『青春とは、』(姫野 カオルコ)

 羨ましい。

 この高校に通っている主人公たちが、である。

『青春とは、』の舞台は一九七〇年代半ば。滋賀県の公立進学校に通う乾明子の目を通して、高校生活が描かれる。まさしく青春小説である。

 しかし舞台こそ一九七〇年代だが、幅広い層の読者が楽しめるように書かれている。明子は現在(二〇二〇年)、都下の総合保健センターを定年退職して、スポーツジムに勤めている。つまりこの作品はたんに一九七〇年代の青春を描くのではなく、四十五年後の明子が、自分の経験を文章で再現し、分析と解説を加える小説なのである。文章で再現、というのは持って回った言い方で、明子の言葉を借りれば「記憶を見ている」。視覚的にくっきりと、時には匂いや手触りまで再現された明子の高校生活に、私たち読者はするっと入り込んでいくことになる。

 滋賀県立虎水高校は旧制中学だった伝統ある進学校。県下で一番の高校が遠くて通えない生徒も通う「県下一の交通不便校」である。伝統ある進学校によくあることだが、校則はゆるく、制服を着崩しても、パーマをかけていても文句は言われない。バイク通学も黙認されている。よくあること、というのは、私自身が地方の進学校に通っていた経験があるからだ。明子よりちょうど十歳下だが、田舎の進学校ののんびりした空気とゆるい雰囲気はどことなく似ている。私が通っていたG県立M高校では、学生運動の頃に先輩たちが校内をサンダル履きで歩くことを「勝ち取り」、夏は柄シャツを着ても許されていた。診断書一枚で、とっくに治っていた腰痛を口実にバイク通学を続けていた生徒もいた。そのことを誰も問題だと思わなかった。

『青春とは、』を読んでいて「お!」と思わず声が出たのは、さらりと「六時間目がカットになり」と書いてあったことだ。「カット」というのはM高のみで通じる言葉だとばかり思っていたから。「カット」とは教師が休んで自習になった授業をその日最後のコマ(つまり六時間目)と入れ替え、早上がりすること。学級委員のもっとも重要な仕事は、「カット」するために、六時間目の教師と授業の入れ替えを交渉することだった。そんな融通が利くところにこの学校の特別感を感じていたのだが、遠く離れた滋賀でも同じことが行われていたとは。しかし考えてみると「カット」について卒業後に誰かと話したことは一度もない。『青春とは、』には、こうした「自分の高校だけだと思っていた」ことが見つかるほど、ディテールが書き込まれている。

 虎水高校と私が通っていたM高校はかように似た雰囲気があるのだが、決定的な違いがある。M高は男子校だった。だから冒頭で述べたように「羨ましい」のである。

『青春とは、』はおおむね一章ずつ完結するエピソードが描かれている。連合赤軍事件の重信房子を美人だと評する一年先輩の男子への違和感。赤い口紅と濃いファンデーションが女子生徒たちからの反感を買っている保健室の先生と、男子たち。人気の男子生徒との関係を誤解された明子が、彼のファンたちにからまれるなど、あの時代ならではの話もあれば、時代を超えた思春期あるあるな話もある。高校三年間を男子校に通っていた身に「なるほど!」と響いたのは、たとえばこんなくだりだ。

「真性共学の異性生徒間には、『恋愛感情は介在しないが、異性であることで、同性同士より遠慮や気遣いをしなくてすむ、動物や昆虫の♂と♀が敵対しないようなレベルに近い平和な間柄』が、頻繁に生じる。これは共学において『友だち』と呼ばれるが、『恋人未満の関係』とはまったくちがう。質がちがう」。こういうところが羨ましい。中学生では幼すぎるし、大学生ではもう少し距離がある。たった三年間ではあるが、十代後半を男子だけですごすとこうした感性は育たない。

『青春とは、』の中に、男子校に行った幼なじみが明子に愚痴る場面がある。

「教室が黒いんやで。みんな黒い制服でカタマリになって、黒い黒いんやで。あー、うっとうしいわ」

 ほんとそう。入学した時の私の印象そのままである。なんてとこに来たんだと目の前が暗くなった覚えがある。

 しかし男子校の居心地が悪かったわけではない。『青春とは、』によれば、共学では勉強ができても、運動が苦手な男子は「体育のできひん男子」とされるとのこと(とされている相沢くんは『青春とは、』で一等好きな登場人物だ。台風のエピソードには爆笑した)。たしかに男子校でそれはない。運動音痴の生徒が多かったような気がするし(自分もそうだ)、そもそも真剣に体育をやらないのだ。

 私が通っていたような男子校、それも地方の進学校は絶対的に平和な場所だったと思う。生徒同士がもめる要素が基本的にないからだ。恋のさや当てもなければ、片思いのつらさもない。性欲をもてあますことはあっても、個人で処理する分には誰にも迷惑をかけないし、周りは童貞ばかりだったので「経験」を焦る必要もない。同性同士の恋はあったかもしれないが気づかなかった。一部にアイドル的な人気の「かわいい」男子はいたが、せいぜい遠巻きに見て、陰で「かわいいね~」と言い合うのが関の山。勉強はどうかといえば、お互いに「していない」風を装ううち、実際にしなくなる(浪人すればなんとかなると誰もが思っていた)。そのくせ大学受験を口実に部活に打ち込む生徒は少ない。いじめもない。そもそも他人に興味がない。平和ではあるが退屈な毎日だった。茫漠とした砂漠のようなものである。

