「仮面ライダー」シリーズの生誕50周年企画として製作された。メインキャストは、左から柄本佑、浜辺美波、池松壮亮(写真:『シン・仮面ライダー』公式Twitterより)

庵野秀明監督『シン・仮面ライダー』(東映)が3月18日から全国公開され話題を呼んでいる。

1971年にはじまった人気シリーズ・仮面ライダーを、これまで『シン・ゴジラ』(2016年)、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2020年)、『シン・ウルトラマン』(2022年)と「シン」のつくヒット作を次々手がけてきた庵野が脚本・監督し、1971年の初代仮面ライダーに大いなるリスペクトを捧げながら令和の現代にアップデートした。

と一口に言うのは簡単だが、一口には言えない、ものすごい労力がかかっている。思いが強くないとできないものだと感じる。これまでの「シン」のつく作品同様、隅から隅まで最後まで目が離せない2時間1分13秒の重み。

これまでの「シン」のつく作品がそうだったように、その土台となった旧作を知っていると、より楽しめるようなツボのつきかたが、凄腕のマッサージ師のよう。旧作ファンを熱くさせることはもちろん、たとえ知らずに見ても上質なエンタメとして楽しめ、その結果、旧作を知りたくなる。旧作に新たな層を呼び込み、旧世代と新世代が円環する、極めて現代的なサステナブルな作品なのである。

トップシークレットの超豪華俳優陣

話題のこの映画、いったいどんな作品なのかーー。「シン」のつく作品群は、毎回、公開まで内容がかなり伏せられている。事前にここを見てという作り手の先導によってではなく、観客が能動的に楽しむ、自立型の鑑賞が可能なのである。

初号試写が行われたのは公開11日前で、宣伝記事を書くためのマスコミ試写もなく(プレミア上映会が1回行われたのみ)、作品の詳細がほぼほぼ伏せられたまま公開された。キャストの公表も、ごくメインの俳優(池松壮亮、浜辺美波、柄本佑、森山未來、西野七瀬など)に限られ、ほかの俳優たちは3月23日19時に、見せ場満載の追告映像とともにようやく役柄が発表された。

キャストも内容も、公開したら自然とネットでネタバレしてしまうものながら、公式発表をあえて遅らせるという徹底ぶりで、満を持して明かされたのは――竹野内豊、斎藤工、大森南朋、長澤まさみ、本郷奏多、松坂桃李、市川実日子、仲村トオル、安田顕、上杉柊平……と豪華なメンツであった。

有名俳優の“顔”を売りにしない

なかにはエンドクレジットを見て、え、出てた? どこに? というような俳優もいるくらいの徹底的な作品至上主義。

「カメオ出演」という用語のように、知った顔の俳優が一瞬出てきて、観客が誰かわかることが前提で、そこに楽しみを感じるような、有名俳優の“顔”を売りにした演出ではなく、俳優たちはあくまでも作品に奉仕している。皆、ひたすら役に徹している印象であることが、『シン・仮面ライダー』の良さのひとつであろう。

例えば、長澤まさみ。パリピみたいな雰囲気(長澤が演じたドラマ『コンフィデンスマンJP』のダー子をもっとはっちゃけさせたような感じ)で登場する。ちょっとだけ顔の出たマスク姿ではあるが、マスクはマスク。そのため長澤まさみと認識できない観客もいるんじゃないかと思う。

そのほか、大森南朋や本郷奏多、松坂桃李もなかなかの作品へのご奉仕っぷりだ。すでに発表され試写会にも登壇している手塚とおるも、しっかり特殊メイクである。

基本、SHOCKERを演じている俳優たちは、ハチオーグ役の西野七瀬以外は、顔がはっきり出ない。声を聞いてわかる人もいれば、エンドクレジットを見るまでわからない人もいる。気づけるか気づけないか、それも映画を見る楽しみと言っていい。例えるなら、特典のカードに誰のカードが入っているかお楽しみな感じや、ライダースナックにどんなカードが入っているか、開けてみないとわからないワクワク感と同じような楽しさである。

