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世に出なかった幻のスーパーカーたち

自動車史を振り返ると、発売されなかったことが惜しまれるようなクルマが数多く存在する。資金不足で実現しなかったものもあれば、スタイリングやエンジニアリングの失敗で絶望的な状況に陥ったものもある。

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今回は、「コンセプトカー」や「将来の市販車」として世間に披露されながらも、さまざまな理由で実現しなかったスーパーカーを集めてみた。全45台を前後編にわけて、年代順に紹介していこう。


さまざまな理由から量産化に至らなかったスーパーカーを45台紹介する。

ジャガーXJ13(1966年)

もし状況が1つでも変わっていたら、ランボルギーニ・ミウラではなく、ジャガーXJ13が世界初のミドエンジン・スーパーカーになっていたかもしれない。1960年代初頭、新型のレーシングカー(おそらく市販もされただろう)として計画が立てられたが、ようやく1台が完成したのは1966年で、その時点ではもう、ル・マン24時間レースで1969年まで毎年優勝していたフォードGT40に勝つことは難しかったかもしれない。

プロジェクトは棚上げされ、5.0L V12エンジンを搭載したXJ13は、1971年の撮影中に大クラッシュするまで、数回の高速走行しかやり遂げることができなかった。その後、再建された車両は、英ゲイドンのブリティッシュ・モーター・ミュージアムに現存し、「あったかもしれない未来」を思い起こさせてくれる。


ジャガーXJ13(1966年)

ヴォグゾールXVR(1966年)

4気筒のヴォグゾール車をスーパーカーと考えるのは奇妙な感じがするが、XVRは特別な存在だ。クラムシェル型のボンネット、リアヒンジのテール、そして上向きに開く2枚のドアを備えた2シーター・クーペだ。

注目すべきはドアの開閉機構で、ガラスはサイドウィンドウとフロントガラスを兼ねた特殊な構造となっている。この複雑なドアがどのように開くかはぜひ各々で確認してほしい。技術者たちは、もう少しオーソドックスなガルウィング式にするよう働きかけたが、デザイン部門から却下されたそうだ。


ヴォグゾールXVR(1966年)

画像の車両は、3台作られたうち唯一実際に走ったもので、通常はヴォグゾールのスラント4エンジンを搭載するが、1966年のジュネーブ・モーターショーでのデビュー時には小型のエンジンが搭載された。残念ながらカナダでの展示中に破損してしまい、解体されることになった。その後、2台のファイバーグラス製ボディの車両が残されたが、片方はメーカーの方針で解体された。もう片方は現存し、ヴォクスホール・ヘリテージ・コレクションに収蔵されている。

アルファ・ロメオ・カラボ(1968年)

アルファ・ロメオによると、1938年生まれの自動車デザイナーであるマルチェロ・ガンディーニ氏は、ベルトーネの依頼でウェッジシェイプのカラボをデザインする際、「コンパスを捨て、定規を使った」とされている。このモデルは、レーシングカーのティーポ33をベースとした、曲線的な33ストラダーレから派生したもので、同じ2.0L V8エンジンをリアアクスルの前に搭載している。

設計の過程で、ガンディーニ氏はシザードアを発明し、後に多くのスーパーカーに採用されることになる。その中にはランボルギーニ・カウンタックも含まれており、さまざまな点でカラボと似ている。


アルファ・ロメオ・カラボ(1968年)

シボレー・エアロベット(1969年)

シボレーは2019年に史上初となるミドエンジン搭載のコルベットを発売したが、「エアロベット」と呼ばれる試作車では1960年代から本格的な試みが行われていた。「コルベットの父」と呼ばれるゾーラ・アーカス=ダントフ氏が設計し、最高出力420psのロータリーエンジンを2基搭載した、軽量かつパワフルなクルマとなった。

しかし、シボレーのゼネラルマネージャー、ジョン・デロリアン氏がコスト面を理由に当プロジェクトを中止する。ところが、1970年にフォードをバックに付けたデ・トマソ・パンテーラがモーターショーに登場するのに対抗して、プロジェクトは再始動。でも結局、市販化には至らなかった。顧客調査の結果、コルベットのドライバーの間では、ミドエンジン車に対する抵抗感が大きいことがわかったのだ。


