ケンドーコバヤシ
令和に語り継ぎたいプロレス名勝負
(9)中編


(前編:グレート・ムタの「黒歴史」 無理やり化身対決にされた越中詩郎は「犠牲者です!」>>)

 ケンドーコバヤシさんが「何でこんなことになるんや!」と嘆いた大コケ試合、1990年9月7日のグレート・ムタvsサムライ・シロー(越中詩郎)。最悪の日本デビュー戦からわずか1週間後、グレート・ムタが覚醒した馳浩とのシングルマッチを振り返る。


顔のペイントがはがれたムタ(中央)が担架を持って大暴れ。馳(右)は顔面から流血

***

――前編では、グレート・ムタの日本デビュー戦となったサムライ・シロー戦の失敗を語っていただきました。ただ、その一週間後の9月14日、広島サンプラザでムタと相対した馳さんがその失敗を生かしたとのことですね。

「まず、サムライ・シロー戦でムタがコケたことを受けて、馳さんがムタ戦の前のインタビューで『俺が盛り上げてやる』みたいなことを言ったんです。確か、『ムタは俺についてこい。全部、俺が動いてやる』といった発言をしていたと思います。

 この馳さんの言葉は、かなりのシュート発言だったと思います。これは俺の想像ですが、当時の馳さんは越中さんのことが好きじゃなかったのかもしれない。つまり、ムタとの試合でコケた越中さんへの"あてつけ"だったんじゃないかと。『ムタは越中とはダメだったけど、俺なら光らせてみせる』という意味が含まれていると感じました。

 ムタvsサムライ・シロー戦は、武藤さんや越中さんを含め、関わった誰もが消したい過去だったと思いますけど、馳さんだけは、『チャンスだ』とほくそ笑んだんじゃないかと思うんです」

――サムライ・シロー戦でグレート・ムタが失敗したからこそ、馳さんの中にあるレスラー魂に火がついたんですね。

「これは蝶野正洋さんからお聞きしたんですが、当時の馳さんは『闘魂三銃士を俺に仕切らせてくれ』みたいなことも言っていたらしいんです。自分は試合に出なくていいから、三銃士のマネージャーをやりたいという思いがあったと。

 蝶野さんも、『馳浩ならさまざまな展開を描く能力に長けているから面白い』と思っていたようです。馳さんは、マネージャー的な才能も評価されていたんです。なので、この時もサムライ・シロー戦の失敗を糧に、ムタが覚醒する方法を考えたんでしょうね」

――なるほど。

「ただ、当時の僕は『馳はベトコン・エクスプレス でやらへんのや』と思いましたよ」

――ベトコン・エクスプレスとは、1985年8月にジャパンプロレスに入団した馳さんが、海外修行先のカナダ・カルガリーで先輩の新倉史祐とタッグを組み、覆面をかぶっていた時のリングネームですね。

「そうですね。新倉さんがベトコン1号、馳さんが2号でした。越中さんの『サムライ・シロー』はただのリングネームでしたけど、馳さんの場合は覆面レスラーですから、ムタと同じように別キャラクターだったんです。ムタvsベトコン2号のほうが、ムタvsサムライ・シローよりよっぽど『化身対決』だったと思います(笑)。しかもジャパンプロレス時代は、権利も何もなかったはずですから、勝手に覆面レスラーとしてやろうと思えばやれたはずですよ」

――ムタvsベトコン2号が実現していれば、プロレスの歴史が変わっていたかもしれませんね。ただ、そうして迎えたムタvs馳はすさまじい試合になりました。

「馳さんの『俺が盛り上げてやる』発言がありましたから、俺は『こんなこと言われて、グレート・ムタ(武藤敬司)のプライドはズタズタやろうな』と思っていましたが......試合は、ホンマに馳が動きまくる試合になって。それで、芸術的な映画のような、すごい試合になっていったんです」

――特に印象的だったシーンはありますか?

「馳さんが、コーナーに押し込んだムタに張り手をしまくるんです。そうしたら、ムタのペイントが消えていって素顔の武藤になったんですよ。つまり、ビジュアル的に『武藤敬司vs馳浩』になったわけです。

 だけどここから、武藤さんがサムライ・シロー戦ではほとんど出さなかった手刀やトラースキックなどのオリエンタル技をバンバン出した。そして、場外の鉄柱攻撃で馳さんの額を叩き割ったんです。

 すさまじい流血戦になりましたが、攻撃の手をムタは緩めなかった。馳さんに素顔にされ、ムタの中に秘められた"悪"が覚醒した瞬間でした。サムライ・シロー戦の失敗を糧にした武藤さんもさすがですが、馳さんの対戦相手を光らせる力も見事でしたね」

――まさに、2人のすごさが出た試合でしたね。

「あとは、馳さんが履いていたイエローのパンツが、血にまみれたら気持ちの悪いブルーみたいな色になるんやってことも覚えてます(笑)。そして、何より忘れられないのはフィニッシュです。

 結果は、クライマックスでムタがリング下から担架を持ち出して振り回し、レフェリーを殴っての反則負けになるので、正確にはフィニッシュとは言えませんが......それでも暴れ続け、担架に馳さんを乗せた状態でムーンサルトプレスを炸裂させた。まさに芸術的でした。

 そのまま馳さんを担架で運ぶことができるわけですから、今で言えば『サステナブル』、『SDGs』ですね。洗い物を減らす、みたいなことです(笑)。あらためて、よくできたシーンだったと思いますよ。あの"担架ムーンサルト"で、『グレート・ムタ』は『武藤敬司』とは完全な別物だというキャラづけができたと思います」

――ベビーフェイスの武藤敬司とは真逆の、極悪ヒールのグレート・ムタという対極の構図が完成しましたね。

「ひとりの人間がまったく別のキャラクターを使い分けたからこそ、武藤さんはもちろん、ムタも日米でカリスマになったんだと思います。そういう意味で、この馳戦は分岐点でした。この試合がなかったら、今年の元日に日本武道館で実現した中邑真輔戦もなかったかもしれない。ムタのことを『マイアイドル』だなんて、真輔も言わなかったと思いますよ(笑)。

 ただ、ムタvs馳はこの広島で終わらないんです。ここで打った布石を、2年後につなげるんですよ」

(後編:馳浩が仕掛けたグレート・ムタ戦での布石に「なんてすごい流れなんや!」 引退したムタの功績も振り返った>>)