映画の暴力と救済について 『映画の生まれる場所で』(是枝 裕和)
『舞妓さんちのまかないさん』というNetflixの配信ドラマで、是枝さんの作品に出演するという夢が叶った。念願だった。夢が叶う心地というものを、初めて鮮明に感じた気がした。けれどほんの少しだけ滲んだ涙は、嬉しさだけを物語るものではなかった。
現実から浮世離れしていたものが、突如日常生活の延長線上に立ち現れ、今までは手の届かなかったそれの手触りを知った。具体的な責任や実務がのしかかり、喜びに浮ついてはいけないと自制心も働き、私の足はしっかりと地面に着いていた。
夢が叶うということは、夢が消えるということだ。私はそれがほんの少しだけ、さみしいような気もした。
映画の加害性について考える。
まず一つは、カメラそのものが持つ暴力性。
当然人は、不可逆な時間の中で変化し続ける生き物である。カメラはそれを切り取ることで、いつだって再生可能な時間の中に役者を閉じ込め、冷凍保存してしまう。
作品の中に生きる自分について語られるとき、そこに今の私は存在しない。すでに他人となった自分の姿が持て囃されるも非難されるも、そこに今の私はいないのだから、今の自分は透明化されてしまう。
ほとんど確実に、過去の自分と今の自分を比較されることも暴力の一つだ。「以前と変わらない」「以前より魅力的になった」というのではなく、「以前のあなたの方が好きだった」などと言われたとするならば、それはすでに死んでいる、自分の亡き骸への愛を語られることになる。今を生きる自分の姿は劣っているとみなされ、これまでの人生を、生きてきた時間を丸ごと否定されるような、そんな心持ちになる。
これらの役者として受ける暴力は、その暴力を受ける環境を自ら選んでいるということもあるため、私は異議申し立てをしたいわけではない。
私の体にはいくつもの痣が残っている。この痣だらけの体を美しいと魅せることでしか、この暴力に立ち向かう方法はない。
演じることの加害性。
映画や演技は「嘘」「虚構」だと思い込んでしまうのは危険だと思う。映画の中に生きる人は、この世に生きる誰かの写し身だ。映画で描かれる物語は、SFだろうとファンタジーであろうと、この世に生きる誰かの人生そのものだ。それを嘘だと言ってしまえば、誰かの命や人生を嘘とみなすことになる。
「演技はある種の嘘のようにも思われがちだが、自分にとってはむしろ真実に属するもの」――ビノシュの語る実感は、私の実感そのものだ。
私たちは真実を生き、真実を拡散する役目を担っている。だからこそ、むしろ「嘘」をついてはいけないと思っている。この嘘について一部言語化するなら、「この世に存在しないもの」、「誰の人生にも交差しないもの」である。その点において考えれば、嘘を生み出す人の中に嘘が発生する時点で、全くの嘘というものは存在しないのだが、矛盾を孕むものこそ真理である。なんにせよ、今を生きている人の人生を扱うのだから、演じる際には相当な注意が必要なのだ。
例えば実際に起きた事件や出来事、また実在する人物を演じるとき、その当事者となる人を一つも傷つけずに演じることは可能だろうかと考える。そしてきっと、不可能に近いだろうと絶望する。それでも、加害の可能性の覚悟を持って、誰かの救済となる可能性に懸ける。それが私の仕事であり、私の原罪だ。
しかし演じるとき、誰よりもまず先に加害するのは自分自身である。
私にとって演じることは、他者の不幸を一身に背負うことだ。他者の悲しみや苦しみを、真正面から引き受けることだ。それは人生に立ち向かうことと同義で、逃げも隠れもできない。
私と役の二人分の心が、悲しみが、思い出したくもないような惨いことが、体内に一人分しかないはずのスペースに所狭しとぎゅうぎゅうに同居し、私の心身を圧迫する。
演技の上ではいつも私は加害者であり、被害者であり、救済されし者である。演じることで誰かを傷つけ、自分を痛めつけ、しかし誰よりも先に、自分が救われるのだ。
物語を生み出す人が、「嘘」「虚構」をどのように捉えているかはわからない。嘘から出た実(まこと)というように、出発点は嘘であっても、その過程と結果によって真実に成り得るという見方もある。けれど、是枝さんの生み出す物語や描く人物は、その出発点に真実がある気がする。たった今共に生きている誰かの小さな小さな息づかいから、物語が立ち上がっている気がしてならない。
映画の救済について考える。
映画は誰かを加害すると同時に、いつも誰かを救済している。一秒、一晩、一日と、確実に誰かを生き延ばしている。最も深度の高い救済は、人の人生を変えてしまうことだろう。
