農作業をスポーツに変えたアシックスの挑戦

写真拡大 (全6枚)

アシックスといえば知らない人がいないほどの、大手スポーツ用品メーカーだ。そのアシックスが農業に注目した。“農業×スポーツの力で、日本における社会課題を解決できる”可能性を考え、未来につなげる“アグリスポーツプロジェクト”を立ち上げるという。いったいどういうことなのだろうか。同プロジェクトを推進する、インキュベーション部 部長・勝真理氏にお話を伺った。

社会課題の解決はビジネスの大事な要素

©Shutterstock

アシックス本社のある神戸市によるサポートで、市内の企業が地域全体の活性化を目的とするオープンイノベーションプログラム“Flag”が、2022年に始動した。参画企業は10社。それぞれが新たな事業開発や課題解決に向けたテーマを旗(Flag)として掲げ、共にチャレンジしたい共創パートナーを募りプロジェクトを進めていくという試み。その1社がアシックスなのだが、テーマとして掲げたのが“心と身体の健康に繋がる、農業でのアグリスポーツワーケーションビジネスの創出”だ。これは、最近地方創生の起爆剤とも言われ、企業で導入されはじめている「スポーツワーケーション」に農業(アグリカルチャー)を取り込んだもの。スポーツに関係の深い“健康”はわかるが、そこになぜ“農業”が結びついたのだろうか。

「アシックスの創業哲学は“健全な身体に健全な精神があれかし”。つまり、誰もが一生涯運動・スポーツに関わり心と身体が健康で居続けられる世界を実現することなのです。この哲学に基づいて、アシックスでは、新規事業を立ち上げる際、スポーツの知見を掛け合わせて社会課題を解決するといった要素を重要視しています」

そこで、勝氏の脳裏に浮かんだのは、農業の人手不足。生活のための動作や労働でも、キツイものは重労働と言われて嫌われる。一方で、健康増進のためなら、スポーツクラブやジムなどで身体を動かすことを厭わない。発想を変えれば農業の人手不足という社会課題を解決できるのではないかと、勝氏は考えたのだ。

「ジムやスポーツクラブでは、お金を払い空調の効いた部屋で電気によってマシーンを動かして運動をしています。それを否定するわけではありませんが、たとえば農作業などの重労働もトレーニングになると思えば、しんどい作業ではなくなります。外に出ていって誰かのために身体を動かし、植物や農作物を育てることができれば、身体にとってはもちろん心にも良い影響があると考えていました。それが農業の人手不足の解消にもつながればwin-winで皆が幸せになれる。さまざまな問題を解決できるスキームになるのではと思ったんです」

農作業も一般スポーツと同様の効果が

アシックスがFlagに参画するに当たって“農業”がテーマに含まれたのは、そんな勝氏の問題意識も一端を担っている。ただ、スポーツと農業をかけあわせた“アグリスポーツワーケーションビジネス”が、本当にビジネスとして成り立つのかについては確証が持てなかった。なので、Flagで一緒にイノベーションを進めるパートナーの選定に関しては、本当にそれが実現できるのか、それによって効果が得られるのかを検証できることを条件にしたのだそう。

「今回の実証では、長野県の飯綱町に本社のある株式会社みみずやさんと組んで2月に3泊4日でリンゴの木の剪定、枝拾い、薪作りなどの農作業による、心身に与える影響と地域社会の活性化への効果の検証を行いました。みみずやさんは“みみずのいる場を増やす”をテーマに、廃校や遊休農地を活用しコミュニティ運営などを手がける会社なのですが、作業をする施設を持っていて地域の自治体や農家さんとの繋がりも強かったので共創パートナーにはぴったりだったんです」

作業を通じて測定したのは以下の3点だ。

・運動強度
・心身への影響(ストレス、想像力、集中力、注意力、記憶力、睡眠)
・地域の声

さまざまな作業毎に、身体のどの部分にどのぐらいの負荷が掛かるかを測定するのは、まさにアシックスが得意とするところ。以下の図のように身体のさまざまな部分を使っていることが分かった。

「身体の影響はともかく、心の面、集中力や創造性は運動後に上がるというのは先行研究で証明済みではあったんですが、農作業でも同じ効果があることがわかりました。それから、地域の農家さんもとても喜んでくれたことが嬉しかったですね。今までは無理して頑張ってお金を払ってアルバイトなどを集めて作業をしてもらっていたのに、“希望して人が集まり応援してくれるのが非常にありがたい”と言われました。また受け入れる自治体も地域の活性化になるので、今後自治体としても取り組みをやりたいというような意見をいただいたので、確かな手応えは得られたと思っています」

カーボンニュートラルも、“アグリスポーツワーケーション”の付加価値に!?

