病院に設置予定の東急8500系8530号車(筆者撮影)

東急電鉄が「田園都市線8500系車両の特別販売を行います」と発表してから1年あまりが経過した。価格は先頭車1両まるごと税込み176万円。実際にはそこから移送費もかかる。もちろん設置場所も必要。基礎工事をしないと重量に耐えられない。諸費用のほうが高額で、土地代を省いても1000万円はくだらないだろう。引き合いは多かったというけれど、成約したという話は聞かなかった。

そんななかで、東京都調布市の精神科病院「東京さつきホスピタル」による保存プロジェクトが発足したことが、クラウドファンディングサイト「READYFOR(レディーフォー)」で明らかになった。8500系電車を病院内に設置して、医療と地域のシンボルにしたいという。クラウドファンディングにした理由は、精神科病院について社会の理解を深め、気軽に訪れる場所にしたいからだ。

ギラギラしているけど華のない8500系電車

東急8500系電車は、1975年に新玉川線(現在の田園都市線・渋谷―二子玉川間)、営団地下鉄(現、東京メトロ)半蔵門線直通用車両として誕生した。オールステンレス製車体で、長さ20m級の8000系電車の改良版だ。車体前面の赤帯は東急のシンボルカラーでもある。東急電鉄で初めてCS-ATC(車内信号式自動列車制御装置)を搭載した画期的車両でもあるけれど、外観は四角、4扉ロングシートの実用一辺倒な車両だ。他社の有料特急用車両や寝台車、食堂車のような華はない。

しかし、東急田園都市線沿線の人々にとっては特別な思いがある。8500系は新玉川線に直通しただけではなく、すずかけ台から中央林間の順次延伸に合わせて増結、増発を続けてきた。ドラマ『金曜日の妻たちへ(TBS 1983年〜)』『私鉄沿線97分署(テレビ朝日 1984年〜)』で、新興住宅地のイメージを高めた頃でもある。多摩田園都市の発展の象徴だ。田園都市線沿線在住の筆者にとって、成熟した現在よりも、8500系の銀色車体がギラギラと輝いていたあの時期こそが、多摩田園都市の「古き良き時代」だった。

8500系は人生のさまざまな場面を共に過ごした電車だ。華はないけれど、沿線の人々の記憶に残る。だからこそ、引退後は沿線のどこかで残してほしい。東急電鉄は社内研修用に保管しているけれども、こどもの国あたりで公開保存してほしかった。なんで売ってしまうのか。しかも名乗りを上げた「東京さつきホスピタル」は田園都市線沿線にあるわけではない。京王電鉄京王線のつつじヶ丘駅から300mの場所である。筆者には「なぜここに」という思いもある。

鉄道車両の保存の話題だけれど、少し重い話をする。なるべく読後がさわやかになるように書こうと思う。

精神科病院に対する偏見や差別は少なくない。入院したら一生出られない、薬漬けにされるといった風説が付きまとう。これは小説、映画などのメディアが恐怖を煽ったからでもある。しかし、これはフィクションではないかもしれない。戦前戦後を通じて、日本での精神障がい者への対応は治療より隔離が重視されてきた。また民間の精神科病院に国が強い権限を与え、強制入院、身体拘束、監禁隔離が可能であった。

入院させても退院できない事情には患者の家族の要望もあった。患者は退院しても自立できないかもしれない。しかし、入院していれば食事は出る。

一方、病院は治療機会より生活の場を提供するわけで、経営努力はそれほど求められない。

国は一般病床16床に対して最低でも医師1人と定めているけれど、精神科病院は病床48床に対して医師1人という特例がある。それでもいいからやってくれ、という国の方針である。多くの国で精神科病院は国公立だけれど、日本は民間にも任せた。民間企業としては患者がいれば収入があるから、この状態がずっと続いていた。

精神科病院には行きにくい

しかし、この仕組みが通用しなくなってきた。ひとつは国際社会が注視する人権問題だ。「精神障がいがあるからといって閉じ込めていいのか」。もうひとつは国の財政問題。保険治療で衣食住までケアするとお金がかかる。だから「地域包括ケアシステム」とか、地域移行という言葉をうまく使って、患者を外へ出しましょう。通院ベースでいきましょう、となってきた。もちろんその背景には外来投与できる治療薬の進歩もある。


東京さつきホスピタルは京王電鉄京王線のつつじヶ丘付近にある(写真:東京さつきホスピタル)

ただし、この移行は容易ではない。治療方式の転換は経営努力を求められる。病床を1つ手放せば外来4人を獲得しなくては採算が合わず病院経営が成り立たない。病床は国に割り当てられたようなもので、手放すと返ってこない。

心のトラブルを抱える人は増えていて、放置すればいつか心が壊れ、精神の病に至る。筆者の個人的にも近いところで病む人の話を聞いている。もはや身近な病気だ。生活習慣病のように、未病の時点で治療し、病状悪化を防ぐ手立ても精神科病院の役目ではないか。しかし精神科病院には行きにくい。心の病がある人ほど行きにくいだろう。