その証明が、他でもないこの私自身である。私は映画におよそ二時間ずつ人生を引き伸ばしてもらって、ここまで命を食い繋いできた。そして、どう生きるべきか、どう死ぬべきかの信念を発見し、人生を祝福できるようになるまで回復した。
映画には、世界を変える力がある。映画によって新たな概念を構築した観客は、その概念なしに人と関わることはできない。いつしか関わった相手にも概念が届き、水面下で、蜘蛛の巣状に伝染していき、やがて世界は少し前と違った様相になっている――。そのようなことが、これまでずっと続いてきた。声を上げる勇気、作品を生み出す覚悟を持つ者が、実質的に世界を変える力を持っている。この力は偉大なものだ。だからこそ慎重に、誠実に取り扱わなくてはならない。
是枝さんはいつも、自身の持つ力――そこには権力を含む――が孕む加害性について、考え続け、見つめ直し、疑い続けているのではないかと思う。誰よりも繊細に、作品とそれに携わる人々を、大切に丁寧に掬い上げようとしている気がする。時にはその両手から、こぼれ落ちてしまう人もいるんだろう。どうしようもできないことや人を、おそらくたくさん、たくさん見てこられたんだろう。それでも、現場にいるときの監督は少年のように、誰よりもワクワクしているのが伝わってくる。その純粋さを守るために、外界の邪悪さを上回る邪悪さを身につけながら、人や物事の深部を見極めようとしているような、そんな気がする。
映画『真実』によって思い起こされたのは、私自身のかつての救済だ。クライマックス、母娘の和解のシーン。
私は長い間、母を「母」という生き物として捉えることしかできなかった。母にも自分と同じように、幼少時代があり、学生時代があり、母の母(私の祖母)との“母娘”としての関係が地続きにある、一人の人間なのだと捉えることができなかった。
母には母親としての役目があり、それを完遂してもらわねば困る、と思っていた。その役目とは、「子を愛すること」だった。「私を愛して欲しい」。ずっとそう思っていた。
けれど私は欲しがるばかりで、母の欲しいものを感じ取ったことがあったか? 自分をわかって欲しいと思うばかりで、母をわかろうとしたことは一度でもあったか?
例えば私が二十歳の頃。私を産んで二十年ともなればベテランの母親だという見方もできるが、「二十歳の私」の母親になるのは、私が二十歳の時節だけだ。《「二十歳の私」の母親》は、私と同じ瞬間に誕生日を迎え、母親としての立場は初心者に立ち戻る。
誰しもが日々生まれ直しているのだから、お互い未熟で当然だった。母が私との和解の際、本作のファビエンヌのように「優しい嘘」をついていたとしても構わない。私は満たされている。なぜなら、私が故郷を愛おしく思えるということは、幼少の頃、母が私に必要なものを十分に与えてくれていたということだ。今でも東京という混濁した都会で少しでも故郷の面影を探そうとするのは、私が子供の頃「幸せだった」という証だ。これほどありがたいことはない。これからもずっと互いに未熟なまま、関係は固定化されることなく、いつだって新鮮でいつだって不安定なまま、続いていくのだから。
最後に 樹木希林さんについて
『真実』で描かれた母娘には、きっと樹木さんの存在が寄与しているのではないかと感じ取る。是枝さんにとって、樹木さんがどれほど大切な存在であるかを感じ取る。
作品の本質を共有して、監督の想像、要望を超えて、樹木さんが偉大な力で作品に貢献されてきた軌跡を、ほんの少しだけれど知っている。
私は一度だけ同じ映画に出演したことはあっても、共演シーンは一つとなく、一緒にお芝居をすることは叶わなかった。それでも樹木さんは、私にとってもとても大切な人だ。感謝してもしきれない。
あまりにも未熟な自分を助けてくれた。本を読むこと、人の人生を知ることが大事だと教えてくれた。何事も面白がって、平気に生きることは可能なのだと教えてくれた。
自分の誕生日と星座があまり好きではなかったけれど、樹木さんと三日違いで、同じ星座であるというだけでなんだかちょっと嬉しい。
樹木さんのようにとはいかなくとも、私は私の人生をもって、作品に貢献できる力をもっともっと養っていきたい。その力を、正しく美しく扱えるように。
そしてまたいつか、以前とは比べ物にならないほど至高の自分で、是枝さんの作品に参加したい。夢は消失した瞬間に、蘇生した。
追伸
ファビエンヌの自伝とは違って、この解説(という体(てい)の雑感……)に、一つの嘘もないことを断言する。