「いい子」を育てたい大人に共通する毒親資質
むしろ「違う」からこそ健全なときも(写真:Ushico/PIXTA)
どんなに精神的に未熟で、世間でいう「毒親」であっても、子どもから見れば、かけがえのない存在に違いない。たとえ親が求めることが「大人の言うことをよく聞きなさい」「自分のことより他人のことを考えなさい」という子どもに従順さを求めるものであっても、「母(父)が喜んでいるなら」と、疑問を持たずに従ってしまう……。
アメリカでベストセラーとなった『親といるとなぜか苦しい』の著者である心理学者のリンジー・C・ギブソン氏は、精神的に未熟な親とのつき合い方に悩んでいる人に向けて、実践的なアドバイスをしている。
親にとっての「いい子」であることを美徳に思う必要はなく、親に気を遣わないことだ。それだけで親子の関係が変わるきっかけになる。
思いやりがあって、愛情深い子どもほどこう思ってしまうものだ。「でも、親に気分よく幸せになってもらいたいと思うのは、悪いことではないですよね?」。
ギブソン氏はこの言葉が象徴するものこそ、子どもが親に対して背負う重たい役割――「親に対する自己犠牲」だと言う。精神的に未熟な親は、このような子どもの優しさを利用し、自己中心的にからめとるからである。
子どもの個性や欲求を抑圧し否定する親
精神的に未熟な親とかかわるための役割を演じるのをやめたときに、どんな気持ちになるかを見ていこう。
新たな考え方を身につけて行動すれば、自由をとり戻して、本当の自分になれる。かんたんではないが、がんばってみる価値はある。その前に、子どもを古い役割に閉じこめる家族の形について考えていこう。大まかに言って、そのタイプは2つある。
・個性の阻止
精神的に未熟な親に育てられた子どもは、幼いころ、相手の神経を逆なでしないよう息を詰めて暮らしてきただろう。そういう親が、子どもをからめとってつくりあげてきた家庭は、さながら「要塞」だ。
精神的に不安定で未熟な親にとって、子どもの個性は恐怖でしかない。拒否されたり見捨てられたりしかねないからだ。子どもが自分の考えを持てば、親を批判し、自立するかもしれない。だから彼らにとって家族は、個性を持った存在ではなく、「行動が予想できるファンタジーの中の人物」と思っているほうが安心できるのだ。
・個の欲求や希望の否定
不安だからこそ常に厳格な支配力を行使する親は、子どもの行動はもちろん、感情や考えまでも支配する。自分で問題を解決していくタイプの子どもは親の言うことを真剣に受け止めがちなので、自分の内なる経験は正しくないと思いこんでしまうことがある。
この手の親は、「親と違うのは恥ずかしいことだ」と教える。すると子どもは、自分の魅力や、強みまでをも否定し、かわいげのないものと考えるようになる。こうした家庭で育つ子どもは往々にして、次のようなごくふつうのことを恥ずかしく感じるようになっていく。
・やる気
・自発性
・傷ついたり、なにかを失ったり、変化することへの悲しみや嘆き
・天真爛漫な愛情
・本当の気持ちや考えを言うこと
・ひどいことをされたりバカにされたときに怒ること
親のエゴが「正しい」とカン違いする
反対に、次のような経験や感情は、むしろ「いいことだ」と教えられる。
・目上の人の言われたとおりにし、尊敬する
・親に力や支配力を与えるような身体的な病気やケガ
・不安や自信喪失
・進んで親と同じようにする
・完璧にできず、ちがったことをしてしまうことに対する罪悪感や恥ずかしさ
・人の話、それも特に親の悩みや不満に自発的に耳を傾ける
・女の子は笑顔で、男の子はたくましくといった典型的な男女の役割に徹する
精神的に未熟な親に育てられた、がんばり屋タイプの子どもなら、自分を追い詰めながら生きていかなければならないことをたくさん教えこまれてきたかもしれない。特にひどいのは次のようなものだろう。
・自分のことよりも、他者がしてもらいたがっていることをまず考える
・自己主張しない
・助けを求めない
・自分のために何かを求めたりしない
こういう子どもが思う「いい子」は、親がまず自分の欲求を満たせるよう、万事において控えめでいることだ。彼らは、自分の感情や欲求はさほど大事ではなく、ことによっては「恥ずべきものだ」と考えるようになるが、こうした考え方がいかにゆがんでいるかに気づけば、状況は一変し得る。
子どものころは、親の意見や信念を内なる声として受け入れていく。その声は、わたしたちの内側から絶えず聞こえ続ける。
たいていは「〇〇すべき」「〇〇したほうがいい」「〇〇しなければいけない」と言ってくるが、当人の価値や知性や道徳的な人格については無遠慮に批判してくることも多い。
こうした声は、自分の声のように聞こえるかもしれないが、実際は、幼いころに世話をしてくれた人(つまり親)の声が当時のままに響いているだけだ。
「いい子」に徹しすぎて自分を見失う
著名な大学教授のDさんは、もう何年もうつ状態にあった。彼は、横柄で批判的な父親と、自分のことしか考えない母親にまるで関心を持たれないままに育ってきた。
Dさんの内在化された親の声はとにかく否定的かつ完璧主義で、彼はその声に絶えずとがめられていた。声の要求に完璧に応えられないと、すぐに自分で「自分はダメだ」と決めつけて自己嫌悪におちいった。しかも、本当に自分がやりたいことなのか、声に言われるからやりたいと思うのかも分からなくなっていた。
幸い治療を通して彼は、その声が、責められてばかりきた両親とつながっていることに気づく。ずっとこの声は理性の声だと思ってきたが、ようやく、実は両親の声であったことを認識し、自分に害を及ぼすものだと理解した。
子どもは毒親にも「つながり」を求める
子どもが、精神的に未熟な親から何かを望むとき、両者の関係はこのうえなくしんどく重たいものになる。ネグレクトされてきた子どもの多くは、大人になっても、「精神的なかかわりを親から得たい」と望み続ける。親がそういうタイプではないにもかかわらず、だ。
自分が親を必要としているのか、あるいは、親を必要とする自分を親が必要としているのか。一歩引いて自問するのは、なかなか勇気のいることかもしれないが、もしかしたら、あなたの親は、子どもが何かを望めるような相手ではないのかもしれない。精神的に未熟な親は、いつ果てるともなく子どもの期待を裏切り続ける傾向がある。
Gさんの母親は、しょっちゅう不機嫌な顔で文句を言う人だった。母親に対してどんなに心を尽くしても、何ひとつうまくいかず、Gさんは母親との間に境界線を設けることにした。
ある晩、朝から母親宅に行ったGさんが、母親のためにと思ってがんばったことがことごとくうまくいかず、ストレスを溜めただけで帰ろうとしていたとき、母親がこう漏らしたという。
「会いにくるだけでいいから」
Gさんは面食らった。あんなにがんばったのに、お母さんが望んでいたのはそれだけ?
その後は、母親の言葉をそのまま受けとり、母親の心をおもんぱかって気を遣うことをやめた。するとそれだけで、母親のもとを訪れるのがつらくなくなった。
結局のところ、しっかり考えること。本当に親に何かを望んでいるのは今の自分なのか、それとも、かなわなかった子どものころの望みの名残なのか、と。
(リンジー・C・ギブソン : 臨床心理学者)