東京さつきホスピタルを運営する特定医療法人「研精会」の石坂真一郎副理事長は次のように話す。

「私見ですが、もっと早く医療介入してれば重症にならなかったかもしれないという事例もあります。衝動的な自殺にしても、発端は孤独や孤立、1人ぼっちになって相談相手がいないというか、1人で思い詰めて、負のスパイラルにハマる。そこまでに僕らが出ていって『どうしたの』って話を聞く場面があってもいい。こちらから思いを届けられなければ、少しでもこちらに入ってきやすい雰囲気を出せないかなって、前々から思っていました。地域の人々も参加できるお祭りを開催しているのもそのひとつです。別の系列病院で動物園を併設しようという構想もあるんです」

東京さつきホスピタルには内科や小児科もある。職場や学校へ行こうとするとお腹が痛くなる。それは胃腸の病気ではなく、心のメッセージかもしれない。小児科に通っていた子が成長したとき、心の苦しみを感じたとき、混乱しているとき、この病院には思春期外来がある。小児科の続きという感覚で行ける。そこに電車が「親しみやすさ」を加える。

クラウドファンディングの目的は費用だけではない

石坂氏は鉄道ファンではないけれど、東急目蒲線(当時)の沿線で生まれ育ち、電車に親しみはある。池上線の長原駅付近にも住んだことがあるそうで、筆者の通っていた幼稚園の近くだった。現在も東急電鉄沿線に住んでいる。

ネットニュースで東急の電車販売を知ったとき、「少しでも入りやすい雰囲気づくり」のシンボルとして、子どもが好きで、誰もが親しむ電車が適任だと考えた。理想の風景は世田谷公園(世田谷区)だ。そこには蒸気機関車「デゴイチ(D51)」が保存展示されている。付近に保育園もあり、SLの周りで子どもたちが遊び、人々が談笑する。あんなふうに、誰もが笑顔で訪れる場所にしたい。

すぐに病院内にある社会福祉法人「新樹会」で就労継続支援施設「創造農園」園長などを務める諏訪智氏に相談した。古くからの知人で気心知れた仲。しかし、当初は反対したという。

「(鉄道マニアでもないのに)ナニ言ってるのって、どれだけおカネがかかるんだって。でも、電車を買うためにいろいろ調べて、クラウドファンディングを知りました。これなら全額負担にならずにすむかもしれない。そしてもっとも重要な点は意義。石坂さんの話を聞くほど、当院とグループだけの話に留まらず、精神医療全体に一石を投じることができるかもしれない。これは面白いことになるなと。これはボクの性格で、面白いならやるかって」(諏訪氏)

このプロジェクトは社会福祉法人「新樹会」として立案した。理事長も「いざとなったら全額出す」と応援してくれたという。しかし、主旨を考えれば全額負担では意味がない。クラウドファンディングは資金を得るだけではなく、支援してもらうことも目的のひとつだ。法人がクラウドファンディングを実施する場合はこの「メッセージを届けたい」という目的もある。大井川鉄道のSL復活プロジェクトもそうだ。だから全額を募集するわけではない。おカネも必要だけど「応援」を集めたい。

「大井川鉄道の1億円クラファンには勇気をもらいました。京王沿線なのに東急の電車なのかってことも言われますけど、東急の売り出しを知って決めたのでタイミングですよね。グループLINEで経営陣と相談して、東急にメールで申し込みました。その時は先着順で11位と言われて、もうだめだとあきらめました」(石坂氏)

最終的な費用は8000万円に

しかし応募した上位陣は次々に脱落していく。車両購入費、土地、輸送費までは想定できても、その後、厚生労働省の指導でアスベスト処理費が必要、雨漏りを防ぐために屋根をシール加工する費用、帯電しがちな電装部品の絶縁処理費用など、あとから費用が追加されていく。

東急のアドバイスによると、設置場所の基礎工事も必要だったという。やわらかな土地にレールを置いただけでは、地震の時にひっくり返る。実はここ、東京外かく環状道路工事による道路陥没事故と同じ町内だ。地盤に関して敏感な地域になっている。だから地域の人々に不安を与えてはいけない。もちろん、病院施設としてわずかな傾きも許されない。

こうして費用が積み上がり、最終的には地盤改良も含めて7500万円、病院側の費用も合わせると8000万円ほどになる。この結果に驚いたのは病院側だけではない。東急側も困惑したという。今年創業100年を迎えた東急は、地方鉄道に中古車をたくさん譲渡してきた。しかし電車を病院に売るなんて初めてだ。その事情を病院側は理解した。