 しかし『青春とは、』の虎水高校には緑の山河(そして湖も)がある。男子と女子の性に対する意識のギャップ、誤解と勘違いといった素朴なエピソードも面白いし、明子が画策するミッシェル・ポルナレフのコンサートへの道はもはや大冒険である。なんと物語があふれていることか。むろんそれは小説家、姫野カオルコがつくりあげた世界なのだが、読んでいる間はつゆほども疑わず、本当にあったことのように思って読んでいた。

 そして、次第に語り手の乾明子なる人物への興味が湧いてくる。年齢、地域、家族構成など、作者である姫野カオルコと重なる部分が多い。ゆえに、作者の実体験が反映されていると想像できるが(刊行後のインタビューなどで作者本人もそう語っている)、明子はシェアハウスに住むスポーツインストラクターである。その点でははっきりと別人なのだが、高校時代を分析し、「青春とは、」と論じていく思考の流れは、これまでの姫野カオルコ作品と共通するものがある。すると、作者は、もしかしたらあったかもしれない自身の進路のうち、その一つを明子に歩ませ、平行世界に生きるもう一つの存在として明子をつくりだしたのかもしれない。明子という名前なのに「暗子」のほうが合っていると言われる「もう一人の自分」を。

 そして過去を「思い出す」のではなく「見る」と表現する明子の記憶との関わり方はいかにも姫野カオルコ的である。幼少期の記憶をテーマにした短編集『ちがうもん』(文春文庫)のあとがきに「私は二、三歳のときに住んでいた家の便所の戸のペンキの色や塗りムラや把手(とつて)のかたちをはっきりとおぼえて」いて、その記憶の明瞭さを「おそろしい」とまで表現している。心に焼き付けられた記憶だと。なるほど『ちがうもん』に収録されている小説は、子供ながらの視野の狭さ、知識の乏しさから来る勘違いも含めて、きわめて鮮明に描かれている。大人から見た子供ではなく、子供から見た大人が「たしかにこうだった」とこちらの記憶まで呼び起こされるほどに。

『青春とは、』は『ちがうもん』よりも主人公の年齢が上がっているため、当時の明子自身も冷静に環境に対応している。しかし、視野が広がっているからこそ、自分がいまいる場所が自分を幸福にしているのかという疑問が生じている。

 そこで、この小説のもう一つの重要な場所「家」が浮かび上がる。明子いわく「暗家(クラケ)」。「わが家は厳しくない。たんに暗い」。明子は両親が年がいってから生まれた子供で一人っ子。夫婦仲は悪い。父を頂点とした家のルールが厳然として存在し、「小隊化した空間」がつくられている。それは周囲の同世代の子供が育った、戦後民主主義の「子供に甘い」家庭とは大きく異なっていた。ゆえに彼女にとってほかの家庭、民主主義的家庭で育った同級生とは相当な齟齬がある。明子がこの「家」とは別の場所、呼吸のしやすい場所として虎水高校という場を得られたのは幸福であった。

 姫野カオルコは鋭敏な作家である。『青春とは、』の文章のリズムはゆっくりとなめらかで表現はやわらかく、するすると読めるが、その底流にはささいなことをも見逃さない視線がある。恐るべき傑作『彼女は頭が悪いから』でも、淡々とした語り口の中に狙った獲物を逃さないスナイパーのような眼光鋭い観察眼があり、読者の肺腑をえぐった。『青春とは、』は吹き出してしまうようなユーモラスな描写をたびたび交えながら、やはり当時の(そしていまも?)男尊女卑文化に対する異物感を、さりげなく、しかし、青い炎のごとき静かな炎で燃やしている。

『青春とは、』は、私のように青春から遠く離れた人にとって、青春とはなんだったのか、どんな価値観が支配的だったかを考えるきっかけになる。いま青春の渦中にいる人は、自分のことからいったん離れて、親の世代、ひょっとすると祖父母の世代の青春を客観的に見ることで、ほっと息をつけると思う。現実の青春に向き合うのは楽しいことばかりではないから。一九七〇年代にはインターネットもスマホもない。それはもはや、時代小説、もしくはSF小説のような別世界かもしれないが(そんな不便なメタバースがあったら行ってみたい)、意外とやっていること(考えていること)は似ているかもしれない(し、似ていないかもしれない)。

 なお、『青春とは、』を読んだ読者は、ぜひ、姫野カオルコの『終業式』も読んでみてほしい。ドストエフスキーの『貧しき人々』、宮本輝の『錦繍』も青ざめる書簡体小説の傑作である。高校時代の女子生徒同士の手紙のやりとりから始まり、彼女たちが中年に至るまでに起こるあれやこれやの出来事を、関係者の手紙だけで描ききっている。高校時代のエピソードには『青春とは、』と通ずるものがあるので読み比べるのも一興だ。また、姫野カオルコの代表作『ツ、イ、ラ、ク』とそのスピンオフとしても読める短編集『桃』も、もしもまだ読んでいなかったら必読。それらはどれも青春というものの無残さ、悲しみとおかしみが背景にある人間喜劇だからだ。

『青春とは、』は、それら姫野カオルコが書いてきた作品のうえに、あらためて青春とは、という問いを立てた、真性の青春小説なのである。