「本を出している大学教授」といっても、「売れない教授」は本を書けば書くほどビンボーになるという(写真:Luce/PIXTA)

大学教授と聞いて思い浮かぶのは、お金や時間に余裕があり、特段の不自由を感じることもなく、淡々と研究に打ち込んでいるような先生だ。あえて極端な書き方をしたが、そういったイメージを抱いている方は実のところ多いのではないだろうか?

リアルな大学教授の実態

だが、『大学教授こそこそ日記』(多井学 著、フォレスト出版)を確認する限り、必ずしもそうとはいい切れないようだ(まあ、当たり前なのだけれども)。

大手銀行勤務を経て、S短大の専任講師として大学教員生活をスタート。そののち地方のT国立大に移籍し、現在は関西の私立大学であるKG大に勤務している人物だ。

KG大は京阪神の大学の中でも、関西弁で言うところの「シュッとした」学生、いわゆるお坊ちゃん、お嬢ちゃんが集まることで知られている。先日読んだ週刊誌によると「偏差値のわりに就職率がよく、卒業生の平均年収も高く、関西主要私大でもっともおトク」らしい。とはいえ、関西では国公立大が就職に強く、京都大を筆頭に、大阪大、神戸大の3大学限定の就職説明会も開催され、KG大だとエントリーシートで落とされるという噂を耳にしたこともある。まあ、そんな大学の現役教授である。(「まえがきーー学内の誰にも告げずに…」より)

つまりはそんな立場から(本人は「売れない教授」と自称している)、大学業界の裏表、リアルな大学教授の実態を明らかにしているわけである。

その意気込みが決して半端なものでないことは、著者名がペンネームであるところからも推測される。30余年にわたって大学業界で見聞きしてきたことを思う存分表現したかったからこそ、実名を明かしてしまったら面倒なことになるというわけだ。

本書を読めば、KG大の関係者の中には「多井学」の正体が誰であるか、推測がつく人がいるかもしれない、学内外から多少の反発があるやもしれないが、洗いざらい書いてしまったからには、もう仕方ない。この際、そういう声には耳をふさぐことにしたい。(「まえがきーー学内の誰にも告げずに…」より)

だからこそ読者としては、誰かの噂話を聞かされるような気楽さで楽しめるわけだが、著者もいうようにその道筋は決して平坦ではなかったらしい。

たとえば、そのことを如実に言い表しているのが「著作」についてのエピソードだ。明治大学の齋藤孝教授がそうであるように、毎月本を出版し、印税やテレビ出演だけでかなりの収入を得ていることが想像できる方もたしかにいらっしゃる。というよりも、それこそが一般的な「本を出している大学教授」像ではないだろうか?

ところがそういった無責任なイメージとは違い、著者のような「売れない教授」だと本を書けば書くほどビンボーになるというのだ。

「売れない教授」は印税ナシ

私はこれまでに10冊の本(単著)を出版している。このうち、4冊は完全な学術書で、著者印税は一銭も出ない。
印税がないだけなら、まだいい。この4冊のうち3冊は「自腹」、あるいは勤務校からの「出版助成金か個人研究費」というかたちで、数十万、時に100万円以上のお金を出版社に供与して、ようやく出版してもらっている。(28〜29ページより)

最初の単著本を出版したことには、10年以上の研究成果を学術書としてまとめて「博士号」を取得するという目的があったらしい。歴史学などの文系では、通常論文よりも単著本の出版が研究業績として高く評価されるそうで、面識のあった出版社に話を持ち込み、150万円の身銭を切ったのだという。結果的には晴れて「博士号」を取得できたようだが、決して安い買い物ではない。

2冊目は海外への在外研究後の成果をまとめたもので、自分の授業でテキスト使用する(200部は買い取る)ことを条件に自腹を切ることなく出版できたという(ただし印税はなし)。

