ロンドン在住ライター・宮田華子による連載「知ったかぶりできる! コスモ・偉人伝」。名前は聞いたことがあるけれど、「何した人だっけ?」的な偉人・有名人はたくさんいるもの。

知ったかぶりできる程度に「スゴイ人」の偉業をピンポイントで紹介しつつ、ぐりぐりツッコミ&切り込みます。気軽にゆるく読める偉人伝をお届け!

放送開始から3カ月目に入り、視聴率も好評と伝えられている大河ドラマ『どうする家康』。「毎週末の楽しみ!」という人は多いでしょう。前回の偉人伝では織田信長の妹「お市」を取り上げましたが、今回は織田信長と徳川家康の娘、2人の姫について取り上げます。

戦国時代に生きた武将・大名は本人の人生も波乱に満ちたものですが、その家族も時代と家に翻弄され、一筋縄ではいかない運命をたどっています。信長の娘・五徳、そして家康の娘・亀姫のもしかり。2人の人生をみていくと、乱世を生き抜くために必要だった「共通点」があるように思えます。

今回は『どうする家康』に登場する2人の姫について「知っておきたいポイント」を紹介します。基礎知識を持ってドラマを視聴すると、さらに楽しめるはずです。

五徳(おごとく/徳姫、1559年〜1636年2月16日)

ドラマでは久保史緒里さんが五徳役を演じます

信長の娘

信長の正室は美濃(現在の岐阜県)の大名・斎藤道三の娘である濃姫ですが、信長には他に8人の側室がおり、少なくとも29人の子供がいたと言われています。五徳の母は側室の一人である生駒吉乃(いこまきつの)と言われ、信長と吉乃は3人の子供をもうけています


長男:信忠(1557年ごろ?〜1582年6月21日)織田家嫡男。
次男:信雄(558年3月ごろ?〜1630年6月10日)後の北畠具豊。
長女(次女節もあり):五徳

義理の父に家康を持ち…

五徳と家康の嫡男・松平信康(1559年4月13日〜1579年10月5日)との結婚は、五徳がまだ幼児だったころに決められていました。そして1567年5月27日に結婚しましたが、2人ともまだ子供でした(五徳・当時7歳?、信康・当時8歳?)。

二人の間には1576年に長女・登久姫、1577年には次女・熊姫が誕生しています。

松平信康役を演じるのは細田佳央太さん(写真右)。

しかしなかなか男児が生まれなかったことから、家康の正室であり信康の母である築山殿(瀬名)が介入。信康は側室をもうけることになります。当時家康は浜松城に暮らし、姑・築山殿と信康&五徳夫婦は岡崎城で暮らしていました。つまり、築山殿と家康は別居状態でした。

家康にはたくさんの側室がおり、合計11男5女をもうけたと言われています。築山殿の立場を考えると、自身の子供であり嫡男である息子・信康に男児が生まれることは、家の安定だけでなく自分の身を守ることも意味します。築山殿も必死だったのでしょう。

次第に五徳と築山殿はうまくいかなくなり、ひいては五徳と信康の仲も悪くなったと言われています。

築山殿は家康が見限った今川氏の親戚筋の出身。築山殿は彼女なりの辛さと事情を抱えていました。

信長譲りの強さと激しさで夫を切腹に導いた?

同じ城に住みつつ、姑とも夫ともうまくいかない…。五徳は孤独だったのかもしれません。加えて、『改正三河後風土記』(江戸後期・1836年に完成)には、信康と五徳の不仲を心配した侍女を信康が殺害したと書かれています。築山殿と信康への憎しみが限界に達した五徳は、大胆な手に出ます。父・信長に『十二ヶ条の訴状』(1579年)を送ったのです。そこには「信康が武田氏と内通している」という旨が書かれていたと言われています。

訴状から遡ること3年前の1546年、織田・徳川軍は「長篠の戦い」で武田勝頼(武田信玄の息子、1546年〜1582年4月3日)率いる武田軍と戦いました。織田・徳川軍が勝利したものの、武田氏は織田・徳川両氏が絶対に隙を見せてはいけない“敵”でした。その武田氏と信康が「内通している」と密告したのですから、大ごとです。

