日本陸軍の「密偵」として潜入した、西川一三という日本人の長大な旅路を書き上げた、作家・沢木耕太郎さん(撮影:梅谷秀司)

「久しぶりだね」。そう笑った沢木耕太郎(74)は、2年前のインタビュー時と同じこの部屋でわれわれに見せてくれたのと変わらぬ、柔らかく穏やかな所作で椅子に座るよう促してくれた。なにか1つだけ違うとすれば、それは沢木の顔に浮かぶ“作家の表情”だったように思う。2020年の夏よりもすっきりとした何か。2年の間に沢木の中で変化が起こった、咄嗟にそう感じた。

もともと、沢木が纏う空気には妙な濁りがいっさいない。頭の中には遠い世界の地平線がゆったりと広がるであろう人なのに、自分を等身大以上に見せるような圧迫感などかけらもないし、品のあるユーモアはあっても自虐に堕しておもねるようなみみっちさからは最も遠い。

ダンディーでスマートな沢木はこれ見よがしに胸を張るでもなく、ただ真っ直ぐに立ち、悠揚と座る。中立でシンプル、潔く整った魂のひと。そんな印象を持つ沢木の佇まいがさらに“整理整頓”されていたものだから、思わず訊いた。「先生、旅に出られるんですか?」

沢木の表情がふっと明るく緩んだ。「そうなんだよ。コロナで海外に行けない時期が続いたけれど、ほんの2週間ほど、3年ぶりに東南アジアに行こうと思ってね。パスポートもしばらく使ってないからね」。ああそうだ、沢木はスケジュールも荷物も、何もかも自分で調えて旅する人だから、これで晴れ晴れとアジアへ飛ぶのだろう。

『キャパの十字架』以来9年ぶりのノンフィクション、沢木耕太郎史上最長編作品となる『天路の旅人』(新潮社)は、発売後即重版。25年もの間、沢木がその生き様に激しく共鳴し、まるで重い宿題のようにして密かに「人生を預かり続けた」、ある日本人「密偵」の長大な旅路をようやく書き上げたのだから。(文中敬称略)

第2次大戦末期、中国大陸の奥深くまで潜入した「密偵」

第二次大戦末期、当時の敵国・中国大陸の奥深くまで日本陸軍の「密偵」として潜入した、西川一三という日本人がいた。混乱の時代、中国大陸内奥の情勢を探るべしとの諜報活動を密やかに命ぜられて蒙古人のラマ僧になりすまし、駱駝を連れ、日本の勢力圏だった内蒙古からチベットへほとんど徒歩でたどりついた頃、日本は敗戦。西川はその後もインド、ブータン、ネパールと、8年に及ぶ果てしない旅を続けた。

日本の敗戦に深い喪失感を抱きながらも、「国家という後ろ盾がなくとも、ひとりの人間として存在していけるという確信が生まれ」たその矢先、西川はヒマラヤ山麓の町で逮捕され、GHQ占領下の日本へ送還される。帰国後は、敗戦によって情報価値がほぼ灰に帰した中、GHQに対して自らの旅を形式程度に報告し、自身の旅の記録として『秘境西域八年の潜行』を著す以外は縁もゆかりもない盛岡で商店主として勤勉に働き、2008年に没した。

作家・沢木耕太郎は「密偵や巡礼としての旅そのものより、日本に帰ってきてからの日々をも含めたその人生」に激しく共鳴し、すでに80代となっていた西川本人へ25年前に接触。1年にわたりインタビューを重ねるが、本人の確固たる著作があるという前提のうえに「どのように書けばいいかわからない」「西川を描く、その書き方が発見できな」い、との逡巡から、インタビューを中断したまま10年余が過ぎてしまったところで、西川の訃報を知って「約束を反故にしてしまった申し訳なさ」に打ちひしがれるのである。

「やっと日本に帰れたんですよ、僕も一緒に」

だがその後、沢木は西川一三の『秘境西域八年の潜行』生原稿を預かったまま処分できずにいた編集者にたどり着く。そのとんでもない僥倖が、一度途絶していた沢木の創作を再開させるのだ。沢木はすでにかすれて読めないような部分もある、バラバラで未整理の膨大な生原稿3000枚の入った2つの段ボール箱を引き取り、7年前にもう一度、西川一三の旅の軌跡を書き始めた。


(撮影:梅谷秀司)

若き日の西川が内蒙古から中国の奥地へスパイとして潜行した旅路は、正式な手続きによる報告書が残されているわけではないため、確かな記憶も記録も失われている。西川本人の帰国後の記憶をもとにした私的な記録だけが根拠だ。彼の生原稿と文庫版をつきあわせ、公の資料を加えて精査し、そうした曖昧さや欠落や齟齬を埋めて、沢木の言葉で再話していく7年間の作業。それすらが、この作家にとっては魂の旅路のようなものだったのではないか。

