東京ディズニーリゾートの玄関として機能するJR京葉線舞浜駅(筆者撮影)

日本屈指の来園者数を誇る東京ディズニーランド(TDL)は、1983年にオープン。今年は40周年の節目にあたる。その後も園地は拡張を続け、2001年には東京ディズニーシー(TDS)が開園。同年には舞浜駅を軸に東京ディズニーリゾート(TDR)を周回するモノレール「ディズニーリゾートライン」も開業した。

舞浜駅周辺の一帯には、そのほかにも「イクスピアリ」などの関連施設群が並ぶ。来園者は駅に降り立った時点から「夢と魔法の王国」に入ったような雰囲気に包まれる。

それほどディズニーと一体化している舞浜駅は、TDLの誕生から遅れること5年後の1988年に開業した。それまでの5年間、多くの来園者は営団地下鉄(現・東京メトロ)東西線の浦安駅からバスを利用するしかなかった。その不便は舞浜駅開業で過去のものになるが、オープンから舞浜駅の開業までに5年のタイムラグが生じたのはなぜなのか。そこには、複雑な歴史が隠れている。

浦安沖にテーマパークを

舞浜駅周辺は埋め立て地として造成されたため、道路・上下水道・電気といったインフラを一から整備しなければならなかった。


開園40年記念ラッピングを施したディズニーリゾートラインの車両(筆者撮影)

例えば、TDR周辺の道路は同園を運営するオリエンタルランド(OLC)が整備した。そのため、通常とは異なったデザインの道路標識が設置されている。こうした点からもディズニー側が主体的に舞浜駅周辺のインフラを整備してきたといえるが、逆に言えばディズニー側の意向によってインフラの計画や規模が決められているとも考えられる。

ディズニーが舞浜進出にすんなりとGOサインを出せば、周辺のインフラ整備も計画を立てやすく工事も進めやすかった。しかし、アメリカのディズニー首脳は国外で初進出となるテーマパークに慎重だった。それが周辺のインフラ整備を遅らせる一因になっていく。

他方、日本誘致の立役者とされる京成電鉄社長の川崎千春は、積極的に誘致に動いていた。川崎は、京成と同じく千葉を地盤にしていた三井不動産の社長・江戸英雄とタッグを組み、さらに朝日土地興業からも協力を取り付け、3社で運営会社のOLCを設立した。これはOLCがテーマパーク経営の全責任を負い、ディズニーが金銭的なリスクを負わないようにするためだった。


舞浜駅周辺の道路などはオリエンタルランドが整備したため、道路標識も一般のものとはデザインが異なる(筆者撮影)

ここまで京成や三井不動産が譲歩したのは、それ以前にも苦い経験を味わっていたからだ。京成は戦前期から谷津遊園など集客施設による沿線開発に着手し、需要の掘り起こしに努めていた。そして、それは戦後も続けられていく。その目玉がディズニーランド誘致だった。

京成は1950年代に多くの会社と合弁で千葉県柏市・我孫子市にまたがる手賀沼一帯にディズニーランドの誘致計画を立てる。これは手賀沼ディズニーランド計画と呼ばれ、千葉のみならず東京の政財界からの協力も取り付けることに成功したが、それでも誘致は叶わなかった(2019年1月10日付記事「ディズニーランド逃した我孫子の残念な歴史」)。再び浦安沖に浮上した計画は京成にとって再チャレンジでもあり、それだけに、絶対に失敗できないものだった。

水質汚染で漁業が不可能に

1950年代の千葉県は、主要産業を農漁業から工業への転換を進めていた。その端緒として、東京湾の埋め立て事業を東岸から開始。1951年、完成した埋め立て地で川崎製鉄(現・JFEスチール)の千葉製鉄所が操業開始した。これを機に、千葉県の東京湾沿いには製造業の大工場が並んでいく。そして、埋め立て事業は少しずつ東京に近づいていった。

こうして浦安沖でも埋め立て地の計画が浮上すると、旧来から主要産業であった漁業が危機に瀕する。沖合漁業なら埋め立てられても事業を継続できるが、浦安では海苔や貝の養殖といった採貝採藻漁業が盛んだったため、埋め立て地は容認できるものではなかった。漁師たちは漁業の継続を求めて猛烈な反対運動を展開していた。