そもそも、主人公・本郷猛役の池松壮亮が仮面をかぶって演じているシーンが多い。仮面ライダーなんだから当たり前のようだが、たいていの変身ものは、変身したらスーツアクターが演じている。変身しなくても、アクションパートはアクションが得意な俳優が代わって演じる作品もある。なかには、例えば背中しか映らない場合、代役がやることだってある。映画とは極めて合理的な産業なのである。

ところが、『シン・仮面ライダー』はそうではない。とことん、当人がやっている。

筆者は同映画のパンフレットでキャストのインタビューをしたのだが、アクションは当初、スーツアクターに任せるはずが、いつの間にか俳優本人がやるようになっていた、と笑い話のような話を聞いた。

「顔ぶたないで、私女優なんだから」というセリフが昔の映画にあったが、“俳優は顔が命”という先入観を覆すのが『シン・仮面ライダー』である。それでいて、俳優にかなり重要な部分を委ねてもいるのである。

すべての「シン」実写作品に出演する竹野内豊の意味

本郷と並ぶ、もうひとりの仮面ライダー・一文字隼人役の柄本佑は、仮面ライダーのマスクをかぶって歩いていても、アクションをしていても、柄本佑の独特な浮遊感みたいなものがあって、それはスタントでは再現することは不可能だ。また、ダンスをやっている森山未來だからこその手足の動きも然り。

仮面ライダーに変身したあとも愚直なまでに俳優本人が演じているからこそ、別人のように強くなっても、その身体性、動きのクセは変わらない。役の熱量や本質が変わらないことは、見ていてとても心地よい。

たぶん、特撮ものを見慣れない、ストレートプレイ的なものに慣れている観客のほうが彼らの感情に入り込みやすいのではないだろうか。仮面をかぶったときのくぐもった声も再現されていてリアリティーがある。

個人的には、本郷猛と一文字隼人が、ある場面で会話しているところに注目した。演じる池松と柄本がまるで戦争映画で戦場に赴く若い兵士のような、いやおうなく状況に巻き込まれてしまったような雰囲気で味わい深かったのである。まあそれはミニシアター系の映画や舞台的ともいえるのだが。

一方、仮面をかぶらない竹野内豊にも注目したい。彼は「シン」のつく実写作品に連続で出ている。

それだけなら、庵野組の常連俳優的なことかなと思うが、各作品でどことなく雰囲気の似た役柄であることが面白さである。でもそうだと明示されているわけではない。この、同じなの? 同じじゃないの? どっちなの? 感が逆にいい。漫画で、作品をまたいで同じキャラが出ているみたいな楽しさを、生身の俳優・竹野内豊が作り上げている。

役によって別人のように見せることも演技のひとつだが、「シン」がつく実写作品群で、竹野内は自意識をまるで見せず、どっちなの感を見事に醸している。その佇まいは実にすばらしい。仮面をかぶらずして、「シン」のつく実写作品に観客が期待するベールをまとっているようだ。

最も“顔”を効果的に使った浜辺美波

浜辺美波も仮面をかぶらない。ひたすらその美しい顔がアップになる。ほとんど笑わない、つまり愛想を振りまかずとも、自然と意識が彼女に吸い込まれてしまう、花のような美。多様性の時代、美醜の話もしづらくなった現代だが、昔の映画のヒロインのように、美に価値を置くことも大事だと思う。

浜辺美波が凛として美しいことは貴重で、かつ物語にとって重要であった。基本的にきちっとした出で立ちのなか、ある場面でTシャツに着替えたとき、ゆるっとした襟ぐりからのぞく首もとのほくろを映すセンスもこの映画の良さである(追告にも出てくる)。

『シン・仮面ライダー』は “その人である意味”を突き詰めた、切実で熱量の高い映画なのだ。

(木俣 冬 : コラムニスト)