沢木は本書『天路の旅人』のあとがきでこう書いている。

「ここ何年と、新型のコロナウイルスの流行によって外国に旅することができなくなってしまった。だが、実を言えば、私はほとんど退屈してなかった。ある人物の旅の全体像を把握するため、書物上で、地図上で、あるいはグーグルアース上で、その足跡を追い続けていたからだ」

そりゃ退屈しませんよねぇ、むしろ大忙しだったんじゃないですか先生、そう嘆息して訊いたら、沢木は愉快そうに苦笑した。

「そうだね。せーのと心を決めて書き始めて、この7年間ずっとそれ以外の仕事は基本的にはしてないわけだよ。彼の文章、彼のインタビュー、Googleアース。それらを駆使して、彼の旅をなぞって、見えていないものを発見していった。幻のようだったものが、だんだんまさに(天の)路としてつながっていったんだよ」

本書の見返しの部分には、東アジアからインドにかけての地図が印刷されている。表見返しのそれは地名の入ったただの地図だが、裏見返しのそれには、沢木が完成させてつないだ、西川一三の旅の長大なルートが赤い線で記されているのだ。「だからその赤い線は、僕も一緒に乗船しているというか。西川さんは最後に船に乗って日本にたどり着くわけですけど、やっと神戸に帰れたんです、僕自身も」

ひとりの人の人生を預かってしまった

沢木ほど創作へのストイックさで知られる大作家が、この旅人のために25年もの歳月を結実させて、原稿用紙930枚の著者史上最長となるノンフィクションを著したのはなぜか。この旅人には一体何があるのか。沢木はゆっくりと言葉を探すようにして答えた。「1つ思い至ったのはね、僕はひとりの人の人生を預かっていたってことです」

「インタビューの1年間ずっと付き合っていて、中断して、その間ずっと彼については書きたいという気持ちと、書かなくてはいけないという気持ちが混じり合っていた。それはもしかしたら、彼の人生を半分預かっていたっていう感じがあって。彼が死んでしまった時に、それがズーンとまるごとのしかかってきた。死によって、西川さんはその人生を完結してしまったわけですよね。僕はひとりの人を預かったうえに、彼の生涯にたった1つの作品である『秘境西域八年の潜行』の生原稿も預かっちゃったわけですよ」

その生原稿は壁一帯を占領したほどの、凄まじい量だったのだという。


(撮影:梅谷秀司)

「本当に恐ろしいほどの量。本箱を横に3段にして積み重ねて、それで入るぐらい。それを毎日見てるわけだからさ。毎日見て、何年も書き上げられなくて、試行錯誤して、せーのってもう1回やり始めて7年、心理的に彼と過ごしたインタビューの1年を含めて、彼の人生を預かってたんだなって、今思うわけ。それはある種の義務感と使命感だけでは説明し尽くせないものなんだけれど、でも、そのうちの何割かは彼の人生を、ここにこういう人がいたことを、世の中に指し示したい、提示する協力をしたいという思いだったんです」

「だから書き終えた今、預かっていた人生を世の中に返したという感じがするんで、すごく気が楽なんですよ。やっぱりどこかで縛られてたんですよね、完成させるまで。だけど完全に自由になった。もう東南アジアの旅行にだって行けるもんねっていう、そういう感じ」

このずっしりと分厚い『天路の旅人』、沢木は第7稿ほどまで書き直したのだというから、その熱量たるや。執筆の道程では、初めから書き直すというレベルの試行錯誤が三度も続いたという。「自分で言っちゃうけど、ほんとにえらい。みんなにも、よくこんなに根気が続いたねって言われるよ」。”あの沢木耕太郎”がまるで弾けたように率直な解放感を表現してくれる姿が新鮮で、なんだか聞いているこちらもうれしくなってしまうほどである。

「僕は本当にまったくの家内工業なわけですよ、
あらゆる作品がね」

「僕の場合は、最初から最後へ書いていく書き方ではないんです。書き始めたのは、彼の旅が始まる、雪の中駱駝を引いてトクミン廟を出発するところ。でも旅程の順を追っては書けないんですよ。例えば今月はここ、だけど次のところは生原稿の情報が欠けていて執筆が困難になってしまったということで、その次へ飛んだり、それがだんだんつながってきて。だけど根本的な問題で言えば、書き始めた7年前から、何度も文体のスタイルが変わっていったんです」

