ロンドン在住ライター・宮田華子による連載「知ったかぶりできる! コスモ・偉人伝」。名前は聞いたことがあるけれど、「何した人だっけ?」的な偉人・有名人はたくさんいるもの。

知ったかぶりできる程度に「スゴイ人」の偉業をピンポイントで紹介しつつ、ぐりぐりツッコミ&切り込みます。気軽にゆるく読める偉人伝をお届け!

【INDEX】


“普通の少女”だったジャンヌ
「百年戦争」と、デビュー戦での勝利
一度は火あぶりの刑を免れるも…
ジャンヌ・ダルクは実在する?

ジャンヌ・ダルク――。その名を知らない人はいないはず。「ジャンヌ・ダルク=勇敢な女性」というイメージは定着しているものの、一体彼女が何をしたのか問われると、すっと答えられる人は少ないでしょう。

ジャンヌ・ダルクが世に出た時代は「百年戦争」という、長く、かつ利権が絡み合った戦争のただ中でした。背景は大変複雑ですが、出来るだけ分かりやすくジャンヌ・ダルクの短く壮絶な人生を解説します。

“普通の少女”だったジャンヌ

ジャンヌ・ダルクは1412年1月6日“ごろ”、農夫の娘(5人兄妹の4番目/長女)としてドンレミ村(現在のフランス東部、ヴォージュ県ドンレミ=ラ=ピュセル)で誕生しました。父親は徴税人を兼ねていたので、比較的に裕福な家庭だったようです。

生誕年月日を“ごろ”と記したのは、ジャンヌ本人も誕生日を正確に把握していなかったから。後の異端裁判の証言(年齢を推定19歳と証言)から、この生年月日が定着しています。

ジャンヌはまじめで優しく、働き者、そしてとにかく厚い信仰心(キリスト教、当時はカソリックのみ)を持つ少女だったようです。しかし当時としては、割とよくいるタイプの“普通の子”だったとも言われています。そんな“普通の少女・ジャンヌ”の人生を変える出来事が起こったのは、13歳ごろ。彼女は、「神の声を聞いた」のです。

1425年ごろのある日、外を歩いていたジャンヌの前に大天使ミカエル、聖カタリナ、聖マルガリタが現れ、「王太子シャルル(1403〜1461年、後のシャルル7世)を助け、フランスを救いなさい」という啓示を受けました。

当時のフランスは、イングランドとの百年戦争のさなか。黒死病やフランス国内の分裂もあり、戦況はイングランド優勢でした。「瀕死のフランスを救いなさい」という神からの啓示は、13歳の“普通の少女”には重責すぎる気がします。しかし、敬虔な少女はその啓示を信じ、実行に移しました。

といっても、すぐに何かしたわけではなく、行動に移したのは3年後(1428年)。16歳になったジャンヌは親戚のつてを頼り、王太子に謁見しようとするも、この時は実現せず。ところが翌1429年、彼女の「ニシンの戦い(1429年2月12日、オルレアン包囲戦のひとつ)でフランス王軍が敗北する」という予言が的中したため、同年3月9日、王太子との謁見に成功。王太子はジャンヌの登場が戦争の流れを変えると期待しました。

しかし「神の啓示」を理由にやってきた少女を軍隊のリーダーとして即採用してしまうと、うまくいかなかった場合に困るのは王太子本人。「悪魔の手先である異端者の手中に落ちた」と言われかねません。そこで王太子は、ジャンヌを調査したうえで審問にかけ、“純潔(≒処女)かつ敬虔な、良きキリスト教徒”であることを証明し、1429年3月22日、17歳の彼女をオルレアン包囲戦に参戦することを許しました。

こうしてジャンヌは歴史の舞台に登場したのです。

「百年戦争」と、デビュー戦での勝利

ジャンヌを語るとき、「百年戦争(1339〜1453年)」は避けて通れません。100年かかった戦争なので短く解説するのは難しいのですが…、ものすごくざっくり説明すると「イングランド王家とフランス王家の“領地と王位”をめぐる戦争」です。