他の2冊も出版助成金(150万円)を得たり、約80万円の個人研究費を出版助成金に回すことで発刊してもらったそうだ。「売れっ子教授とは違って、自分にとって本は『頼まれて書く』ものではなく、『頼んで出してもらう』ものなのだ」という発言の裏には、こうした切実な事情があるわけだ。

私が出した10冊の書籍の収支決算をすれば、学術書を出す際に自腹を切った費用にくわえ必要な書籍・資料・データ収集の代金と、一般書の印税が相殺されてプラスマイナスゼロというのが実際のところだ。マイナスにならないだけ恵まれているともいえ、とてもじゃないが「印税生活」など夢のまた夢なのだ。(32ページより)

コピペ論文を見破れ!

現在の学生には、われわれ世代の常識が通用しないことがあると著者は指摘している。それはまあ当然だろうとも思えるが、現実はこちらの推測以上にすごいことになっているようである。

たとえば「授業でレポート、ゼミ論文や卒業論文を書くんだよ」と伝えると、「授業時間内に執筆するのですか?」と真剣に聞き返してくるゼミ生もいるというのだ。当然のことながら、わずか100分で論文など書けるはずがない。そこで、「リサーチも含めれば何時間も要することになる」という当たり前のことから説明しなければならないわけだ。手取り足取り、である。

こんな調子だから、レポートや論文は提出時に仕上がっているわけもない。「て・に・を・は」の使い方もおかしく、前後の関係や文章としての脈絡も欠如していて、読んでいるうちに胃がムカムカしてくるものも多い。これに懲りて、私の場合、必ず最低一度はレポートや論文に赤字を入れて、書き直してもらうことにしている。(38ページより)

また、おおかたの想像がつくとおり、学生の論文やレポートを評価するにあたっては「コピペ(コピー&ペースト)」の問題も避けられないという。いまやコピペを見破るのも、大学教員の重要な仕事となっているのである。

少し前、「ChatGPTを使ったと思われる学生の論文について、教授が『これはChatGPTによる文章か?』ということをChatGPTで確認した」という冗談のような記事をどこかで読んだことがあるが、著者も似たような経験をしたようだ。

もともと授業にも出ず、熱心な受講生でもなく、自身の卒論について質問をしてもまともな答えを返せなかった学生が、いきなり完成度の高い卒論を提出してきたというのだ。

これ、どこかからパクってきてないか?
さっそく宮内君のワード文書から1ページ分を抜き出して、グーグルの検索窓に貼り付ける。なぜか胸がドキドキする。(中略)
「実行」キーを押す。グーグルの検索一覧に論文を販売していると思われるサイトが列挙される。
やっぱりあった! 自分の予想が的中した快感と、宮内君に裏切られた失望感が、ない交ぜの不可思議な気持ちだった。(41ページより)

そうして卒論の書き直しを命じた結果、あらためて提出された論文の出来の悪さは、明らかに自分のことばで書いたことを表していたらしい。なかなか味わい深い話だが、ともあれコピペではないことは明らかだったので、努力賞にあたる単位を授与したそうだ。

Cさんというゼミ生のレポートには、「アメリカ人の終末のすごし方」というタイトルがつけられていたという。終末期をどうすごすかを調べることは、アメリカ人の死生観を理解することにつながるに違いない。著者も、「おもしろいところに着目したな」と期待して読み始めたそうだ。

「1970年代はクリスチャンのアメリカ人7割が、終末に教会に行ったとのデータもあるが、現在ではその割合は3割に落ちている」
なるほど。アメリカ人の生活は教会と不可分だが、終末期のすごし方も時代の趨勢とともに変化しつつあるということだろう。
「資料によると、アメリカ人の8割は終末にバーベキューをする。またそれ以外の終末のレジャーとしては、ビールを飲みつつ、ポップコーンを食べて、アメリカンフットボールやメジャーリーグの試合を観戦するということもある」(132ページより)