「3分の2ぐらいまで行って、やっぱりこのスタイルではないというので、スタイルを変えてもう1回やり直して。そして、それでもないと思って、だからこの本になっているのは3つ目のスタイルですね。結局これは何のてらいもない、最も平凡なスタイルに落ち着いたんです。ごく普通の、どこにでもある……スタイルじゃないスタイル。僕にとってはわりと珍しいスタイルで書いてるっていうことなんですね」

西川の軌跡を追った旅路の部分は、事実を記していくためにオーソドックスな書き方に落ち着いたということらしい。沢木らしい、随筆の味わい深く流れるような文体は、この本の序章と終章の部分に大いに発揮されており、その切り替えもまたファンにはたまらない仕上がりとなっている。だがなにせ、資料を読み込みながら事実をつき合わせて正しく書き記していくことへのエネルギーが凄まじい。

「僕は、本当にまったくの家内工業なわけですよ、あらゆる作品がね。仕事で人に何かを頼むことはほとんどない。だって自分でやらなきゃわからないからね。例えば電話がかかってきたから出ると『秘書の方はいないんですか?』なんてびっくりされるけど、そんな秘書だなんて、他人に仕事部屋に居てもらっちゃ困る。せっかく1人でいられる場所を確保してるのに、鬱陶しいじゃないですか」

「自分が遭遇したテーマと付き合って、あるものは1年でできるかもしれないし、あるものは20年かかるかもしれないけど、それはそれで全然いいわけよね。1人で責任を持って1人で楽しんでるわけだから。だから例えば取材が、データマンの責任で誤解が生じてしまったなんていうようなことは僕にはありえないんで。何か問題を起こしたとすれば、それは僕がいけないだけの話だよね」

かつてのインタビューで、沢木は「旅も人生も1人がいい」と語ってくれた。人間とは、自立し自己完結したひとであったほうが旅も人生も深まり、楽しいものなのだと。執筆は壮絶な作業だったに違いないのだが、それでも発するものは悲壮感などでなく、やり遂げた達成感と、天の抜けるような解放感であるのは、やはりこれが沢木耕太郎という作家なのだと思う。

父に似た人

沢木が「この希有な旅人のことをどうしても書きたい」と、西川一三に”執着”のような関心を抱いたのには、もしかして同じ旅人としての魂の邂逅のようなものがあったのだろうか。

「西川さんも僕も、お互い家族はいても、どこかやっぱり1人で完結する部分をわりと多く持っている。全部じゃないけどね。その意味では、西川さんも僕もわりと近いものがある。ただそれよりも『無名』っていう本に書いたんですけども、僕の父は普通の市井の人で、比較的貧しい生活をしていて、1日1合のお酒と1冊の本があればそれで満足というような人だったんです。家族には優しい人ではあったけど、経済能力はあまりない。だけれど、僕らの家族は父の生涯を尊敬していたと思うのね」

「西川さんも商店主として生きて、お昼はカップヌードル1杯とおにぎり2つを食べて、仕事が終わると居酒屋で2合のお酒を飲んで、自転車で家に帰ってテレビを見たり新聞を読んだりして、そして眠るという日々を何十年も続けたわけよね。そこのありようっていうのが、どこか西川さんと僕とって言うより、僕の父と近いものを感じるんですよ」

「西川さんは実は若い時にこんなことを成し遂げているんだよって。だけどそれを人に大声で説明するでもなく、淡々と生きた。人生に多くを求めず、あるもので満足して、日々を過ごして静かに死んでいくっていう、それを絶対不満と思ってなかったと思う。そういう生のあり方、多くを求めない、何か完結した人生っていうものに対する敬意はありますね」

なんでも欲しがり手に入れて、路上で店を広げて見せるのとは真逆の生き方。身仕舞いの良さ、潔さのようなものが、彼らには通底している。

「西川さんには、旅が2つあったわけです。1つは密偵としての旅。もう1つは、敗戦を知ったチベットのラサから始まった、それとは別の自由な旅。国からの援助もなくなり無一文となったけれど、彼が使命や国から解き放たれて、徐々に自由になっていく旅なわけですよね。その中で語学という言葉を獲得し、人との関わりを獲得し、働いて食べ物を獲得していく。それは僕に言わせると極めて純度の高い旅だったと思うんですね。何もない。何もないから、人間として本当に必要なものを手に入れていく」

「少なくとも西川さんは、そういう純度の高い旅をした3、4年の日々があったために、あのように淡々と静かな生き方になったんだろうと。そういう輝きを経験した人にとっては、それがいちばん心地良いことだったと。僕も『深夜特急』で比較的貧しい旅をしていて、西川さんほどの純度の高い旅ではなかったけれど、やっぱりあれもこれも欲しいっていうようなタイプの人間にはならなかった。比較的、モノからは自由になれたと思う」