きっかけは、フランスの王位継承問題でした。フランスではカペー王朝が断絶し、ヴァロワ朝の初代国王として1338年にフィリップ6世(1293〜1350年)が即位。しかし、カペー王朝出身の母を持つイングランド王・エドワード3世(1312〜1377年)が「ちょっと待った!」と横やりを入れ、自身のフランス王位継承権を主張したのが始まりです。加えて、フランドル地方を巡る領土争いもあり、イングランド王家とフランス王家は対立。断続的に100年以上続くことになる戦争が始まりました。

ここで注意したいのは、「イングランド」と「フランス」の“2つの国”が戦った戦争ではないということ。当時はまだ国家という概念が定まっておらず、この戦争は王位争いと封建諸侯による領土争いが合わさったもの。戦場は、フランス国内でした。

前半はイングランド王軍が優勢でした。中期には一時的にフランス側が盛り返したものの、後期になると精神を病んだフランス王・シャルル6世(1368〜1422年)に変わって政治を行う「摂政」の座を巡り、フランス国内が2つの派閥(ブルゴーニュ派とアルマニャック派)に分かれ内紛状態に。この混乱につけ込んだイングランド王・ヘンリー5世(1387〜1422年)は、1412年、フランスに進軍し次々に領土を掌握します。

ところが、1422年にヘンリー5世とシャルル6世という戦争の主役2人が相次いで死去。ブルゴーニュ派はイングランド軍と組んで、生まれたばかりのヘンリー6世(1421〜1471年)をイングランドとフランス両国の王として強引に戴冠式を敢行。一方で、アルマニャック派は王太子シャルルを即位させようしますが、お互いに「そんなの認められない!」とにらみ合います。

ここに登場したのがジャンヌ・ダルクです。ジャンヌの生まれた村はアルマニャック派(王太子派)の土地であり、神からの啓示も「王太子を助けなさい」というものでした。

ジャンヌは、「オルレアン包囲戦」でデビュー。オルレアンは元々アルマニャック派の拠点だったものの、1428年、イングランド&ブルゴーニュ派がこの地を包囲し、一気にフランス南部を掌握しようとしました。

1429年4月29日、甲冑を身に着けた軍装でオルレアン入りしたジャンヌ。彼女の戦略が功を奏し、わずか9日で勝利に導きました。これにより「オルレアンの乙女」と称えられ、ジャンヌの名声は高まりました。そして神からの啓示通り、王太子が「シャルル7世」として正式にフランス王として即位することに貢献しました。

一度は火あぶりの刑を免れるも…

オルレアン包囲戦に勝利した後、フランス王軍は勝利を重ね、領土を奪還していきました。1429年7月29日にはシャルル7世が戴冠式を行い、この式にはジャンヌも列席しています。1429年12月29日、シャルル7世はジャンヌ一家を貴族に格上げし、この時期がジャンヌの短い人生の絶頂期だったと言えるでしょう。

しかし、幸せな時期はあっけなく終わりを迎えます。翌1430年5月23日のコンピエーニュ包囲戦で、ジャンヌはブルゴーニュ派に捕らえられました。イングランド側が身代金を払ってジャンヌの身柄を引き取り、イングランドが占領していたルーアン(フランス北部)で異端裁判(1431年2月21日〜5月24日)にかけられることに。

これは、イングランド支持のフランス人司教ピエール・コーションが率いる「親イングランド派」による裁判であり、ジャンヌにとって不利なものでした。

裁判の争点は、ジャンヌの“神の恩寵(恵み)”の認識について。当時の教会では、神の恩寵は人間に認識できるものではないとされていました。ジャンヌが「神の恩寵を認識できる」と答えていたら即“異端”とされ、「認識できないし、神の啓示(と思ったものは)はただの幻覚だった」とすれば、異端の疑いは晴れることになります。ジャンヌはこのひっかけ問答に近い審問を「神の恩寵がないのであれば、どうかわたくしを恩寵の中においてください」と上手くかわしたため、審問者を唖然とさせたと言われています。

裁判中、巨大な権威であった教会側は、“教会への服従”を突きつけましたが、ジャンヌはあくまで「神に従う」という態度でした。1431年5月24日、コーション司教はジャンヌに教会への不服従や異端などの12の罪による有罪を言い渡します。そして火あぶりによる処刑場に連れていき、ジャンヌに悔悛を促しました。

裁判で疲労困憊しきっていたジャンヌには、もう気力が残っていませんでした。「悔い改めること」「男装をしないこと」などを宣誓し、何とか火刑を免れ「永牢(無期の入牢刑」に減刑されます。

