濁った池の水を抜いて、池の底まで見通せるようなきれいな池にしたところ……何が起こったと思いますか?(写真:Pochi/PIXTA)

私たちの生活を便利にしてくれる科学技術。その進歩とともに、身近なところで「ワクチンは打ったほうがいいのか? 打たないほうがいいのか?」などと今までにない判断を迫られることも増えてきている。

そのような現状をふまえ、エセ科学に踊らされないための科学リテラシー(科学的な知識を社会のためにどう上手に使えばいいのかを考える能力)がますます重要になってきていると強調するのは、東京大学名誉教授の石浦章一さん。『日本人はなぜ科学より感情で動くのか』を刊行した石浦さんに、科学リテラシーを身につけるコツについて話を聞いた。

透き通ったきれいな池にしたら起きたこと

私が住んでいる近くの公園では、「かいぼり」といって市民ボランティアが池の水を抜いて、透き通ったきれいな水にしましょうという運動をやっています。そのとき、池の中から自転車が200台以上見つかりました。

とんでもない話で、夜にそーっと来て池の中に要らない自転車を捨てている人がこんなにたくさんいたということがわかり、かいぼりというのは非常にいいことなんだと、多くの人は思ったようです。

結論としては、かいぼりをしたところ、濁った水がなくなって池の底まで見通せるようなきれいな池になったのです。100%素晴らしいと思うでしょう。外来種がいなくなり、大型のコイもすべて駆除されて、底まで透き通ったきれいな池になったのですが、何が起こったかというと、かいぼりをしてから数年、魚がいなくなり鳥も来なくなってしまいました。死の池になってしまったのです。

以前は、いろんな鳥が来ていて、いろいろな魚がいて非常に楽しい池だったのですが、今はほとんど何もいない池になってしまいました。数年たって、鳥は少し回復してきましたが昔ほどではありません。代わりに、外来種の藻が急激に増えて池全体を覆うことも多くなりました。これで本当に良かったのでしょうか。

いろいろな生物がいるのが地球であり、外来種がなぜ悪いのでしょうか。このような疑問を持ち、立ち止まって考えてみることが、科学リテラシーを身につけるうえでとても大切になります。

今の日本の外来生物法では、「外来生物」は「海外から我が国に導入されることによりその本来の生息地または生育地の外に存することとなる生物」と定義されています。

「外来生物」とほぼ同じ意味で使われる「外来種」には、人為的に放流された国内の魚なども含まれます。例えばワカサギは、食べるとおいしい魚だということもあり、たくさんの湖に放流されました。だから、今となっては喜ばれているワカサギだって、場所によっては外来種で昔は駆除の対象でした。

しかし現在の生態系は、外来種の存在も含めてできているわけです。つまり、在来種か外来種かのいかんにかかわらず、現在の環境には、一番そこに適応している生物がいるということです。

いわば皆さんは生物の進化の途中を見ているわけです。だから外来種を除けというのは、単に昔が良かったという話でしかなく、外来種を駆除することは意味のない話ではないか、という考えも当然あるわけです。

つまり、外来種に生存を脅かされている在来種を保護し、生物多様性を保つことは本当に必要ですか、ということです。

生物多様性重視はアメリカの経済政策の一環だった

生物多様性が必要という考えが出てくるということは、実際に生物多様性が私たちにサービスをしているということを示しています。実は、生物多様性というのは、もともとはアメリカが経済政策の一環として言い出したことでした。すなわち、生物多様性を保つというのは、生物資源に価値を見いだして金儲けに走ることがなきにしもあらずだったのです。

例を考えてみましょう。海の中にはいろいろな生物がいて、多様性のある環境が作られています。つまり海というのは、食料も提供してくれるし、その中から医薬品も作られる。例えば、ウミヘビの毒から医薬品が作られたりする例もあります。

遺伝資源(生物が持つ遺伝機能を備えた素材のうち潜在的に利用価値のあるもの)もいっぱいあります。海の中では栄養循環や光合成が行われ、地球上の酸素も海の中でたくさん作られていて、気候変動にも関わってきますから、生物が多様ということがやはり非常に大切なんじゃないかということが、一般の考え方になります。

あるいは見方を変えると、海を見ているだけで精神が安定することもわかっています。文化的にも非常に大切で、宗教や教育にも影響力がある。ところが、海は種々の物質で汚染されている。汚染を除けば、海は非常にきれいになって、私たちの文化的な生活がよりよいものになるだろうという考え方もあります。

ところが、生物は全部保護しなければならないかというと、反論もあります。役に立つ生物だけいればいいという考え方です。それに対し、役に立たない生物は絶滅していいのか、と怒っている人はいっぱいいます。かわいいものだけしか保護していない動物愛護も、批判の対象になります。

また、希少な動物はワシントン条約などで保護されていますが、これは単に「いなくなるのが寂しい」「昔はよかった(昔はたくさんいたのに今はそうではない)」という論理と同じではないか、という批判もあります。

先ほど述べたように、現在の生態系が現在の地球環境に最も適応したものですから、なんでもかんでも「昔はよかった」というのではよくないのではないかという考えも出てくるわけです。