この訴状(手紙)を受け取った信長は怒り狂い、当時安土城に滞在していた家康の家臣・酒井忠次を呼びつけます。

苦しい役目を担うことになった酒井忠次。ドラマでは、忠次役を大森南朋さんが好演しています。

そして信長は「信康を切腹させよ」と家康に伝えるよう、忠次に命令。それを聞いた家康は苦悩しますが、結局は信長の決断に従うことを決めます。

「信康切腹」への段取りが進んでいることを知った築山殿は、息子の命乞いのために家康が暮らす浜松城に向かいます。その道すがら、1579年8月29日、築山殿は家康の家臣によって殺害されました。そして信康は同年9月15日に二俣城で切腹しました。

これが一般的に知られる「十二ヶ条の訴状」の顛末です。この説を信じると、五徳は信長ゆずりの強さと激しさを持った女性だったようです。しかし訴状に何が書かれていたのかについては諸説あり、後に修正された可能性もあります。また信康切腹に至ったのは別の理由という説もあるので、残念ながら真相は不明です。

その後は秀吉の配下に

夫が切腹した翌年(1580年2月20日)、五徳は家康に見送られて岡崎城を後にし、実家である安土(現在の滋賀県)に戻りました。2人の娘は家康の元に残されました。その2年後の1582年6月21日に「本能寺の変」が起こり、父・信長、そして長兄・信忠が自害。五徳は次兄・信雄の庇護下となりますが、信雄が小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉(羽柴秀吉)に敗れたため、人質として京都に移されました。

その後は秀吉の意向により何度か転居しているので、五徳は秀吉の配下におかれたことが分かります。再婚はせず、最後は京都に暮らし、1636年1月10日に死去しました。享年76歳。

亀姫(1560年6月27日〜1625年7月1日)

家康にとっての最初の娘

亀姫は家康が今川氏の人質だった時代に、駿府(現在の静岡県)で生まれました。家康と築山殿にとっての第2子であり、兄は五徳の夫である松平信康です。つまり、亀姫にとって、五徳は義姉にあたります。

『どうする家康』では、當真あみさんが亀姫役を演じます。

亀姫婚約にまつわる「悲劇」

亀姫は、当時13歳頃と言われる1573年に、奥平定能(貞能)の嫡男である信昌(1555年〜1615年4月11日、当時18歳?)との婚約が決まりました。当時、奥平氏は武田氏の配下でしたが、織田・徳川軍は奥平氏を何とか味方に引き入れたかったため、その条件として亀姫と信昌との婚約が成立したのです。

実はこの婚約成立時、すでに信昌は既婚者でした。1571年、奥平氏は武田氏の配下となった際、妻・おふう(於フウ、当時13〜14歳?)は信昌の弟・仙千代(当時10歳?)、萩城主・奥平勝次(奥平周防守勝次)の次男・虎之助(当時13歳?)と共に武田氏の人質になっていました。

信昌は「奥平氏の武田氏離反決定」→「亀姫との婚約が成立」の後、人質として甲斐(現在の山梨県)にいるおふうに離縁状を送っています。奥平氏のために人質になっているのにその上に離縁とは一見ひどい話ですが、実はこの離縁状により、信昌はおふうを救いたかったようです。

離縁すればおふうは奥平氏とは無縁。奥平氏が武田氏を離脱しても、おふうにはとがめはいかないかも? との可能性に一縷の望みを託したようです。しかし武田氏側はこの離縁状を認めず、結局、おふうら3人は処刑されました。

武田信玄の跡取り、武田勝頼を演じるのは眞栄田郷敦さん。

長篠の戦いの「ほうび」として結婚

1575年の「長篠の戦い」は奥平氏にとって大変苦しいものでしたが、織田・徳川軍が到着するまでの間なんとか持ちこたえ、勝利に大きく貢献しました。その「ほうび」として、翌1576年7月、亀姫は信昌のもとに嫁ぎました。

亀姫と信昌との間には4男(家昌・家治・忠政・忠明)・1女(後の大久保忠常・正室)が誕生しています。信昌は、生涯にわたって側室を置かなかったそうです。

1575年、信昌は三河(現在の愛知県)に新城城を築城しました。その後1590年に家康が関東に国替えしたため、信昌も上野(現在の群馬県)に3万石を与えられて移ります。

1600年に起った「関ヶ原の戦い」でも奥平氏は徳川勝利に貢献し、1601年、美濃(現在の岐阜県中南部)・加納に10万石を与えられ、信昌は再び国替えをしています。上野の領地は長男・奥平家昌(1577年〜1614年11月11日)が引継ぎ、その後家昌は下野(現在の栃木県)・宇都宮藩の初代藩主となりました。