なぜ男装は“罪”とされたのか

聖書はさまざまな読み方があります。時代背景や言葉の裏側にある意味も考慮して読むべき書物ですが、例えば「女は男の着物を身に着けてはならない」(申命記 22:5)と書かれた箇所を「文字通りに」読むと「男装は罪」という解釈も可能になります。

再び生きて留置所に戻ったジャンヌでしたが、イングランド人の看守からの性的虐待を恐れていました。彼女は身を守るため、再び男性の装いに着替えてしまいます。このことが「男装をしない」とした「悔悛の誓いを破った」とされ、異端審問の再審理にかけられます。そして改めて、死刑を宣告されました。

1431年5月30日、ジャンヌはルーアンのヴィエ・マルシェ広場で火あぶりにされました。処刑に際し、立会人に「自分の前に十字架を掲げてください」と頼みました。燃えさかる火の中、最後は「Jésus(=イエス・キリスト)、Jésus」と叫んで死んでいったと言われています。

享年19歳。フランス中を高揚させるほどのヒロインだったにも関わらず、わずか2年で“異端”とされ、火あぶりとなりました。灰はセーヌ河に流されました。

ジャンヌ・ダルクは実在する?

彼女が実在の人物であることは、裁判資料が残っていることからも明らかです。裁判記録には、ジャンヌの家族についての記述もあります。

またオルレアン包囲戦に勝利した際、オルレアン公から衣服を贈られ、そのときの覚書によると、身長は158cm程度だったそうです。中世の女性としては、平均か、むしろ背が高かったほうかもしれません。

残忍な方法で処刑されたジャンヌですが、遺族(母と2人の兄)の存命中に復権しています。1453年に百年戦争が終結した後、パリのノートルダム大聖堂で1455〜1456年に復権裁判が行われました。1456年7月7日に異端審問での有罪は無効とされ、ジャンヌの名誉は回復しました。その後1909年に列福し、1920年に列聖しました。

ジャンヌは子供を残していませんが、三兄ジャンの子孫であり、アンリ4世に仕えた法律家のシャルル・デュ・リス(1559〜1632年)はジャンヌの曽々孫甥にあたるとされています。

しばらくの間、ジャンヌの存在は忘れ去られていたものの、現在の“ヒロイン”としてのジャンヌ像は、ナポレオン1世時代に広まったものだと言われています。

第二次世界大戦時、フランスでは親ドイツ・反ドイツ、どちら側もジャンヌを「正義のために闘う我々の象徴」としました。現在、革新的な女性リーダーを比喩する際、「〇〇界のジャンヌ・ダルク」的な言い方をしますが、これは世界中に浸透しています。

ジャンヌが「神の啓示」と信じたものが本物だったのか、幻覚であったのかは誰にも分かりません。しかし、彼女の信念が周りを動かし、若干17歳で人々を率いる立場となった事実は、今なおたくさんの人の心をとらえ続けています。

おすすめの映画

『ジャンヌ・ダルク』(1999年)

リュック・ベッソン監督、ミラ・ジョヴォヴィッチ主演の映画『ジャンヌ・ダルク』(1999年)。一人の少女としてのジャンヌを丁寧に描きつつ、豪華なセットデザインや迫力ある映像美も話題になりました。

参考文献


ジャンヌ・ダルク』(東京書籍)レジーヌ・ペルヌー&マリ=ヴェロニック・クラン・著/福本直之・訳
『教養としての「フランス史」の読み方』
『ジャンヌ・ダルクまたはロメ』(講談社)佐藤賢一・著
『ジャンヌ・ダルク』(中央公論新社)ジュール・ミシュレ・著/森井真&田代 葆・訳
『ジャンヌ・ダルク: 超異端の聖女』(講談社)竹下節子・著
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『ジャンヌ・ダルク―歴史を生き続ける「聖女」』(岩波書店)高山一彦・著
『奇跡の少女ジャンヌ・ダルク』(創元社)レジーヌ・ペルヌー・著/塚本哲也・監修/遠藤ゆかり・訳
『Joan of Arc by Herself and Her Witnesses』(Scarborough House)レジーヌ・ペルヌー・著
<カトリック中央協議会>ウェブサイト
<University of Notre Dame>ウェブサイト その他多数。