しかし、生態学者はそういう考え方に対して反論します。なぜかというと、昔から続いてきた生命の営みを断ち切ることはできないというのです。つまり、生物が多様だからこそ食物連鎖がちゃんと行われるのであって、そのうちの生物が一つでもいなくなると困る、という論理です。ところがそれなら、すでに生態系の一部となっている外来種だけを駆除していいのか、ということになります。

一般人を感化するにはどうしたらいいかというと、情緒に訴えることが非常に大事です。「昔は良かった、自然がいい」と言うと、みんなだいたい賛成してくれるのです。あるいは「環境にやさしい」と言うと、みんなもろ手を挙げて賛成してくれます。しかし、本当にそれでいいのか。ときには「それは単に研究費を取って学者が生き残るための方便なのではないか」という批判的な視点を持つことも、科学リテラシーの重要な一部になるのです。

「生物多様性、大事ですね」「里山、大切ですね」など、みんなが唱えている標語のことを「錦の御旗」と言います。この錦の御旗を与えると、みんな喜んで乗るんです。だから、同じように「外来種を駆除しましょう」と言うと、おおよそみんな乗ってくるのですが、考えてみると外来種だって生物です。自分で無理やりその場所に来たのではなく、持ち込まれた場所で必死に生きているだけなのです。だから、そういう2つの別々の考えがあるものを皆さんで議論して、どうしたらいいかを決めることが重要なことなのです。

自然エネルギーの落とし穴

自然エネルギー(再生可能エネルギー)もすごくいい言葉の響きを持っています。再生可能エネルギーというのは、地熱、潮力、太陽光、風力、バイオマス、こういう自然を使ったエネルギーです。

例えば、太陽光発電を考えてみましょう。メガソーラーといって広範囲にわたって太陽光パネルを敷くと、太陽の光だけで電力が得られるので非常にいいのではないかと最初は考えられたわけです。これは環境にやさしいですね、と。石炭や石油を燃やさなくても済むわけです。タダの太陽の光が使える。だからある人は、町一面に太陽光パネルを敷いたらどうかとか、ひどい人は、サハラ砂漠一帯に太陽光パネルを敷けばいいじゃないか、とも言ったのです。エネルギーの元がタダだからです。

でも、もしそんなことをしたら大変なことになります。一帯が暑くなって、巨大な上昇気流が起こる。これは煙突みたいなものです。竜巻のような嵐が出てくるのは当然なんです。こんなことをしたら地球環境がむちゃくちゃになってしまいます。

さらに、メガソーラーを導入してしまうと、その建設地にいた小さな虫がいなくなってしまうという問題もあります。『絶滅危惧の地味な虫たち』(小松貴著、筑摩書房)を読むと、メガソーラーの普及により、絶滅の恐れがあるメクラチビゴミムシの生息地が失われていることがわかりました。

彼の言い分では、保護されているのはきれいなチョウや大型の甲虫などばかりで、小さくて地味な虫は保護されていない。だからこのような「絶滅危惧種を保護しよう」などという運動は、「人間にとって」きれいなものだけが対象ではないかと怒っているわけです。確かにそのとおりです。目に見えないようなものは保護されていないのです。

ここでもう一度ちょっと考えてみましょう。どうして再生可能エネルギーが大事だとみんなが考えるようになったのか。

実は、こういうことなんです。人工的なものはいつか破綻するだろう。原発がそのよい例である。だから自然のもののほうがいいに決まっている。自然のものはタダだ。資源が無尽蔵だからいいのだというのです。

ところが、最初は非常にいい試みだとみんなが思ったわけですが、間違いだということがだんだんわかってきました。コストも非常に高いし、気象はコントロールできません。だから安定供給ができないのです。安定供給ができないということは、ひたすらお金だけがかかってうまく使えないということになります。もちろん、これを効率よく使えるようにするのも一つの方法なのですが、今の段階ではまったく役に立たないという考えがだんだん広まってきたのです。

例えば、潮力を使った潮流発電も期待とおりには進んでいません。潮流発電というのは、自然に起こる潮の満ち引きを使うわけですから、タダのエネルギーです。これもまたいいのではないかとみんな思ったわけですが、実際にやってみると、実用化が難しく、なかなか使い物にならないことがわかりました。

「保護」と「保存」と「保全」の違い

ここで、ちょっと大事なことを覚えておいてください。「保護」と「保存」と「保全」の違いです。


「保護 (protection)」というのは、対象物に対して外部からの改変しようとする力を除き、自然状態のままにしておくことです。これはどういうことかというと、例えばアマミノクロウサギを保護しなきゃいけませんねというと、奄美の自然をそのままにしておけばいいということになります。

次に、「保存 (preservation)」は何かというと、必要に応じて修復しなければいけないものが対象です。例えば、平安時代に造られた建物はだんだん腐ってくるわけですが、それをちゃんと修復しておいておく、ということが保存になります。

さらに、「保全(conservation)」とは何かというと、これはより良い状態にすることで、改善することも含む概念です。こちらのほうが人間の力がたくさん入っている。それを保全と言います。

だから、この3つは違う意味だということは知っておいてください。特に、「環境保全」は違う意味に使われていることが多いので、注意が必要です。

(石浦 章一 : 東京大学名誉教授)