平安末期に建設され、改修を重ねた元来の宇都宮城は戊辰戦争で焼失。現在の宇都宮城は本丸の一部を復元したものです

姫から尼へ

信昌の家督は三男・忠政が継ぐはずでしたが、1614年11月3日に34歳頃に早世。そのわずか8日後、同年11月11日に宇都宮藩主であった長男・家昌も37歳頃に死去。翌年1615年4月11日に夫・信昌も死去し(享年60歳頃)、亀姫は度重なる家族の死に見舞われます。彼女は剃髪して尼となることを決め、以後「盛徳院」と名乗りました。

夫を見送った後の10年、亀姫は幼くして父を亡くし、藩主となった孫たちの後見人を務めたそうです。そして1625年7月1日に美濃にて亡くなりました。享年66歳。

宇都宮城釣天井事件(1622年)の黒幕?

ここまで読むと、「亀姫は五徳よりはやや穏やかな人生だったのでは…?」と思われるかもしれません。しかし亀姫にもひとつ「黒幕疑惑」があります。それが「宇都宮城釣天井事件」です。

舞台は下野・宇都宮藩。藩主の本多正純(1565年〜1637年4月5日)が宇都宮城に「釣天井(吊り天井)」をしかけて、第2代将軍・徳川秀忠(亀姫の異母弟)を暗殺しようとしたのではないかと言われる事件です。

宇都宮藩は上記のように、初代藩主は亀姫の息子である奥平家昌(1614年没)で、家昌の死去後は孫の忠昌(家昌の長男)が跡を継いでいました。

しかし、1616年に家康が死去すると、当時同じ下野の小山藩主(3.5万石)だった正純が「家康の命」を語り、忠昌を下総(茨城県)古河藩11万石へ移し(事実上の格下げ)、自分は15.5万石に加増したうえで宇都宮藩主に、つまり大昇格したのです。

こうした正純の行動は将軍・秀忠やその側近に疎まれ、亀姫の恨みも買っていたようです。

秀忠は父・家康の七周忌のため日光東照宮に参拝後、宇都宮城に宿泊することになっており、正純は将軍来城に備えるために城の工事を行いました。そしていよいよ秀忠が宇都宮藩へ…の直前、異母姉の亀姫が「宇都宮城の工事には不備がある」と秀忠に秘密裏に伝えます。秀忠は亀姫の忠告通り、宇都宮城に宿泊せず近隣の壬生城に宿泊しました。

この事件の後、秀忠は正純に対し「武器の無断製造」「石垣の無断修繕」、そして「釣天井を仕掛けて、自分を暗殺しようとした」など11にも及ぶ嫌疑をかけました。結果、正純は流罪となりました。

しかし本当に正純が「秀忠暗殺」を企てたわけではなかったようです。秀忠は事件後の1622年に宇都宮城を調査しましたが、実際には釣天井はありませんでした。

こうしてこの事件は、亀姫、または当時本多正純のライバルだった土井利勝(1573年4月19日〜1644年8月12日)による陰謀説が濃厚とされています。実際に亀姫が黒幕だったのかは不明ですが、こうして逸話が残っていることから亀姫が政治に明るく、存在感を放つ人物だったことが分かります。

この時代の「姫」は、婚姻をすることで大名の外交手段のように使われていました。しかし五徳も亀姫も、嫁いだ先で安穏としていたたわけではありませんでした。彼女たちの手段の良し悪しを、現代の尺度で判断することはできません。

しかし、二人の人生をたどると、生き抜く力を持った「強き姫だった」と感じます。

参考文献


『織田信長』(吉川弘文館)池上裕子・著
『江戸城の宮廷政治』(講談社)山本博文・著
『定本 徳川家康』(吉川弘文館)本多隆成・著
『信長と消えた家臣たち―失脚・粛清・謀反』(中央公論新社)谷口克広・著
『家康の正妻 築山殿―悲劇の生涯をたどる―』(平凡社)黒田基樹・著
『宇都宮藩・高徳藩』(現代書館)坂本俊夫・著
コトバンク(朝日日本歴史人物事典、デジタル版 日本人名大辞典+Plus、日本大百科全書(ニッポニカ)
ブリタニカ国際大百科事典
<NHK>『どうする家康』番組紹介
その他資料多数