作家、澤田瞳子の異色作であり王道作。著者の気高い戦いを見る――。 『駆け入りの寺』(澤田 瞳子)
異色作、というのが、『駆け入りの寺』に対する世間一般の評だろう。
歴史小説家・澤田瞳子といえば、古代史小説や絵師小説の書き手として広く知られている。どちらにもぴたりと重ならない本作が異色作に位置づけられること自体は、むしろ順当と言えるだろう。
この書き出しでお察しの方もおられるだろう。わたしはこの小稿において、そうした見方に一石を投じたいと目論んでいる。本作は著者異色作かと思いきや王道作であり、王道作なのに異色作。わたしはそうした印象を持っている。
なぜわたしがこうもヒネた考えに至っているのかを説明するためには、本作の構造に深く立ち入る必要がある。作家の仕事を腑分けするような野暮な行ないとなってしまうが、平にご寛恕いただきたい。
本作は、比丘尼御所(皇女、王女、公卿や貴紳の息女などが出家して住持となった寺のこと)、林丘寺を舞台にした物語である。後水尾天皇の皇女である元瑶が初代住持となり、霊元上皇の皇女である元秀がその座を引き継いでいる江戸時代中期、林丘寺で働く青侍の梶江静馬が、寺に持ち込まれる俗世の厄介ごとに遭遇、奔走する中、前住持の元瑶が毎度そうした厄介ごとに首を突っ込み、絡まっていた糸が解けていく、というのが本作で繰り返される大まかなストーリーラインである。ミステリ作品や人情小説でよく用いられる連作短編形式が採用されており、事実本作には謎解きめいた展開を持った一篇もあり、かつ、人情小説的な色合いも強い。普段、激変期をモチーフにする傾向があり、長編形式を取ることの多い澤田瞳子作品としては社会の安定期という珍しい時代設定、珍しい物語形式を採用していると言える。本作が異色作に見える所以はそうした辺りに求められよう。
一方で、本作は澤田作品らしさで溢れている。
そもそも比丘尼御所を舞台にするところからして、非常に澤田瞳子作品らしい。本書における比丘尼御所は、禁裏の雰囲気を色濃く湛えた場所として設定されている。本書に触れた際に感じる雅やかさは、比丘尼御所の持つ王朝の香りが丁寧に描写されているがゆえのものである。時代設定こそ近世だが、本作は近世離れした、ゆったりとした空気が流れている。
また、“聖”の側の人々が物語に深く関わっている点も澤田作品的である。澤田作品において、「僧」には重要な役割が与えられている。東国武者の平将門と仁和寺僧の寛朝との交流を描いた『落花』(中央公論新社→中公文庫)や、悪僧(僧兵)として興福寺に身を置く範長が、平家、ひいては戦乱の時代と向き合う『龍華記』(角川書店→角川文庫)などがその好例として挙げられようが、武家や庶民といった“俗”とそこから隔絶した世界である“聖”を対置して作品のテーマを浮き彫りにする手法は、澤田作品においてしばしば散見される。それらを踏まえて眺めると、本作もまた“聖”と“俗”の対照による物語と位置づけできよう。
様々な階級の人間を登場させる人物配置も、澤田作品らしさの一端を担っている。本書は皇女の住持元秀や前住持の元瑶、青侍の梶江静馬や滝山与五郎、尼の浄訓の他、元秀の乳母の賢昌尼、住持に仕える大上臈の慈薫や、林丘寺を運営面から支える侍法師の碇監物や中通の嶺雲など、様々な人々が彩をなしている(個人的には、どこか生意気で、静馬に対して甘えが見え隠れする浄訓がお気に入りである)。こうした「様々な階級の人々を描き出し彩をなす」やり方も、天平期のパンデミックを描いた『火定』(PHP研究所→PHP文芸文庫)などにも見ることができ、後に石見銀山の人々を重層的に描く『輝山』(徳間書店)に結実していく要素である。
わたしが本作を著者王道作の系譜に連ねるべきと考えているのは、ざっとそうした理由からである。
