(東洋経済オンライン編集部2022年10月撮影)

半導体受託製造の世界的企業、台湾積体電路製造(TSMC)が熊本県に進出したことで、工場建設が進む菊陽町や関連企業などが進出している周辺自治体は地価や建設現場の人件費などが急上昇している。

人口4万4000人弱の町に第1工場だけで約1兆2000億円もの投資が行われているのだから無理もない。いま、何が起きているのか、そこには不安材料はないのか。最新の状況を検証する。

半導体バブルの様相を呈す

菊陽町で現在進められているのはTSMCの日本初となる工場で、ソニーグループやデンソーとの合弁(合弁会社はJASM)で2024年末までの稼働を目指している。6月には、TSMCが第1工場周辺で第2工場建設を検討すると表明。さらに、11月には「熊本県内に第3工場検討」といった報道まで飛び出した。今のところ公式発表されているのは第2工場建設までだが、その投資規模は巨額だ。第1工場は約1兆2000億円、第2工場も1兆円超の規模と伝えられている。

政府は第1工場建設に最大4760億円の補助金支給を決めている。第2工場建設に対する補助金も7500億円規模となりそうだ。世界的企業とはいえ、1民間企業の工場建設に1兆円以上の巨額補助金を支給するというのだから、政府(経済産業省)がいかに半導体事業に入れ込んでいるかがわかる。政府のあわただしい対応を見ているとTSMCの進出は、あたかも「令和の黒船」騒動のように見えてくる。

TSMC進出が決まって以降、菊陽町はすっかり「半導体バブル」の様相を呈している。その象徴が地価高騰だ。熊本県が11月下旬に公表した2024年度基準宅地価格によると、菊陽町は前回(2021年度)の8万6100円/平方メートルから10万9000円/平方メートルと26.6%も上昇し、県内で最大の上昇率となった。

周辺部も大津町22.8%、合志市17.6%と急上昇している。不動産関連サイトによると、菊陽町のマンションの売買平均価格は、2022年12月の2390万円が、今年12月は3686万円にまで跳ね上がっている。1年前に比べて5割以上も高騰しているのだ。住宅需要の高さを物語っている。

バブル現象は技術者らの採用現場でも顕著だ。半導体関連エンジニアは全国的に不足している状況で、激しい争奪戦が繰り広げられている。求人情報サイトに掲載されているTSMCの子会社JASMの技術系の新卒者(大卒)の初任給は28万円で、全国平均より5万円以上も高い。熊本県内の製造業と比べると7万円も高い水準だ。中途採用社員の募集を見ると、年収は600万円から1200万円と厚遇だ。

ちなみにJASMの2023年春の採用実績(新卒)は大卒以上99人、高専卒13人となっている。大学院卒の出身校は東大、京大、東工大、阪大など名門国立大がずらり。九州地区では九大、九工大、熊大、長崎大、崇城大(熊本県)などとなっている。

周辺エリアにも影響が及ぶ

TSMC特需に沸く菊陽町と周辺自治体には、さまざまな業種の企業、施設の大型投資や進出が続いている。半導体関連では、菊陽町に工場があるソニーグループが隣の合志市に約27万平方メートルの用地を取得。画像センターの新工場を建設する。

同じく合志市に拠点がある東京エレクトロン九州は事業所内に開発棟を新設。最先端半導体生産に欠かせないEUV露光装置のトップメーカーASMLジャパンは、技術支援拠点を益城町から菊陽町に移転・拡張した。

TSMC工場から6キロ離れた益城町で工場団地開発を表明したのは大和ハウス工業。2024年に着工し、2027年完成を目指す。総事業費は約110億円。約8ヘクタールの土地のうち7.4ヘクタールを6区画に分け8月1日から販売を開始した。菊陽町とその周辺エリアに半導体関連企業の集積がどんどん進んでいる。

半導体関連企業の進出で住宅需要が大幅に増え、マンションやアパートの建築ラッシュが続き、そのエリアは熊本市内にまで拡大している。さらに11月には生活必需品の需要を見越して、ニトリがTSMC工場から1.5キロの大津町内に熊本大津店をオープンした。

大津町では8月に地元資本のビジネスホテル(7階建て/21室)が8月に開業。東京の不動産コンサルティング会社は菊陽町と大津町に2つのビジネスホテルを建設中で、来年夏以降に開業予定だ。このほかにも大手ビジネスホテルチェーンも2025年開業を目指して大津町に建設を予定している。


TSMCの熊本工場(左)、ソニーセミコンダクタマニュファクチャリング株式会社の熊本テクノロジーセンター(右)、東京エレクトロン(奥)(時事通信フォト)

「黒船TSMC」の進出で交通インフラの整備も計画され、菊陽町周辺エリアは大変貌を遂げようとしている。肥後銀行を傘下に持つ九州フィナンシャルグループは8月末、「電子デバイス関連産業集積に伴う地域経済への波及効果の見直しについて」というリリースを発表。その中で、2022年からの10年間で進出企業数は90社、関連産業を含む雇用は1万0700人となり、電子デバイス関連産業集積に伴う10年間の経済波及効果は6兆8518億円になるとしている(TSMC第2工場は未考慮)。黒船効果は絶大だ。

