心が向きやすい分野とか得意不得意というものが生来的にある。たとえば料理にすごく関心があったり、料理人になる素質が遺伝的に高いひとというのがいます。

ですが、それは学力としては評価されません。社会に出て発揮され、評価されるべき能力は多種多様なのに、なぜか学力だけに集約して教育を語ろうとしてしまう。そもそもそこに無理があるわけです。

おおた:学力も遺伝的特性の発現である部分が半分くらいはあるのですから、勉強が苦手な子にむりやりひとの何倍もやらせたりしない限り、不利は埋められない。

遺伝までを含んだ広い意味での<生まれ>によって学力や最終学歴に差がつく傾向を本気でなくそうと思ったら、そこまでしなければならない。だったらそこまでしてあげればいいじゃないかって考え方もあるとは思いますが、そこで私は「えっ、ほんと?」となるんです。

安藤:僕はおおたさんのその視点に共感するんです。

おおた:だって、かけっこが遅い子をつかまえてひとの何倍も走らせたりしないじゃないですか。絵が苦手な子に、ちゃんと描けるようになるまで帰さないとかやらないじゃないですか。でも、勉強に関してはそこまでやることが正義であるかのようについ思ってしまう。

足が遅くても絵が下手でも社会に出て困らないけれど、勉強ができないと社会に出てから困ると、多くのひとが思っているからですよね。


安藤寿康さん(写真:露木聡子)

安藤:ジェネラルな学力が何らかの能力を測っていることは確かだけれども、それが社会に実装されたとき本当に意味のある能力なのかといったらそうでもないということはみんなわかっているのに、一方で、学力やその結果得られる最終学歴によって社会に出てからの地位や収入が違ってしまう構造を、受け入れてしまっている。

行動遺伝学の知見から導かれる論理的答え

おおた:たまたま知能や学力に関して有利な遺伝的特性をもったひとたちが圧倒的に有利な社会構造になっている。

安藤:料理でもスポーツでも芸術でも建築技術でも介護でも、人類はさまざまな文化的知識を生み出してきました。これらを学んで身につけたものを広く<学力>というのなら、いろいろなところにニッチ(ほかのひとがいないすき間)ができて、それぞれのもって生まれた遺伝的特性にマッチする学びや仕事が必ずみつかるはずです。


教育の成果というものをそういうふうに広くとらえ直していくしか、格差の連鎖の構造を変える方法はありません。行動遺伝学をふまえれば、論理的な答えはそれしかない。

おおた:私たちはできるだけ学力差が小さくなる世の中を望んでいると言っていながら、一方で、世の中のほとんどのテストは、結果が正規分布するように考えてつくられているわけです。差がないと困るから、わざと差をつくり出しています。

どんなに学力差が縮まったとしても、偏差値をはじき出せば、上から下までくっきりと差がつけられます。

安藤:教育成果のとらえ方を変えない限りその矛盾から抜け出せません。遺伝的な理由による<学力>の違い自体が遺伝的に適応的な学習の成果だととらえ、要するに「差があって当然。むしろ違いがあることこそ望ましい」という学習観を確立すべきだと考えます。

(おおたとしまさ : 育児・教育ジャーナリスト)
(安藤 寿康 : 慶應義塾大学名誉教授)