1992年、兵庫県警をあとにする5代目山口組の宅見勝若頭や司忍若頭補佐

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5代目山口組vs会津小鉄

 5代目山口組の宅見勝若頭がホテルのラウンジで銃撃され、死亡した「宅見若頭射殺事件」は1997年8月に発生した。白昼、ホテルのラウンジというオープンな場所での凶行だったこと、そして隣のテーブルに座っていた歯科医の男性が流れ弾に当たって死亡したことなどから社会は大いに震撼し、暴力団に対してより一層厳しい目が注がれるきっかけとなった。この射殺事件の発端となったのは、前年7月に発生した中野会会長襲撃事件だった。両事件がもたらしたものとは何だったのか?

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 中野会会長襲撃事件は、1996年7月10日に発生した。京都府八幡市内の理髪店で散髪中だった5代目山口組の若頭補佐で中野会の中野太郎会長が、会津小鉄会傘下の組員に銃撃されたものだ。中野会長のボディガードが拳銃で応戦し、会津小鉄会系組員らは返り討ちにあって射殺された。中野会長は無事だった。

1992年、兵庫県警をあとにする5代目山口組の宅見勝若頭や司忍若頭補佐

 この襲撃事件の背景にあったのが、土地利権を巡る5代目山口組と会津小鉄会との争いである。かつての抗争事件を経て、山口組と会津小鉄会との間には明文化されない形で“不可侵条約”が結ばれていたのだが、1990年代に入ると、“死文化”していったのだ。

3億円の現金と指

 血で血を洗う激しい抗争の中では、5代目山口組系の組員が会津小鉄会系組員と間違って警備中の警官を射殺する事件も発生。これによって、渡辺芳則5代目が使用者責任を問われることにも発展した。

 1996年2月、渡辺5代目の後に山健組を継承していた5代目山口組の桑田兼吉(かねよし)若頭補佐、4代目会津小鉄会の図越(ずごし)利次若頭(会津小鉄3代目の実子)、共政会(本部・広島市)の沖本勲会長が5分の兄弟盃を交わした。抗争にそろそろピリオドをという思惑あってのことだったが、蚊帳の外に置かれた形の中野会長は面白いはずがなく抗争は続き、結果、自らもターゲットにされることとなった。

図越若頭から宅見若頭へ

 そして起こったのが7月10日の中野会長襲撃事件である。この直後、図越利次若頭は神戸市内の5代目山口組総本部を訪ねた。

「3億円の現金と京都の病院で麻酔して落とした指を携え、謝罪したそうです」

 と、中野会で中野会長のもと、若頭補佐を務めた経験を持つ竹垣悟氏(元山口組系義竜会会長で、現在はNPO法人「五仁會」を主宰)。

 組織を取り仕切っていた宅見若頭は、図越若頭らの謝罪を受け入れたという。

「元々、中野会長と宅見若頭の間柄は良かったのですが、徐々に関係が悪化し、当時は修復が難しいレベルにまできていたと記憶しています。自らに相談がないまま頭越しに謝罪を受け入れるという、蚊帳の外に置かれるような振る舞いを受けたことに、中野会長は激怒し、怒りが収まらなかったのでしょう。私は直接関係していなかったのですが、中野会長は、会津小鉄会との抗争の中で図越若頭をターゲットにその動向を把握させていたようです。ところが、その後にターゲットを宅見若頭にシフトし、暗殺する機会をうかがっていたようです」(同)

ソウルで変死や無期懲役まで

 そして、運命の1997年8月28日を迎えることになる。

 事件直後、渡辺5代目は中野会長に温情を施し、復帰の可能性のある破門としたが、カタギである歯科医の死亡が確認されたことを受け、絶縁処分とした。

 中野会長は自らの関与を否定し続けたが、その後、犯行に関わったグループが中野会系組員であることが判明。実行犯は1人を除く3人は殺人罪で逮捕・起訴され、長期の服役をし、現在は出所している。時代が違えばさらに重い量刑が言い渡されていたことかもしれない。

 指揮役は韓国ソウルでナゾの変死を遂げ、見届け人役は潜伏中の2013年6月に兵庫県警に発見され、その後、殺人罪などで無期懲役が確定している。

 実行犯の1人は事件発生から9年弱が経過した2006年6月、神戸市内の某倉庫内において遺体で発見された。外傷はなかったとされる。

一切関与しなかった司6代目

「遺体で見つかった組員には中野会から逃走資金が出ていたと見られます。中野会は2005年8月に解散していますから、それに伴って資金が途絶え、万事休すということになったのでしょう」(同)

 中野会長襲撃から宅見若頭射殺に至る5代目山口組内の水面下の動きは、様々に語られてきた。

「宅見若頭一派が中野会長を看過し難いほど煙たく思うようになっていたのでしょう。それを察して中野会長が動いたということです。渡辺5代目をおろし、桑田若頭補佐を6代目に据え、宅見若頭は総裁に就任し、院政を敷くプランが一時期検討されていたというのが定説になりつつあります。そういった構想に一切関与していなかったのが司忍6代目で、それも6代目の座を射止めた理由の一つなのだと思います」(同)

 当事者の思惑はさておいて、一般人に被害が及ぶような事件が許されないのは言うまでもない。

デイリー新潮編集部