アーティスト安達勇人さん。リフトアップできるよう改造した軽トラをステージにパフォーマンスを繰り広げる(写真:松原大輔)

声優として確固たる人気を築き、アーティストとしても人気が爆発していたころ、突如として仕事をセーブし、茨城県の笠間市に拠点を移した人物がいる。

安達勇人、34歳。現在、笠間市に個人事務所「ADACHI HOUSE」を構え、東京と行き来しながら活動するアーティストだ。

地元茨城では老若男女に愛されるまさに県民スターといっていいだろう。茨城県民に愛される安達勇人とは、いったいどういった人物なのだろうか。

*この記事の後編:「田舎を変える」人気声優の"4大挑戦"驚く本気さ

老若男女を楽しませるアーティスト

2023年1月21日、茨城県大洗シーサイドステーション。ショッピングモールの特設ステージの周りには、多くの老若男女が詰めかけていた。

ざっと100人はいるだろうか。特設ステージといっても、軽トラックの荷台を改造したものだ。

そのステージに立つ人物こそ安達勇人である。

「多くの老若男女が詰めかけ」などという表現は大勢の人たちが集まったときによく使われるが、その実、男性アーティストのイベントなどでは若い女性などの場合がほとんどであり、実際は年配者や中年男性などはほぼいないと言っていい。

しかし、安達のライブイベントは違う。本当に年配者から中年男性までが集っているのだ。

比率的には女性が多いが、それでも年齢層がばらけているのがわかる。そして、みな笑顔で安達のライブを楽しんでいる。

いったい、この空間は何なのか。初めて安達のライブを見た時、その光景に驚きを隠せなかった。

安達勇人、34歳。声優俳優アーティスト地域プロデューサーなど肩書は多数。多くの茨城県民に愛される安達勇人とは、いったいいかなる人物なのであろうか。

そして、なぜ声優としてその全盛期に、田舎に拠点を移したのか。まずはこれを単刀直入に聞いてみた。


軽トラに限らず会場のあらゆる場所でパフォーマンスを繰り広げる(写真:松原大輔)

声優の仕事は平日はアフレコ、土日はイベントで半年後までスケジュールが押さえられてしまい、やりたいことができなくなるんです。『これじゃあ、町おこしもできない』と思ってセーブしました」


アイドル時代の経験も今大いに役立っているという(写真:安達勇人さん提供)

声優といえば、巷の小中学生の人気職業ランキングでも、つねに上位に来るほどの人気職業

ましてや、その声優として確固たる地位を築きつつある中で仕事をセーブする。

健康上の理由などであれば理解できるが、返ってきた答えは「町おこし」という意外なキーワードだった。

そんな安達が町おこしを志すようになった理由を知るには、彼の半生を振り返る必要があるだろう。

悔しくて泣いた「こんな田舎じゃ無理だから」

小6のときに『芸能界に行きたい』って決心したんですけど、誰にも言えなくて。中学の頃に、親戚の集まりの席で、意を決して伝えたんです。そうしたら、『こんな田舎じゃ無理だから』って言われて、悔しくて泣いたんです」

安達勇人が芸能界を志したのは早く小学生の頃。父は公務員、母は銀行職員と画に描いたような堅い家庭環境で育った。そのうえ「田舎特有の保守的な考え方」から芸能界入りを否定され、以来言えずにいた。

高校生の頃にみた映画『ラストサムライ』にも強く影響を受け、ますます芸能界への憧れは膨らんだ。

しかし現実は、幼少期から始めた剣道に明け暮れる毎日。高校3年の頃には剣道部の主将を務め、ついには全国優勝を果たすまでになっていた。

全国優勝というひとつのことをやり遂げ、改めて芸能界への挑戦を決意する。当然、剣道での大学推薦なども多数来たがすべて断り、上京した。このとき、安達には「ある想い」があった。

「芸能界入りを決心したとき、僕は『こんな田舎じゃ無理だから』と悔しい思いをしました。『これが次の世代にも起きるのはダメだ、変えなきゃ』と思って。そのためには、まず自分が『茨城を動かせる人間』にならないといけないと思ったんです」

安達の町おこしへのスタートは、「保守的な田舎の風潮を変えたい」という一心からだった。

安達が芸能界入りしたのは18歳の頃。大学に通いつつ、雑誌のモデルなどをこなしていた。

もちろんまだ仕事は少なく、ファンもいない。けれども「町おこしのために何かしなければ」とたどり着いたのが、笠間市の観光大使だった。

今のように市から任命される形式ではなく、当時は性別不問で公募されていたのだ。「これだ」と思い、すぐに面接に挑み、地元愛をアピール。見事、笠間観光大使に任命された

今でもそうだが、こういった観光大使の多くは、地元女性が務める風潮がある。

当時、無名である20歳の青年が観光大使の襷(たすき)をかけ、地元PRに地域を回る。そこで触れ合うおじいちゃんおばあちゃんに「売れるといいねぇ」と行く先々で声をかけられ、悔しさと同時に地元の温かさにも触れた。

「絶対に茨城全体を盛り上げられるようになる」と誓った。

閑散としたショッピングモールでの無料ライブ

3年の任期を終え、東京でアイドルグループ「NEVA GIVE UP」に加入。芸能活動も勢いがついてきたころ、再び笠間特別観光大使となる。今度は任命されての大使だ。


笠間観光大使として3年間地元でキャンペーンを続けた(写真:安達勇人さん提供)

そこで思いついたのが、地元の商業施設での無料ライブ。笠間ショッピングセンターポレポレシティ。当時は客が少なく閑散としていた。

「このままではいけない」と思い始めたライブは観客50人が100人となり、ついには1000人にまでなった

初めのころは、東京から駆け付けるファンだけだったが、次第に地元茨城や北関東からも来てくれるようになっていた。地元で活動すること、「町おこしとは何か」ということを掴みかけていた。