シボレー・エアロベット(1969年)

メルセデス・ベンツC 111(1969年)

メルセデス・ベンツは、ミドエンジン、ガルウィングドアのスポーツカー「C 111」を9年間で複数台製造した。もはや少量生産と呼んでもいいかもしれないが、いずれも一般販売を目的としたものではない。最初の11台はすべてロータリーエンジン(3ローターで約280ps、4ローターで350ps)を搭載していたが、結果的にメルセデスにロータリーは向かないということになった。

その後、ターボディーゼルエンジンを搭載し、イタリアのナルド・テストコースで2回のマラソンセッションを行い、多くの速度記録を樹立した。また、自然吸気の3.5Lやツインターボの4.8L V8ガソリンを搭載する車両もあった。後者は500ps近いパワーを発揮し、C 111の最高速度は実測で400km/hに達した。


メルセデス・ベンツC 111(1969年)

フェラーリ・モデューロ(1970年)

フェラーリ史上最も未来的な外観を持つモデューロは、25台が生産されたスポーツレーシングカー、512 Sをベースとする。競技生活を終えた1台がピニンファリーナに譲渡され、パオロ・マルティン氏(1943年生まれ)によって改造された。マルティン氏は、4本の車輪をほぼ完全に覆い、従来のドアの代わりにスライド式のガラスキャノピーを備えた、極めて低いウェッジシェイプボディを考案した。

モデューロはあくまでショーカーのつもりだったが、あまりにも人々の印象に強く残り、初登場から40年以上を経てレストアされ、2018年に初めて公道を走った。


フェラーリ・モデューロ(1970年)

フォードGT70(1970年)

GT40がル・マンで圧倒的な成功を収めた後、GT70は急激な変化を遂げた。GT40のV8エンジンを、エスコートRSから流用した1.6L 4気筒エンジンに換装したラリーカーである。シャシーの重心を低くするために、小型のユニットが採用されたのだ。

GT70のドライバーにはラリー界のエース、ロジャー・クラーク氏が起用され、1971年のフランスのロンド・セブニョール・ラリーに出場した。しかし、信頼性に問題があり、フォードも乗り気でなかったため、わずか6台作られただけでプロジェクトは中止となった。


フォードGT70(1970年)

モンテベルディ・ハイ(1970年)

スイスのガレージオーナー、ピーター・モンテヴェルディ氏は、ハイスピードモデルで小さな成功を収めていたが、ハイ(Hai)ではあらゆる意味でさらなる進化を遂げたいと考えていた。ランボルギーニ・ミウラに匹敵するミドエンジンのスーパーカーで、最高出力450psの7.2Lヘミ・エンジンを搭載。最高速度は280km/h、0-97km/h加速は5.5秒と、当時としては驚異的な数字を記録した。

しかし、いざ量産に移行しようとしたとき、スーパーカー製造のコストと求められる技術力の高さという現実を突きつけられることになった。2台のプロトタイプが作られ、ジュネーブ・モーターショーの展示車も現存しているが、「夢」の粋を出ないものであった。


モンテベルディ・ハイ(1970年)

ヴォグゾールSRV(1970年)

XVRとSRVが作られたタイミングはわずか4年の差であったが、SRVはまるで違う時代の産物であった。全高1050mm、横置きミドマウントエンジン(実際にはモックアップ)を搭載する4シーターだ。ドアも4枚あるが、2枚しかないように見せる工夫も施された。

デザインチームを率いたのはウェイン・チェリー氏(1937年生まれ)で、彼は何年も経ってから「もしもう一度やるとしても、何も変えないだろう」と語っている。


ヴォグゾールSRV(1970年)

アストン マーティン・ブルドック(1979年)

ウィリアム・タウンズ氏は、アストン マーティン ブルドッグのスタイリングを、彼のトレードマークであるウェッジルックに仕上げた。アストンの5.3L V8をツインターボ化し、最高出力600ps、最高速度380km/hを発揮するとされたが、この数値はやや誇張気味で、近年のテストでは最高速度は310km/hだった。