しかし、本作において、右記の“澤田作品らしさ”が、物語の底流で少しずつ“ずらされ”ていることも指摘しておかねばならない。
先に「本作は近世離れした(空気が流れている)」と書いたが、厳密には正しくない。比丘尼御所の林丘寺は非近世的な雰囲気を湛えつつも、やはり近世という時代から自由ではない。それは、江戸時代のシステムに従い運営される林丘寺の姿が活写されているからであり、本作の事件の多くが林丘寺の外からもたらされるがために、林丘寺が絶えず近世社会と交渉せざるを得ないからでもある。
また、澤田作品の特徴として“聖と俗の対照”を挙げたが、少なくとも本作における“対照”は、いささか複雑な形を取っている。本作のストーリーは確かに林丘寺という“聖”の元に市井の“俗”の問題が持ち込まれることで展開されてはいる。しかし、作中で描かれる“俗”の事件には、(“聖”の側にいるはずの)林丘寺の人々の行動や思いが密接に関わるものも多い。林丘寺にいる人々は、いかに王朝の気配を身に纏いながらも近世人であり、聖の側に属しているようでいても俗とは無縁の存在たり得ていない。本作における林丘寺や寺にいる人々は、前近世と近世の間、聖と俗の間をふらつき続けているのである。
本作を初めて(単行本刊行時に)拝読した際、わたしは疑問に思ったものだった。なぜこの小説はこんなにもややこしい構成を取っているのか、と。
わたしは一応、それに対する答えを用意できる。
林丘寺のアジール性を否定するためである。
アジールとは、世俗の統治権力の及ばない地域のことで、中世日本においては寺社などがそうした場所であったとされる。しかし、近世に入り寺社のアジール性は武家政権による一元支配によって否定され、縁切寺の離縁調停などにその名残が留められたと説明される。
本作における林丘寺はアジールに近似した働きをしている。その反面、作中のそこかしこで、林丘寺が中世寺社ほどの力を持たず、制度的にも俗世の調停を行なう権限を持っていないと度々言及されている。
なぜ本作はこんなにも林丘寺のアジール性を様々な形で否定しているのか。それは、林丘寺が理由なく俗の調停に首を突っ込んでいる不可解な状況を作り上げるためである。なぜそこまで? そんな疑問が作中の底流にずっとあり続け、それがラスト、ある人物の祈りに回収され、物語の環が閉じられる。言うなれば、本作は従来の“澤田作品らしさ”を壊した先にしか描けない境地の上に立っているのである。
わたしが本作を「王道作なのに異色作」と述べた理由、それは、物語の要請に応じ、著者が従来の“澤田作品らしさ”を底流で分解し、新たな構築を試みている様子を見て取ることができるからである。
“転がる石には苔が生えない”のは何もロックンロールだけの話ではない。小説家もまた、常に変わり続けなければならない。わたしは本作に、同じ処に留まり続けるのをよしとしない、作家澤田瞳子の気高い戦いを見るのである。
……といった話は、あくまで本作の底流に存在するベース音に過ぎない。わたしが縷々説明してきたことを一言でまとめると、「本作は強い剛性を有した物語構造を取っている」というだけのこと。
本作は先にちらと書いたとおり、林丘寺の人々の和気藹々とした掛け合いが心浮き立つ“企業”小説であり、これまでの来し方ゆえに“逃げる”選択肢が取れずにいる視点人物、梶江静馬の成長物語でもあり、そしてある人物の祈りを巡る物語でもある。もし先に本編ではなくこちらの解説をお読みの方がいらしたなら、肩の力を抜いて、作品世界に耽溺して頂きたい。その上で、作品構造にまで細心の注意を払い、新たな領域に筆を伸ばそうとする著者の手腕に膝を打って頂けたなら、この解説はまず成功といったところである。