そんな折、安達は「ある決断」を迫られる。声優業も忙しくなり、アイドル、俳優と多忙を極め、どれかに絞らなければ体も時間も持たないような状況だった。

「アイドルの仕事も好きだったんですが、やっぱり俳優でやりたいとリーダーに伝えて、アイドルは卒業しました。もちろん町おこしのこともずっと考えていました」

この決断が安達勇人の最初の転機となる。

アイドルグループ卒業後、安達は独立し、地元笠間で「ADACHI HOUSE」を立ち上げる。

地元といっても、安達の地元は実は笠間市の隣、桜川市だ。「なぜ本当の地元である桜川市に拠点を置かなかったのか」を問うと、苦笑いしながら、こう答えてくれた。

「まだ駆け出しのころに桜川市にも働きかけたんですけど、本当に冷たくて相手にされなくて……。ああ、これが自分の地元か〜って。笠間は『何者でもない自分』を本当に温かく迎え入れてくれました

もちろん今は桜川市とは良好な関係を築いているし、特別に何かあったわけではない。

ただ、無名のころに助けてくれた笠間への恩義や特別観光大使ということからも、笠間に拠点を移した。そこから茨城を拠点にした活動がスタートする。

「あえて全盛期に降りる」選択をする

独立後は、声優としての人気が爆発する。人気アニメ『ナルどマ』声優デビュー。声優事務所や専門学校を卒業したわけではない安達が主要キャラの声優となることは、業界的には大抜擢である。

続いて『アクエリオンロゴス』『ALL OUT!!​』『王室教師ハイネ』などの人気キャラの声を担当し、期待の声優としてラジオやイベントなどに出演。

同時に『ミュージカル忍たま乱太郎』『ひと夏のアクエリオン』などアニメを舞台化した、いわゆる2.5次元舞台の俳優としても人気を誇った。


右から2番目が安達勇人さん。2.5次元の舞台でも人気を博した(写真:安達勇人さん提供)

当時の人気はすさまじく、半年〜1年先までスケジュールが押さえられるほどだったという。

しかし、この絶頂期において安達がとった行動は、その声優や2.5次元俳優としての仕事をセーブすることだった。

まず安達が行ったのは声優としての仕事を一度整理することだった。

「剣道も全国優勝して辞めています。2.5次元の舞台も一番いい役でいい時期に降りました。続ければもちろん食べてはいけるんですが、自分の中では『割り切ったもの』がありました声優の学校を出たわけでもなく、それでやっていくということでもなかったですし」

声優として上り調子のまさにそのときに、安達はあえて声優としてのオファーを断ったのである。

そして冒頭に挙げたようにスケジュールの問題などを踏まえ、地元で活動できる時間を優先した。ここから笠間と東京を往復する日々がスタートする。

1000人を超えるZeppで、ライブツアーを成功させ…

茨城のご当地アーティストになるのではなく、東京でもしっかり活動することで、業界にもしっかりアプローチできます。笠間に拠点はありますが、完全に茨城だけということではありません」

この言葉どおり、拠点を移した安達はソロアーティストとして快進撃と言っていいほど駆け上がっていく。

2018年からは、全国ツアーを開催台湾上海シンガポールなど海外でのライブも、大成功を収めた。2020年にはキャパシティー1000人を超えるZeppにて、ライブツアーを成功させる。

そして、アーティストとしても、さらなる高見を目指すべく安達が上ったのは、地元茨城での軽トラックの上だった。


「地元茨城を盛り上げたい」という熱い想いを、道の駅などのライブで体現する(写真:松原大輔)

「Zeppのようなステージに立てることはアーティストとしてもちろん光栄なことですし、売れない頃からすると、本当に夢のようなことです。ただ、僕にとっては軽トラの上も、Zeppのような大きなステージも、水戸駅前の景色も、道の駅も、変わらないんですよね」

これをあっけらかんと言ってのけるのが、まさに安達勇人の現在地を象徴しているだろう。


トレードマークのオレンジのツナギの衣装(写真:松原大輔)

普通、それなりに売れているアーティストにはプライドやイメージ戦略もあり、ライブ環境が整っていない地方のイベントには出づらいものだ。ましてや軽トラの上をステージにライブなど、そうないだろう。

大会場も道の駅も「楽しみ方」次第

ステージは楽しみ方次第だと思います。いろんな表現ができるのはうれしいですね。道の駅でもそこでしかない出会いがあるわけです。ホールなどのライブだと絶対にない、その日しか会わない人たち。おじいちゃんおばあちゃんや男性の方とか。それが今、連鎖しているんです」

男女関係なく、みんなが楽しめる場所があるのではないか、それが安達が地元茨城で目指す場所であり空間だ。


安達にとっては軽トラからの景色も大ホールの景色も変わらない(写真:安達勇人さん提供)

今、安達は毎週末、茨城県内のお祭りや道の駅、はたまた商業施設でライブ活動を行っている。もちろん平日は都内での活動をこなしつつだ。「町おこし」としてまずは自分自身が地元に貢献できることを実践している。

地元での活動の原動力となっている、次の世代に「田舎からは無理」と思わず可能性を感じてほしいという想い。それは無名の観光大使だったあの頃から、何ら変わることがない。

声優としての最盛期に仕事をセーブし、茨城での活動に本腰を入れた安達は、きっとまた「新しい道」を見つけるに違いない。

*この記事の後編:「田舎を変える」人気声優の"4大挑戦"驚く本気さ

(松原 大輔 : 編集者・ライター)