インテリアでは、古典的なレザーとハイテクのLEDタッチスクリーンを融合させた。中東の富裕層向けに25台の限定生産が予定されたが、1981年にアストンの会長に就任したビクター・ガントレット氏が、ブルドッグの開発を中止させた。製作された1台はその後、13万ポンドで売却されたが、最近、大規模なレストアによって蘇った。


アストン マーティン・ブルドック(1979年)

プジョー・クアザール(1984年)

もし生産が開始されていたら、クアザールは1980年代を代表するスーパーカーになっていたかもしれない。低く流麗なボディに、今ではほぼ当たり前となったシザードアを備え、世界選手権ラリーでプジョーを頂点に立たせた205ターボと同じパワートレインを採用している。

1基ではなく2基のターボを搭載した1.8L 4気筒エンジンは、後に登場したフェラーリF40よりも100ps以上高い600psのパワーを誇ったと言われている。


プジョー・クアザール(1984年)

アウディRS 002(1986年)

1980年代後半に提案された国際ラリーのグループS規定は、グループBよりパワーは劣るものの、メーカーが製造しなければならない台数が少なくなるため、よりエキゾチックなクルマになるはずだった。そこでアウディが提案したのが、市販車とは似ても似つかないミドエンジンのRS 002だった。

しかし、国際ラリーはオーソドックスなグループAへの移行を決定し、アウディのプロジェクトは立ち消えになってしまった。もし、グループSが実現していれば、アウディは少なくとも10台を製造・一般販売する必要があった。


アウディRS 002(1986年)

プジョー・オキシア(1988年)

プジョー・クアザールの4年後、さらに過激なオキシアが登場した。従来型のドアとプジョーらしい「顔」を持ちながら、ケブラーとカーボンファイバーの複合材で作られたボディが特徴的であった。クアザールと同様、ミドエンジンの四輪駆動であったが、これに四輪操舵が追加され、ルノー、ボルボと共同開発した2.8L V6エンジン(PRV)を搭載する。

もともと大型車向けで、必ずしも高性能とはいえないが、PRVエンジンには大きな可能性があった。オキシアにはツインターボが装備され、約680psを発生、当時の公道走行可能なクルマをはるかに凌駕する出力を誇った。


プジョー・オキシア(1988年)

アウディ・アヴス(1991年)

ベルリン近郊のアヴス・サーキットは、アウトバーンの2本の車道にヘアピン(片方は急勾配のバンク)を設けただけのもので、史上最速のサーキットの1つであった。1930年代のレーシングカーは、平均270km/h以上で集会することができた。

アウディが1991年に発表したスーパーカーにふさわしい名称であろう。アウディは、開発中の2つの機能を盛り込んだ。1つは、3年後のA8で採用されたアルミニウム構造。もう1つは、3気筒×4バンクの6.0L W12エンジンのモックアップである。2001年に登場したA8は、市販車として初めてこのW12を搭載した。


アウディ・アヴス(1991年)

BMWナスカM12(1991年)

別の世界線では、ナスカM12がBMW M1の後継車になっていたかもしれない。両車とも基本的なレイアウトは同じだが、ナスカM12はより丸みを帯びたデザインで、テールはほぼフルフラットだった。パワートレインは、750iと850iに搭載されていたBMW初のV12エンジン、最高出力300psの5.0Lユニットを採用した。

ナスカM12は、ほぼ生産可能な状態にあり、ナスカC2、C2スパイダーと続いたが、結局コンセプトの段階を超えることはなかった。


BMWナスカM12(1991年)

メルセデス・ベンツC 112(1991年)

ライバルであるアウディやBMWと同様に、メルセデス・ベンツも1991年にスーパーカーのコンセプトを公開している。C 112は、サスペンション、ステアリング、エアロダイナミクス、タイヤ空気圧をアクティブに制御するテストベッドであり、アダプティブ・クルーズコントロールや、1950年代の300 SLを意識した電動油圧式ガルウィングドアも搭載されていた。エンジンは、Sクラスに導入されたばかりの6.0L V12である。

伝えられるところによると、メルセデスは価格度外視で700台の注文を受けたというが、方針が変わることはなく、C112はコンセプトカーにとどまった。


メルセデス・ベンツC 112(1991年)

ヤマハOX99-11(1992年)

