「らんまん」「VIVANT」今期ヒット作の隠れた共通点
ついに最終回を迎える、連続テレビ小説『らんまん』(NHK)。『らんまん』や『VIVANT』に見受けられるメッセージとは(画像:NHK『らんまん』公式HPより)
朝ドラこと連続テレビ小説『らんまん』(NHK)が高評価のうちに9月29日、最終回を迎える。稀代の植物学者・牧野富太郎をモデルにした槙野万太郎(神木隆之介)が、妻・寿恵子(浜辺美波)に支えられて、初志貫徹、日本中の植物を採集し、細分化し、図鑑を作るという物語は、万太郎と寿恵子のピュアさと、彼らを取り巻く人たちの個性豊かさと相まって愛された。
植物に癒やされるドラマとして楽しめる一方で、強いメッセージ性を読み取ることができるのも『らんまん』の魅力であり、それは極めて現代的だった。このメッセージは『らんまん』だけでなく、昨今の人気ドラマにも見受けられる。そのメッセージとは何か。そしてなぜそれが描かれるのか。ドラマから読み解く2023年の今とは──。
「人間の欲望と競い合っている」
『らんまん』で印象的だったワードは、「人間の欲望」である。第111回で、万太郎は、寝る間を惜しんで、植物の標本づくりに励み、親友・竹雄(志尊淳)に健康を心配させる。なぜそんなに急ぐのかと問われた万太郎は、「人間の欲望と競い合っている」のだと答える。
というのは、万太郎は台湾に行き、日清戦争の爪痕に触れたばかり。台湾が日本の土地になったため、台湾の言葉が使用禁止になり、そこで見つけた植物に台湾の言葉で名付けることを許されなかった経験が万太郎を駆り立てる。
尽きることのない人間の欲望の肥大した形が戦争で、それによって、植物の存在を正しく記録できなくなる前に、植物図鑑を作りあげたいと考えるのだ。
脚本家の長田育恵がこの「人間の欲望」という言葉は、神木の提案によって書かれたものだと、22日、情報番組『あさイチ』に神木がゲスト出演した際、語っていた。神木のおかげで、おそれることなく、この強い言葉を書けると思ったと。
そして、この言葉がドラマのその後の万太郎を書く指針になったとも。神木当人は、その言葉を自身が発したと記憶していなかったようだが、誰発というのはさておき、「人間の欲望」という言葉が『らんまん』では重要なテーマの1つとなっていることが、この番組から見てとれた。
「出世」ばかりを目指す虚しさ
『らんまん』を振り返れば、はっきり言語化される前から、人間が私利私欲によって他者と争う姿を批評的に描いている。。万太郎は正式な学生ではないながら、東京大学に出入りが許可され、そこで多くの人たちと交流するなかで、出世のために植物学研究が利用される経験をする。
新種の発見や、名付けを行うことがステータスになるため、皆が躍起になるさまを、第76回で、学生・藤丸(前原瑞樹)は「こんなに執念深い人たちが世界中にひしめいてて運が悪かったで済まされて、研究ってそれに立ち向かうことですか?」と嘆く。
大学の派閥争いや、我先に第一発見者になろうとする競争心についていけず、藤丸は大学を辞めることになる。やがて、彼がコツコツと好きな研究をしていくことが救いだ。
万太郎のように能力があっても大学を出ていない者は軽視される。大学では、学歴や上に立つ者の覚えがよいことでしか認められない。そのため、皆、躍起になって、留学して箔をつけたり、研究の手柄を競いあったり、上の人にこびへつらったり。
でもそうやって手に入れた地位は、組織が不意に変わることによってあっという間に風向きが変わり、これまでやってきたことが意味をなさなくなってしまう。このことの虚しさを『らんまん』ではずいぶん長い時間をかけて描いてきた。
大学、ひいては国家のルールと、自分が本当にやりたいことが折り合わないとき、どちらを選ぶのか──万太郎は迷う。明治政府が発した合祀令によって神社の森が伐採され、そこでしか生息できない貴重な植物が絶滅の危機に面したとき、万太郎は、植物を守ることを選ぶのだ。国から援助をもらっている国立大学は、国の政策に反対はできない。だから万太郎は大学を去る。
令和5年、2023年のいま、明治神宮外苑の樹木が伐採されようとしていて、反対の声をあげている人たちがいる。そして、海の向こうでは、領土をめぐるウクライナ戦争が続き、終わりが見えない。
『らんまん』が今、心に響くのは、テレビを見ている私たちの周りで起こっていることと内容が重なりあっているからではないか。今、まさに可視化されている「人間の欲望」をドラマによって一層痛感するのだ。