反対運動は政府を動かすほどに社会問題化したが、思わぬ不運から漁師たちは漁業権を放棄せざるをえなくなる。1958年、東京都江戸川区で操業していた本州製紙(現・王子製紙)の江戸川工場から排出された廃液が東京湾の水質を汚染。黒い水事件として社会問題化した。黒い水は漁業にも影響を与え、浦安の漁業関係者は工場の操業を停止するように求めた。

工場は操業停止したものの、その後も東京湾の水質が改善することはなかった。こうして浦安の漁業関係者は漁業権を放棄せざるをえなくなり、埋め立て地の容認へと転じた。行政は廃業する漁師たちを救済する目的で、埋め立て地に鉄鋼団地を誘致。漁師たちの再就職地として機能した。


浦安沖を埋め立てることで漁師の生計が成り立たなくなるため、浦安市は鉄鋼団地を誘致。再就職地として斡旋した(筆者撮影)

漁師たちに再就職先をあてがうなどの配慮をした浦安町(現・浦安市)だが、実はそれ以前からジリ貧になっている漁業に見切りをつけ、新しい産業による町の活性化を模索していた。その一環として、議員と有識者による浦安町総合開発審議会が発足している。

同審議会は、浦安沖の埋め立て地に学園都市とレジャーランドを建設することを決定。学園都市は、日本大学系列の工業高校・工業短期大学・大学、自動車学校が計画として盛り込まれた。これらの学校は実現しなかったが、最終的に東海大学付属浦安高等学校が開校している。

もう一方のレジャーランド計画は後にTDLとして結実したが、京成とともに誘致に取り組んでいた三井不動産も、当時はテーマパークという新しいレジャー施設を十分に理解していなかった。それはOLCが作成し、浦安町に提出した計画図からも読み取れる。『広報うらやす』1973年8月1日号に掲載された計画図には、園内にゴルフコースやスイミングガーデンといった施設が並んでいる。これはスポーツランドといった趣が強い。

最寄り路線は京成でなく京葉線に

同年、京葉工業地域の物流機能を担う貨物専用線が開業。同線は現在の京葉線にあたるが、本来なら、OLCの親会社にあたる京成がTDLへのアクセス路線を整備するのが筋だろう。京成はもともと、現在の京葉線の原型といえる東京都心―千葉間の路線を建設する青写真を描いていた。

その後、京成は一から新線を建設するのではなく、営団地下鉄東西線の東陽町駅から路線を分岐させて東京湾に沿うルートを計画。東陽町駅は1967年に開業したが、これに乗り入れるなら京成は都心部までの線路を建設する必要がなくなり、工費は安く済む。また、東西線は大手町駅などの東京都心部と直結しているだけではなく、高度経済成長期に人口を著しく増加させた東京西郊のベッドタウンともつながっており、その利用客を取り込むこともできる。こうした目論みを立てた京成だが、新線計画は日の目を見なかった。

一方、もともと貨物専用線として計画されていた京葉線は1986年、西船橋駅―千葉港(現・千葉みなと)駅間で旅客運転を開始。1988年には新木場駅まで路線を延伸し、同時に舞浜駅が開業した。


京葉線舞浜駅は東京ディズニーランドの開園より5年後の1988年に開業した(筆者撮影)

『広報うらやす』は、開業数年前から京葉線を頻繁に取り上げているが、紙面では新浦安駅の計画ばかりが喧伝され、TDLの玄関となる舞浜駅への言及は少ない。その理由は、新浦安駅周辺は市が主体的にまちづくりを進められる一方で、舞浜駅周辺はOLCが所有する土地が多くを占め、行政の関与できる部分が少なかったからだ。

それでも、浦安市は舞浜駅および周辺整備にノータッチだったわけではない。市は駅舎外装・交通広場・歩行者デッキ・取り付け道路・交通広場といった整備計画をまとめている。しかし、これらの大部分はJR東日本やOLCが所有していることもあって、浦安市は「要望している」との言及にとどめ、積極的とは言いがたい姿勢だった。

駅名においても、市はディズニーに最大限の配慮を見せている。1987年11月、浦安市は駅名を住民から募った。整備計画案の段階では西浦安駅という仮称だったが、公募の結果は1位が舞浜駅で282票、2位がディズニーランド駅で276票、3位が東京ディズニーランド駅で190票となった。1位こそ舞浜駅だが、2位と3位は、“東京”がつくかつかないかの違いだけで、ほぼ同名票といえる。そして4位以下にもディズニー関連が占めるなど、住民はディズニー関連の駅名を望んでいた。

それでも、市は「商標権の問題があって難しい」ことを理由に浦安舞浜駅をJR東日本に要望する。JR東日本は、隣駅が新浦安駅で東西線にも浦安駅があり、浦安を冠する駅名が乱立することはまぎらわしくなり、利用者も混乱すると難色を示した。そうした理由から、地名そのままの舞浜駅で決定した。

「舞浜」の名はどこから?