ここまで読んだ著者が、「いくらアメリカ人とはいえ、死ぬ間際にアクティブすぎる」と感じたのも当然だろう。なんのことはない。レポートの内容は「アメリカ人の週末のすごし方」であり、つまりは「終末」と「週末」の誤植だったわけだ。

「お願い文」との戦い

いうまでもなく、学生がなにより気にするのは成績評価だ。なかでも普段から勉強しない学生にとって、60点以上のC(可)で単位を取れるか否かは死活問題になるわけだ。

そのため大規模クラスの授業では、「お願い文」が答案に書かれることがある。「かくかくしかじかの理由で満足な答案が書けなかったものの、就職も決まって、単位を必要としているので、なにとぞ……」というものである。

あるとき、単位を落とした彼が書面で正式な異議申し立てをしてきたことがあったそうだ。

<私は体育会野球部に所属しております。日々の厳しい練習のため、勉強に割くだけの十分な時間が取れず、勉強をすることができませんでした。また、私はもともと体が弱く、テスト前に体調を崩してしまい寝込んでおり、十分な体調でテストに臨むことができませんでした。あわせて成人式のために帰省をしたこともあり、勉強時間を満足に確保することができませんでした。しかし、今回の試験にあたっては、自分なりに精一杯頑張りました。どうかご配慮をよろしくお願いします>(135ページより)

ところどころに論理矛盾を感じた著者は、彼への回答をこうしたためたという。

<お体が弱いにもかかわらず体育会野球部でご活躍されたり、寝込みながら帰省して成人式にご出席されるなど、ずいぶんと精力的で何よりです。成績を再評価しましたが、100点中18点で、残念ながら60点のC(可)には足りません。お手紙のような勢いで次回も試験を頑張ってください>(135ページより)

彼から再度の異議申し立てはなかったようだ。

教授になれれば「こっちのもの」?

かように日常的なトラブルは頻発するにせよ、それでも著者は大学教授なのである。しかも前述のとおり、なんだかんだ苦労を重ねてきたとはいえ、「S短大の専任講師→T国立大の専任講師→KG大教授」とステップアップを実現している。

複線的なキャリアパスがあるとはいえ、ひとたび教授に昇格してしまえば「こっちのもの」である。私の場合、銀行員時代とくらべて天と地くらいの自由時間の差があるうえ、身分も保証されている。一般企業で耳にするような「問題を起こして降格」というような事例は聞いたことがない。教授になってしまえば、人事を気にせずに本書のような内容の本も書けるのだ(正体がバレれば、怒りそうな数人の顔が思い浮かぶものの、教授の職を追われるようなことはないはずだ。たぶん)。(187ページより)

たしかにそれは事実なのだろうが、ここまで明言されてしまうと「やっぱり大学教授は別格なのね」と感じたりもする(われながら心が狭いな)。


交通誘導員、メーター検針員、非正規介護職員、タクシードライバー、コンビニオーナーなど、さまざまな仕事に就く方々が本音を明かしたこの「日記シリーズ」には、それぞれ「大変だなあ」と感じさせる部分があった。それが魅力で、そこに共感していたのだ。

しかし、こういう文章に出くわした結果、「もしや、これまでの『日記シリーズ』のような共感を本書から得ることは難しいのではないか?」という不安を感じもしたわけである(ほんの一瞬だけだけど)。

だが結論からいえば、それは大きな誤解であった。なぜならこのあと、(少なくとも私の目から見れば)大きなどんでん返しが待っていたからだ。

それがなんなのかについては、あえて書かない。が、「なるほど、やっぱり人生にはいろいろあるんだなあ。この先、予想もしないようなことが起きる可能性があるということを念頭において、私も頑張らないと」と思わざるを得なかったのである。

そういう意味で、基本的には楽しめる内容でありながら、結果的としていろいろと考えさせられる一冊でもあったのだった。

(印南 敦史 : 作家、書評家)