東急は8500系引退を記念して「ありがとうハチゴー」プロジェクトを立ち上げている。そして今年は創業100年の記念すべき1年だ。なんとしてでも成功させたい。そして8500系を設置する病院の趣旨についても賛同できる。だから東急側も企業努力を惜しまない。輸送経路の測量、車両の輸送、設置場所の整備などは、すべて東急グループの関係会社が結集して、病院を支援してくれたという。

東急の全面協力はクラウドファンディングの返礼品にも現れている。鉄道関連のグッズは東急公式オンラインショップ「TOKYU STYLE」が協力してくれた。筆者が参加した「8530特製アルミカードケース」も限定モデル。過去に同様の商品があり、筆者も「伊豆の夏号バージョン」を持っている。返礼品は8500系のコルゲーションだけではなく、車番と窓がデザインされている。ほかにも座席の生地を使ったペンケースとキーケース、Nゲージ車両と原寸大車号板(レプリカ)、銀座天賞堂製の腕時計。天賞堂と言えば鉄道模型だけれど、創業以来、宝飾品、時計販売業の老舗である。


返礼品として用意された8500系の前面赤帯。8500系の特徴を表す部品だ(写真:東京さつきホスピタル)

「ハチゴープロジェクト特別DVD」は東京さつきホスピタルへの搬入の様子をレポートするほか、石坂氏と共に、ある病院の経営改革に取り組む元航空会社役員が登場し、車両総合事務所に潜入、航空業界から鉄道業界へ突撃取材を敢行する。8500系の魅力を語ってもらう予定だ。

実物車両部品として、現在走行中の8537号車の青帯コルゲート板。客用ドアは1枚30kgを左右1組。そして8500系の象徴、前面赤帯3枚セットは貴重すぎる。走行中の列車の部品まで売約するとは、中古部品販売としても大盤振る舞いだ。ドア販売は祐天寺の鉄道イメージカレーショップ、ナイアガラで使われていたブルートレインの扉がヒントになったという。

ユニークな返礼品も

返礼品には食品もある。これは病院側の提案だ。グループの就業支援施設「創造農園」の手作り洋菓子セットのほか、研精会が力を入れる「食支援チーム」推薦の、大分県の酒蔵「ぶんご銘醸」の甘酒セット、岐阜県のグルテンフリー工房「ままみぃ」の米粉パン、嚥下調整食の製造元「天柳」のMCT(中鎖脂肪酸)オイル、飛騨「まんま農場」の減農薬米セットなど。

ユニークなところでは8500系車両を貸切で提供するディナータイム。シェフはフランスの三つ星レストランで修業後、オランダやドイツの日本大使館料理長を歴任した河野辰也氏だ。JR九州の「家庭画報×ななつ星 in 九州 クリスマス スペシャルツアー(2021年)」で腕を振るった。大分でレストラン「ムッシュカワノ」のオーナーシェフを勤めており、この催しのために上京する。食支援チームのリーダーの幼なじみという縁だ。

鉄道とは関係ない返礼品を選ぶ支援者もいる。「東京さつきホスピタルを応援したいけど、鉄道には興味がない」という人たちだ。返礼品なしで50万円、100万円単位の支援者がいる。鉄道車両保存プロジェクトのようでいて、精神科病院応援プロジェクトになっている。

8500系の設置予定地を見せてもらった。病棟とデイケア棟の間で、現在は畑になっている土地。道路に並行に置き、先頭は病棟側、バス通りからチラリ見えて「電車だ」と解る向きになる。

設置後は誰でも見学でき、日中は誰でも車内に入れる。心無い鉄道ファンのいたずらも対策する必要があるから、無料開放とはいえ、見守り役を置き「話せる場所」として活用する。イベントスペースとして認知症セミナーを開催するほか、保健所の許可を得られれば医療の場にも使いたいという。小児科もあることだし、こども向け予防接種会場もいいと思う。活用法はこれから詰めていく。

車内に入る方法は未定。乗降扉を自動ドアでと考えたけれど、追加費用がかかる。プラットホーム設置も課題のひとつ。今後も何かとお金がかかりそうだ。支援が増えればやりたい。そのためにオープンセレモニーの参加など体験型の返礼品追加を検討中とのこと。

公開予定日は2023年8月

必要資金は概ね8000万円。クラウドファンディングの目標金額は2900万円。目標に達すればセカンドゴールもあるとはいえ、全額に満たない。それでも精神科病院に電車を置きたい。その理由を知れば「東急沿線ではない」という不満はどうでもいい。電車の保存が精神医療のターニングポイントになるとしたら、鉄道ファンとしてうれしいことだ。

12月にクラウドファンディングを締め切ったあと、東急との引き渡し、輸送経路に関する警察の許可などを得て、6月ごろから地盤改良工事を実施。公開予定日は2023年8月を予定している。ハチゴーにちなんで8月5日だとカッコいい。筆者も支援者のひとりとして、これからも応援していきたい。


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(杉山 淳一 : フリーライター)