茨の道をまっすぐに歩いていけ――完結篇に込められた作者のメッセージ 『舞風のごとく』(あさの あつこ)
大ベストセラーになった『バッテリー』を始めとする児童文学で知られていたあさのあつこは、その後、一般文芸に進出。さらに二〇〇六年、初の時代小説『弥勒の月』を刊行すると、これをシリーズ化した。作者が時代小説に乗り出すとは、まったく思っていなかったので、大いに驚いたものである。だが、ウェブサイト「本の話」に掲載されたインタビューで、
「時代小説は以前からずっと書きたいと思っていましたが、藤沢周平さんの作品、特に短篇が好きだったことが大きいですね。藤沢さんのように時代小説で人を描いてみたいと。実は『バッテリー』を書いていた時に、私の最初の時代小説『弥勒の月』(光文社文庫)を並行して書いていました。児童、青春小説と違う大人の世界を書いてみたいという気持ちが強くありました」
といっている。別のトークショーによれば、出版社の注文ではなく、ただ書きたいから書いていたそうだ。それほど時代小説への想いが強かったのだろう。実際、作者の時代小説への取り組みには、目を見張るものがある。先のシリーズの他にも、複数の時代小説のシリーズを執筆して現在に至っているのだ。そのひとつが、「小舞藩」シリーズなのである。
「小舞藩」シリーズは四冊が刊行されている。少年藩士・新里林弥の成長を描いた『火群のごとく』(二〇一〇)、『飛雲のごとく』(二〇一九)、本書『舞風のごとく』(二〇二一)の三冊と、小舞藩に生きる男女の愛を描いた短篇集『もう一枝あれかし』(二〇一三)だ。刊行年を見れば明らかだが、『火群のごとく』と『飛雲のごとく』の間が、九年も空いている。『もう一枝あれかし』が挟まれているとはいえ、シリーズとして考えると、空白期間が長すぎる。『火群のごとく』を既読の読者ならお分かりだろうが、この作品の内容は一冊で纏まっている。作者としては単発作品のつもりだったのだろうか。あるいは二〇一一年から一六年にかけて文春文庫から時代小説『燦』全八巻を書き下ろしで刊行しており、そちらに傾注していたのかもしれない。
だが、別の可能性もある。『飛雲のごとく』の文庫解説を担当した杉江松恋は、二〇一一年三月十一日に起きた東日本大震災が影響を与えたのではないかといっている。詳しいことはその解説を読んでいただきたいが、私もこの意見に同意する。なぜなら本書が、小舞藩を襲った大火――災害からの復興を描いているからだ。東日本大震災ではショッキングな映像が幾つもテレビで流れたが、宮城県気仙沼市などの火災もそのひとつであった。あえて火災を本書の題材としたところに、私は東日本大震災の影響を感じるのである。
さて、本書の内容に触れる前に、シリーズの流れを押さえておこう。物語の舞台になっているのは、小舞藩という六万石の小国だ。二つの名川を有し、水利に恵まれ、高瀬舟を使った交易と川漁が盛んである。
『火群のごとく』では、父親代わりの敬愛する兄を何者かに殺された新里林弥の二年間を見つめていた。背傷を負い、刀も抜かないまま死んだため、臆病者の汚名を被った兄。義姉の七緒への恋心を抱きながら、事件の真相を突き止めようとする林弥だが、何もできない。そんなとき、筆頭家老の三男だという樫井透馬が現れ、徐々に事態が動いていく。道場仲間の死などの悲劇や、兄の死の真相などを経て、林弥は成長していく。
続く『飛雲のごとく』は、もうすぐ十七歳になる林弥が元服する場面から始まる。だが元服したからといって、すぐに大人になるわけではない。『火群のごとく』の一件は後を引き、林弥や透馬は、再び騒動にかかわることになる。初めて人を斬り殺したこと。義姉への恋心を断ち切られたこと。父親の後を継ぐという透馬に、道場仲間の山坂和次郎と共に仕えることを決めた林弥は、厳しい大人の道へ足を踏み入れる。
という展開を経て、本書『舞風のごとく』である。「オール讀物」二〇一九年十一月号から二〇年十二月号に連載。単行本は、二〇二一年十月に刊行された。物語は、小舞藩城下の五分の一から四分の一を焼いた、大火の場面から幕を開ける。
『火群のごとく』の一件の影響を受け、家族を失った千代(七緒の兄・生田清十郎の娘)は、叔母を頼り、尼寺の清照寺の世話になっていた。大火の罹災者を受け入れた清照寺で、独楽鼠のように働く千代。そこに若い武士がやってきた。食料を始めとする、必要な物資を用意するというこの武士こそ、今は樫井透馬に仕える新里正近(林弥)である。十四歳の千代から見れば、頼りになる大人だ。とはいえ大人の社会では、まだヒヨッコに過ぎない。それは透馬も同様だ。筆頭家老の後嗣ということで、執政会議の末席に連なるが、発言権はほとんどない。藩の指導者たちの動きの鈍さに怒りながら、自分の家の蔵を開け、独自に罹災者の救済を始める。その手足となっているのが、正近や、やはり透馬に仕える山坂半四郎(和次郎)なのである。そして被災地の視察などをしているうちに、正近たちは大火が付け火ではないかと疑うようになるのだった。
一方、死の寸前の罹災者から、大火が付け火だと聞いてしまった千代。これにより彼女は命を狙われる。千代の件や、『飛雲のごとく』で正近が知り合った女性の件から、やがて大火の醜悪な真相が浮かびあがるのだった。
兄の死の真相が重要な読みどころになっていた『火群のごとく』を見ても分かるように、「小舞藩」シリーズは、ミステリーのテイストが濃い。その中でも本書は、もっとも真相のインパクトが強いといえるだろう。終盤で立て続けに暴かれる真相。付け火の動機は、あまりにも卑小だが、切実なものである。詳細は省くが、シリーズものだからこそ、驚きは大きい。そして大人の道を歩む正近たちとの対比で、犯人の悲しみが際立つのである。
ただし本シリーズの最大の注目ポイントは、やはり正近の成長だ。兄の死を切っかけに、藩の権力抗争に巻き込まれながら、少年から大人となった正近。しかしまだ藩を動かすだけの力はない。一途な性格だが、身の近くに闇のある正近が、社会の汚さを理解しながら、自分たちはそれに染まらずに生きていこうとする。藩を変えるということは、政治にかかわるということであり、清らかに生きていくのはまさに茨の道だ。その道が本書で、鮮やかに示されているのである。
もちろん準主役の、透馬の存在も見逃せない。江戸で生れ、職人になろうと思いながらも、しかたなく筆頭家老の後嗣になった透馬。為政者としては有能だが、人として欠けたところのある父親を好きになれない彼は、正近や半四郎と共に、やはり茨の道を歩いていく。正近以上に複雑な性格の透馬だが、信頼できる仲間がいるからこそ、道を誤ることがないのだ。腐れ縁と友情をごちゃまぜにしたような、正近と透馬の関係も、シリーズの読みどころになっている。
さらに女性陣にも留意したい。清照寺には千代だけでなく、尼になった七緒もいる。前作で正近と知り合った女も、重要な役割を背負って登場する。男のドラマと並行して、女のドラマも書き込まれているのだ。それが互いに響き合い、ストーリーをより重厚なものにしているのである。
作者は本書で、被災地や罹災者の様子を、克明に描いている。読んでいて何度か、辛い気持ちになった。だが、目を逸らしたくはない。正近や透馬の成長に一喜一憂しながら、作者が物語に込めたメッセージを、真正面から受け止めたい。