沢木は、「純度」という言葉を用いて戦時下の西川の貧しい旅を表現した。そしてそれを「輝き」と呼んだ。

本にまとめることで体から抜け出る

だがそんな沢木も、『深夜特急』後に純度の高い旅が自分から抜け出ていったような感触を持ったことがあったのだそうだ。

「やっぱり本にまとめることで、生々しい記憶であるとか、感情みたいなものが体から抜け出るんです。僕はそうだったからね。『深夜特急』でも、その後いろいろ『深夜特急』についてインタビューされても、ほとんど答えようがないっていうか、もう全部書いちゃった気がするのね。向こうが本の中にない新しいエピソードを欲してるってことはわかっても、やっぱりそれは出てこないっていうか、もうあの旅は『深夜特急』というものに対象化したと同時に、僕の内部から抜け出てしまって、すごくなんか弱々しいものになってるわけですよね。どんどん、どんどん遠くなっていくので、西川さんもそうだったろうと思うんです、それは間違いなく」

「でもね、僕もいろいろ調べたけれど、西川さんは自分の本をほとんど読み返してないと思うのね。もう旅を終えた彼にとって、自分の残した記録というものはほとんど重要なことではなかったんじゃないかな。もちろん出版したいとは思ったでしょう。だから努力したと思う。あの旅の続きをしたいと思ったでしょう。だからそのための努力もしたと思う。だけど、やっぱりある時、あの旅の続きはないってことがわかったんじゃないか。あの出版も途中で、出なきゃ出ないでいいと思ったんだと、僕は思う。だけど偶然のことから出版ができるようになって、それはとってもうれしいことだったとも思う。だからといって、過去の記録の出版は西川さんの人生にとって、それほど重要なことではなかったんじゃないかと。そういうありようが、かっこいいじゃない」

あとから思い返して弄んだり誇ったりという発想とは程遠い、その一瞬の純度、一瞬の輝き。確かにそういうありようが、かっこいい。どうだろう、それに比して、われわれの人生は随分と濁っちゃいないだろうか。

あれがあったから、書くことを諦めなかった

沢木は、西川との直接のインタビューの中で、お互いのインドでの旅の記憶が交差した瞬間を忘れることができないと言った。沢木も西川も、ブッダガヤの菩提樹の同じ大木の下で、太鼓を叩く男の姿を覚えていた。時期的には30年の差があるから、同じ男かはわからない。ただ状況を考えれば、その可能性は低くない。


(撮影:梅谷秀司)

「だから僕は、諦めなかったんだと思う。そのことの衝撃というか、驚きがあったので、長い年月が流れても心に残って、いつかはやっぱり書きたいと思い続けていた。もしかしたら同じ人を何十年かの差で、同じ場所で旅をしている僕と、旅をしていた西川さんが見たかもしれないっていうことは、ある種の幻想、イマージュみたいなものだね。西川さんも途中で旅を辞めざるをえなくて日本に戻ってくるし、僕もロンドンからドイツやなんかフラフラして、ロシアを経由して日本に戻ってくるけれど、何か西川さんはあのまま背負子を背負って旅をしているような。僕も同じようにユーラシアを、バックパックを担いで旅を続けているような。なんか、若い西川さんと若い僕、2人はあのユーラシアをまだ旅をしているかもしれないっていう、本当にわずかな幻想に近い感じを持ってることも、書くことを諦めなかった1つの理由でもあると思うんだよ」


沢木は、『深夜特急』の頃の自分の分身がまだユーラシアを歩いているような、歩いていてもいいような、そんな感じを抱いているのだと言った。「あの時代に戻りたいとかじゃなくて、ただ単純に僕らのような若者が、その分身が、まだあの辺りを歩いて旅を続けていてくれるっていうことに、何かある種の安堵感というか、喜びは感じたりするね」

旅は人生だというのが、沢木の教えだ。西川一三のような、沢木耕太郎のような、旅する魂を共有する「僕らのような若者が」、今もユーラシア大陸を、天の路を行く。沢木は笑った。「西川一三の思いをちゃんと背負って、ちゃんとそれに従えているかはわからないけれど、この本を書いた。それはあとがきにも書いたとおり、この本をまた読む人がいたら、旅の海図のようなものになってくれればいいと思ったんだ。だけど海図にしちゃ、厚すぎるよな(笑)」

(河崎 環 : フリーライター、コラムニスト)