Flagの成果発表会で登壇してプレゼンテーションを行う勝氏

このような結果を踏まえて、たとえば本社のある神戸の地元の農家や、県外の北海道や青森、福島など多くの地域からうちもやりたいという声が多く上がっているのだそう。

「今回長野のみみずやさんとはリンゴの作業を行いましたが、地域によって作業の工程や環境が違ってくるので、身体に与える負荷、効果などについて調べる必要はあります。それぞれの地域で農作業をトレーニングとして体系化することによって横展開が可能になり事業を拡大できるのではないかと思っています」

各作物による作業工程の違い、それが身体に与える影響の調査など、事業拡大にはいくつものハードルがありそうだが、勝氏の言葉からはチャレンジしたいという熱が感じられた。実は勝氏は現在の部署に異動する前、入社以来31年間は研究所に所属し、人の動作を分析してシューズやウェアなどのプロダクトを開発する仕事に携わっていたのだそう。それを聞いて意欲のわけが分かったような気がした。

「研究所には、人の歩き方や走り方といった動きに関するデータ、足や体形のデータなどが豊富に集まっています。それはプロダクトの開発に使われるんですが、ある時これってサービスにも使えるんじゃないか? と思ったんです。そこで研究所から提案して今、形になっている事例のひとつが、運動機能を向上させる事に特化した専門のデイサービス施設“Tryus(トライアス)”の運営です。高齢者の体力はこんな形で落ちていくといったデータを元に、それを改善するためにこんな運動をしましょう。認知機能を上げるためにこのように身体を動かしましょうといったことを施設では実践しています」

アシックスがデイサービス施設を運営しているとは、筆者は初耳だったため大変驚かされたが、高齢者の健康問題も、今回アシックスが取り組む農業の人手不足問題も、共通にあるのは社会課題という側面だ。“アグリスポーツワーケーションビジネス”の可能性に一定の手応えを得た勝氏の視点は、ワーケーションを活用する企業へとさらに未来を見据える。

「“アグリスポーツワーケーション”がビジネスになるには、これを導入してくれる企業が必要です。“健康経営”という言葉がありますが、従業員の健康が企業の実績に繋がるという意識を持っている企業さんに、“アグリスポーツワーケーション”にはこういった効果がありますということをきちんと説明できなければ、導入を検討してもらえないと思います。また、優秀な人材の確保、ロイヤリティ向上、業績向上といった健康経営視点からの価値だけでは、導入ファクターとしては弱いですよね。たとえば、今日本には遊休農地が非常に多いと言われていますが、そのように遊ばせている土地を食物栽培に活用し、カーボンニュートラル実現に向けた取り組みとして認知されると導入企業が広がっていくと思います。このような企業のSDGsの取り組みの側面も“アグリスポーツワーケーション”の付加価値として国に支援してもらえるとビジネスの後押しになると考えます。農家・地域や個人・企業など多くの関係者のためになる取り組みだと思うので、ビジネスとして継続できるようにしたいですね」

スポーツ用品メーカーのアシックスが農業? と最初は意外に思ったが、お話を伺ううちに決して奇抜な発想ではないと納得できた。Flagへの参画に関しては、自社ではなくなぜ他社と取り組む必要があるのかという疑問の声もあったという。しかし、スポーツで社会課題を解決したいという勝氏の研究者ならではの熱い想いが、“アグリスポーツワーケーション”の実証実験を実現した。皆が農作業で健康な身体を作るのが普通になる日が、そう遠くない将来に来ることを期待したい。

text by Reiko Sadaie(Parasapo Lab)
photo by Shutterstock
資料提供:アシックス