まさにバラ色の未来が展望されているのだが、現実はいいことばかりではない。一帯がシリコンアイランド化していく中で、さまざまな課題や懸念材料が指摘されている。すでに始まっている工場周辺での交通渋滞に加え、工場・住宅用地争奪戦、水資源への影響、教育・子育てインフラ整備など受け入れ態勢の問題だ。

畜産農家が土地を借りられない事態に

菊陽町や周辺自治体は原則用途が農業に制限される「農業振興地域」となっているため、工場建設のための土地や住宅建設のための土地は限られていて、激しい争奪戦が繰り広げられてきた。そうした中で、将来的な転用を見越して農家に売却を持ち掛け、農地を取得する動きが増えている。後継者がいない農家が農地を手放すケースもあるが、問題になっているのは飼料作り用に土地を借りている畜産農家への影響だ。

JA菊池(菊池市、合志市、大津町、菊陽町)の2022年度の生乳生産量は約8万6000トンで西日本一。生乳販売額は97.8億円に上る。畜産農家の多くは輸入飼料の高騰もあり、飼料にするとうもろこしを自らの土地とほかから借りた土地で作っている。

ところが、TSMC進出以降、借りていた土地の返却を求められるケースが増えているという。工場用地などに転用するためだ。代わりの土地を見つけなければ飼料を作れないから畜産農家にとっては死活問題である。

「工場や倉庫用の土地、そして高速道路の整備に伴う需要もあるため農地の価格が驚くほど跳ね上がり、どんどん売却されています。ある工場建設予定地の周辺では、3年後には25町(7万5000坪)の農地がなくなります。酪農家は農地を借りて牛のえさとなるコーンを年2回収穫してきましたが、それができなくなってしまう。今の状況はまだ手始めで、売却も貸しはがしも今後もっと加速していくと危惧しています」(地元の農業関係者)

水資源への影響も大きな懸念材料だ。半導体工場では部品の洗浄に大量の水が必要となる。熊本にTSMCが進出した理由の一つは豊富で清冽な地下水の存在だといわれている。

JASMの1日当たりの採取量は8500立方メートル。JASMは採取量を超える地下水の涵養(水を地下に戻す)を行う方針だと伝えられている。7月に県がJASMのモニタリング井戸で行った揚水試験(24時間)では、試験前後で水位の低下は確認されなかったという。

熊本県は、新たな取水の指針を変更し、半導体関連企業が集積する菊陽町などが含まれる「重点地域」における地下水採取の許可を新たに得るには、地下水涵養計画を作成し、地下水採取量に見合う量(原則10割)を目標に、地下水涵養に取り組むこととした。

地下水採取が増えていくと…

また、中長期的な観点からは、県がシミュレーションモデルを用いてJASMの当初の計画水量(日量1万2000立方メートル)の採取による影響を予測した結果、中長期的な地下水位の低下は最大30センチ程度で、影響は局所的に限られることが確認された。菊陽町の地下水位の年間変動は5〜10メートル程度あることを踏まえると、大きな影響はないと考えられる、としている。

今後、JASMの第1工場だけでなくさまざまな工場や施設で地下水採取が恒常的に行われ、採取量が増えていったとき、同エリア一帯での水資源の減少、枯渇といった事態は本当に起きないのだろうか。

「熊本県内では年間に1億6176万立方メートルの地下水が採取されています。多い年には2億立方メートルということもありました。今後、新たな採取が増えていったとしても、降雨や涵養などで地下水は保全され、ただちに枯渇するといった事態にはならないと考えています」(環境立県推進課)

従業員や駐在員、その家族の受け入れ態勢はどうなっているのか。TSMC進出では台湾から従業員と家族750人が赴任するといわれ、この夏以降、来日が本格化している。

菊陽町の外国人人口は今年1月末は533人だったが、11月末には907人と7割も増加している。このため同町は外国人相談窓口を開設。毎週火曜日、木曜日は窓口に中国語、英語の通訳が、月・水・金は英語の通訳が常駐し、タブレットやスマホで多言語通訳サービスを行っている。

教育関連では9月にTSMC駐在員の子どもたちが熊本市内の熊本インターナショナルスクールに通い始めた。同校ではTSMC進出にあたり台湾人の教員を4人採用したという。

外国人の受け入れ態勢は十分か?

さらに九州ルーテル学院がインターナショナルスクールの小学部を来春開校するほか、県の教育委員会が菊陽町の小中学校それぞれ1校を拠点校に指定し、日本語指導員、教育支援員等を配置するなど、受け入れ態勢を整えている。

台湾から赴任する従業員の子どもは130人になるとみられているが、第2工場建設が進めば、さらに増えていく可能性がある。小中学生だけでなく、小学校入学前の未就学児の受け入れは万全なのか。電子デバイス業界では、アジア系だけでなく世界各国のエンジニアを採用する動きが増えてきているだけに、国際化への対応はますます広範囲となっていきそうだ。

「シリコンアイランド九州」への期待感は膨らむ一方だが、環境面や、他産業従事者への影響にも目を配っていく必要がある。半導体特需がいつまで続くのか。今後の国際情勢、経済状況の変化による事業全体への影響はないのか。過熱しているときだけに、なおさら冷静な分析と洞察が必要ではないだろうか。

(山田 稔 : ジャーナリスト)