同じく人間の欲望にフォーカスした「VIVANT」
“人間の欲望”にフォーカスしたドラマがほかにもあった。先頃、大ヒットして、続編も期待されている日曜劇場『VIVANT』(TBS系)である。
これもまた、奪い奪われ合う物語であった。中央アジアの一国バルカ共和国(架空の国)に潜入捜査で入国していたベキこと乃木卓(役所広司)は、40年前、日本政府に見捨てられ、妻を失くし、息子の憂助(堺雅人)とは人身売買され生き別れになる。
テントという組織を作り、紛争などで行き場を失くした子どもたちを助ける活動を行い、その資金のために、高純度のフローライトの埋まった土地を購入するが、この貴重な資源をバルカと日本が狙い、奪い合いに発展する。
「人間の欲望」という言葉が登場したのは最終回。ベキは「争いは何ひとつ生まない」でも「人間の欲望にはきりがない」と語る。フローライトのもたらす莫大な利益は「すべての国民に正しく分配されなければならない」と主張する。
だが、「民族は宗教で分断しない世界」「相手を敬いあい、分かち合うことのすばらしさをこの国に根づかせる」というベキの理想は、国家権力によって踏みにじられる。「いまこの国は、助け合いの心はどこへやら、奪い合い、一部の特権階級が生き残ることばかり考えている」とベキは嘆く。
今を生きる日本人の潜在意識をくすぐった
『VIVANT』の大ヒットは、考察要素満載、個性的な登場人物の活躍、海外ロケまで行った痛快な冒険ドラマであることだが、当初はあまり視聴率が伸びなかった。終盤、ぐいぐい伸びてきた理由の1つは、この奇想天外な物語が、今の日本と地続きの、欲望にまみれた世界であることを明確にしたことで、今を生きる日本人の潜在意識をくすぐったからではないだろうか。思えば、同じ監督、同じ主演俳優でヒットした『半沢直樹』も、経済を主題にした人間の欲望による戦いだった。
ドラマを見て、果てない欲望に歯止めをかけるべきと思う人もあれば、その欲望のゲームの面白さを享受する人もいるだろう。『VIVANT』の場合は「欲望」をエンタメのエンジンとして駆動させ、『らんまん』は、明らかに欲望が主体の価値観からの逸脱を提唱しているように感じる。方向性は違うが、同時期に「人間の欲望」を打ち出してきたことが興味深い。一時期、連ドラは「真実」という惹句のように頻繁に用いられていたが、最近は「欲望」にシフトしているようである。
もう一作、人間の欲望にフォーカスしたドラマがある。大河ドラマ『どうする家康』(NHK)である。乱世を経て、戦のない国づくりを達成した徳川家康(松本潤)の物語で、彼の前には天下統一を目指す、戦国武将が次々立ちはだかる。
目下、豊臣秀吉(ムロツヨシ)が関白にまで上り詰めたところ。秀吉は、農民の出ながら、その類まれなる才覚で、のし上がってきた人物という認識があり、時代劇では人気がある。
ところが『どうする家康』では、家柄コンプレックスを埋めるため、織田家の血を引く茶々(北川景子)を側室にするなど、欲深さが強調され、家康主役のドラマとはいえ、秀吉の功績はほとんど描かれていない。母・仲(高畑淳子)は息子の出世で何不自由ない身分となったものの、自分は「幸せなんかのう」と疑問を抱く。
もしも戦国の女たちが野望・欲望反対運動をしたら?
また、家康の妻・瀬名(有村架純)は、『VIVANT』のベキと同じように「わかちあうこと」を主張し、戦争のない国づくりをしようと賛同者を集め、それが織田への裏切る行為とみなされて命を落とした。
ドラマでは、家康が、亡き妻が夢見た戦のない世界を作ろうとして、自分が乱世の覇者にならずとも、秀吉が戦のない世にしてくれるなら、プライドを捨てて彼に跪くことを選ぶのだ。「男の夢や野望のためにおなごが利用されるのは、もううんざりじゃ」と家康の母・於大(松嶋菜々子)は嘆く。
この展開が、なじみ深い歴史ものとかけ離れ、戸惑う視聴者も多いようだが、歴史に詳しくない視聴者なら、もしも戦国の女たちが戦争反対活動をしたら?というif展開として親しみやすく見ることも可能であろう。
もし、ウクライナ戦争が起こっていなかったら、『どうする家康』ももっと戦国武将を肯定し、戦シーンの痛快さを描いていたかもしれないし、『らんまん』も『VIVANT』にも「人間の欲望」という言葉は存在しなかったかもしれない。偶然とはいえ、人気ドラマで主要な人物から発せられた言葉は、時代を表す言葉なのである。流行語大賞の候補にしてはいかがだろうか。
(木俣 冬 : コラムニスト)