ヤマハOX99-11は、市販F1マシンとまではいかないが、日本が誇るF1エンジン製造のノウハウを存分に生かしたモデルである。3.5L V12エンジンは現代的なレイアウトで、最高出力400ps/1万rpmと、F1マシンとさほど変わらなかった。

また、ベースとなるカーボンファイバー製チューブやセンタードライビングポジションもレースから応用したものだ。同時期のマクラーレンF1と同じドライビングポジションだが、OX99-11では運転席の後ろに助手席をタンデム配置している。結局、ヤマハと英国のエンジニアリング会社IADとの対立、そしてバブル崩壊が重なり、3台のプロトタイプが作られただけで終わってしまった。


ヤマハOX99-11(1992年)

クライスラー・アトランティック(1995年)

レトロスタイルのアトランティックは、1930年代の高級車全般、特にブガッティ・タイプ57アトランティックへのオマージュである。現代においてスーパーカーとは言えないかもしれないが、1930年代におけるスーパーカーを現代的に解釈したものである。

4.0L直列8気筒エンジンというエキゾチックなパワートレインを積むが、実際にはクライスラー・ネオンのユニットを2基繋げたものである。1995年当時ですら、直列8気筒は半世紀も前に廃れていたため、これだけでもクライスラーが市販化に関心がないことがうかがえる。


クライスラー・アトランティック(1995年)

フォードGT90(1995年)

GT90は、ジャガーXJ220のシャシーをベースに、独自の5.9L V12エンジンを搭載している。このエンジンがどのように作られたかは諸説あるが、フォード・モジュラーV8から派生したもので、4基のターボチャージャーの力を借りて720psを発生する。

モータースポーツで実際に活動したGT40やGT70とは異なり、GT90はあくまでコンセプトモデルである。しかし、当時の市販車とは対照的なシャープなデザインは、1990年代後半のフォードの「ニューエッジ」デザインの先駆けとなっている。


フォードGT90(1995年)

ランボルギーニ・カラ(1995年)

ランボルギーニ・カラほど、長期にわたる苦悩に耐えたクルマは少ないだろう。1995年のジュネーブ・モーターショーで、ディアブロの下のエントリーモデルとして発表されたカラは、イタルデザイン・ジウジアーロによって作られた。このデザインはもともと、ランボルギーニの元の親会社であるクライスラーから依頼されたものだった。

しかし、1998年にフォルクスワーゲン・グループがランボルギーニを買収すると、カラはあっけなくお蔵入りとなり、代わりにガヤルドの開発が始まった。カラはガヤルドと同じV10エンジンを搭載し、最高速度は290km/hとされていた。しかし、フォルクスワーゲンはさらなるパワーと四輪駆動、大胆なスタイリングを求め、ガヤルドで実現させたのだ。


ランボルギーニ・カラ(1995年)

ザガート・ラプター(1996年)

ザガート・ラプターは、ランボルギーニ・ディアブロの後継車となる可能性が十分にあった。ザガートとスイスの元アイススケルトン選手、アラン・ヴィッキ氏は、ランボルギーニ向けにディアブロをベースにしたコンセプトを考案し、四輪駆動と最高出力500psの6.0L V12エンジンを搭載した。

エクステリアには「ダブルバブル」ルーフが採用され、1996年のジュネーブ・モーターショーで賞賛を浴びた。しかし、ランボルギーニはあまり感心せず、「ノー・サンキュー」と断った。そこで、ヴィッキ氏は自身でこのプロジェクトを立ち上げようとしたが挫折し、2000年のオークションで唯一の車両を個人コレクターに売却した。


ザガート・ラプター(1996年)

日産R390(1997年)

R390を国際レースのGT1クラスで使用するためには、日産は少なくとも1台の公道走行可能なバージョンを製造しなければならなかった。日産はそのルール通り1台だけ生産し、手元に置いたため世に出回る機会が失われてしまった。

リアウイングがない以外は、基本的にすべてレーシングカー仕様と同じである。日産は、最高出力350ps以上、最大トルク490Nm以上と曖昧な表現をしているが、これは3.5L V8エンジンが大幅にデチューンされたことを意味するのかもしれないし、そうでないのかもしれない。R390のデザインはTWRのイアン・カラム氏が担当した。


日産R390(1997年)