このように舞浜駅の歴史を紐解くには、どうしてもディズニーの内情に触れざるを得ないが、ディズニーに関する史料は内部事情を明かした記述が少なく、なぜ埋め立て地に舞浜という地名がつけられたのか?といった疑問についても、これまで謎の部分が多かった。

舞浜という名の由来についてはこれまで、「アメリカのディズニーが所在するマイアミのマイと西海岸を想起させるビーチを合成して舞浜にした」という説明がなされていた。この説は、浦安市が公式に編纂した市史やOLCの刊行物にも記述が見られる。

一方、史料調査が進んだ近年、浦安最後の町長で最初の市長でもある熊川好生が議会で舞浜の由来を「浦安の舞」から命名したと説明する議事録が発見された。熊川はディズニーを誘致した浦安発展の立役者だけに、議事録の発見はこれまでの説を大きく覆す要因になっている。

そもそも熊川が説明した浦安の舞とは何なのか。これは1940年の皇紀2600年奉祝臨時祭で考案された神楽舞のことだという。浦安は日本の雅称であり、1909年に誕生した浦安町もそれにあやかって命名されている。そうした経緯もあり、ここ数年で浦安の舞説が有力になりつつある。

1988年に舞浜駅が開業し、TDLの来園者はさらに増加した。この頃からOLCは後にTDSとなる第2パーク構想を始動。同時に舞浜駅前をディズニーシティとして開発する意向も表明した。

その一環として、ディズニーリゾートラインの計画が動き始める。さらに千葉県や浦安市がOLCの株主として資本参加し、名実ともに舞浜駅はディズニー都市と化していくように思われた。

ところが、ここで問題が起きる。浦安は急速な都市化によって人口が増加。そのため、都市インフラを急ピッチで整備する必要に迫られていた。

ごみ焼却場や墓園といったインフラは生活に欠かすことができない施設で、その必要性は誰もが認めるところだが、自分たちの居住エリアに開設されると煙たがられる。そのため、早急にこれらを整備しなければならない浦安市は、居住者がいない浦安沖の埋め立て地に新たな墓園を計画した。その計画地はTDLに隣接していた。

OLCは事前に墓園計画を察知し、撤回するように動いた。夢を売るテーマパークの隣に墓園は相応しくない。OLCとしては当然の行動といえ、素早い対応で墓園は運動公園に計画変更されている。


過去に墓園の計画が持ち上がった一画は、現在は浦安市運動公園となっている(筆者撮影)

しかし、これで一件落着にはならなかった。OLCが市に何の断りもなく動いたことに熊川が激怒。それまで良好だった浦安市とOLCの関係はギクシャクしてしまう。両者の関係は、1998年に熊川が市長を退任するまでギクシャクしたままだった。

ディズニーとともに発展する舞浜駅

こうした紆余曲折を経ながらも、2001年にTDSがオープン。TDLのオープン前は先行き不透明と見られていたディズニーのテーマパークだったが、オープン後は年を追うごとに舞浜駅の利用者が増えていた。

それはJR東日本にとっても喜ばしい話だが、一方で混雑が激化するという副作用を生んだ。その対策として、JR東日本は動線を分散する目的で舞浜駅に北口を開設する。しかし、乗降客の大半はTDRを目的にしている。北口の新設は混雑緩和に寄与しなかった。


市民利用が多い北口は、ディズニー来園者でにぎわう南口とは対照的な風景が広がる(筆者撮影)

その後もTDRの来園者は増え続けた。特に閉園間際の時間帯はホームの混雑が激しく、対策が求められた。JR東日本は混雑対策として、ホームの延長工事を実施。2022年にホームが長くなり、上りと下りで乗車位置をズラすことが可能になった。これにより混雑を緩和できたが、抜本的な対策にはなっていない。JR東日本は、今後も引き続き混雑対策を求められるだろう。

開業時から舞浜駅はTDRとともに発展を遂げてきた。TDRの人気にかげりは見られない。開業から35年間で舞浜駅は大きく変貌したが、今後も著しい変化が予想される。


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(小川 裕夫 : フリーランスライター)