認知症の92歳の母を遠距離介護しながら働き続けてきた50代女性役員は「60代になっても70代になってもこの仕事を続けていきたい」と屈託なく言う。30代で見つけた“一生の仕事”の魅力とは――(後編)。
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■3年間の修行期間

北沢由梨さん(仮名)の大きな転機は、求人広告を頼りに単身、イギリスに渡ったことだ。

「短大を卒業してから10年以上、日本の旅行会社に勤めていたのですが、『なんで、この人が』と思う人が昇級して悔しい思いがあって、このままここにいては悔しい思いを何回もするだろうなと思って、いったん、環境を変えたところに身を置きたいとイギリスに行きました」

日系の旅行会社の現地法人に勤め、ツアーオペレーターの業務に就いた。英語はもともと好きで、中学生からNHKのラジオ英語を聴いていたので何とかなると思ったが、完全にその見通しは甘かった。そもそも環境を変えると異国に渡ったものの、仕事はただ使われるだけ、日本で携わってきた延長でしかない。ただし、その企業で3年間のワークパーミット(労働許可証)を得られたため、この3年は語学習得と実務スキルを上げるための「修行」期間なのだと捉え直した。

■同僚と交際1カ月のスピード婚

しかしこの会社で、北沢さんには思いがけないサプライズが待っていた。それが結婚だ。同僚の年上の日本人。二人は出会いから1カ月で入籍という、まさかのスピード婚を果たす。

「親もびっくりですよ。私、同棲とか嫌で、経験として結婚するのかもいいのかなと思い、相手も自分も同時に帰省していた時に入籍してしまいました。ダメならダメで、しょうがないと」

なんという、思い切りの良さだろう。失敗だったら、自分の判断ミスだとキッパリと受け入れるすがすがしさを北沢さんは持つ。

結局、この結婚が今に至るまで、北沢さんの仕事や介護など人生の全てを支えることとなった。

「最初から、私の方が稼ぎ頭という関係でした。私はそれでいいと思っていて、主人も引け目を感じることもなかったです。主人は独身が長かったので家事はすごくマメで、私が手を出さない方がいいくらい。当時はもう結婚しないと思っていましたから、よく見つけてくれたって私には恩義しかないです」

以来、「お互いの味方はお互いだけだね」と言いながら、けんからしいけんかをしたことがない仲睦まじい結婚生活を送っている。

■一生の仕事に出会う

夫は、イギリスでの永住権を取得していた。北沢さんは結婚と同時に永住権に切り替えることで、転職が可能となり、ここで一生の仕事となる、アシスタンス業に出会う。海外で病気やけがをした際、安心して医療サービスを受けられるようさまざまなサービスを提供したり、海外旅行をより楽しめるようレストランの予約や買い物支援などのコンシェルジェサービスを提供したりするなど、解決の手助けを行うのが、アシスタンスの業務だ。

「最初はカード会社の子会社かなと思い、面接に行ったんです。入社してから、世の中にはこういう仕組みがあったんだなと、どんどんわかっていく、そんな感じでした」

北沢さんに求められたのはスーパーバイザーという業務、これは「使われるだけ」の立場ではない。ここで初めて、管理的な立場で働くようになった。さらに、マネジャーになることが求められた。

「マネジャーになるには試験があるのですが、『明日、受ける?』と唐突に言われ、もう全然ダメ。そこで敗因をきちんと分析して雇用法のトレーニングも受け、どうアプローチすればいいのかがわかってきて、2回目の試験に合格して、晴れてマネジャーになりました」

多国籍の人が働く場で、さまざまな国の案件を扱う中、北沢さんはそれぞれの国の文化や民俗などの違いを踏まえた上で、フェアに対応していくことの大切さを学ぶ。

ここでの経験が、日本に戻ってから、非常に生きた。若干、日本流の味付けも必要だが、基本はここで身に付けたものだ。

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■この仕事の認知度を上げていきたい

北沢さんが入社した会社は東京に本社があった。前社長は当時、イギリス支店にも頻繁に訪れ、北沢さんに「日本に戻ったら、東京本社に来てほしい」と声をかけてくれていた。

結婚から約10年後に北沢さんの父が他界し、母が一人になることもあり、夫婦で日本に戻ることにした。北沢さんは40代半ばになっていた。北沢さんは母親の近くで働くことも考えたが、同じ仕事を続けたい思いで東京本社に勤務することとなった。

東京本社においても、北沢さんの仕事に懸ける思いは変わらない。アシスタンスという仕事が持つ社会貢献性の高さを、もっと社会に知ってもらいたいと常に思う日々だ。

「困った人がいたら、親を扱うように扱え」
「民間の大使館になりたい」

前社長の言葉は、今も胸にしっかりと残る。

「私たちの仕事で一番重い事例は、お客様が重篤で自力で日本に帰ることができない場合です。飛行機で、人工呼吸器を外せないケースもあります。チャーター機を手配したり、フライングナースをアレンジしたり、気が抜けないことの連続です。ある方は帰国して、2週間ぐらいでお亡くなりになって、そんなときはやっぱり日本に帰らせてあげられてよかったなと思いますね」

■一つとして同じパターンはない

北沢さんは2011年、東日本大震災の直前の2月に、ニュージーランドで起きた大地震に言及した。

「あの時は留学生や旅行者が、大勢犠牲になりました。本当だったら電話で遠隔で采配するのですが、この時はさすがに行かないと無理だろうと、うちから人を現地に派遣して、大使館の方と一緒になって対応しました。ご家族、ご遺族のお世話もあるし、報道陣への対応もあるし、メンタルケアも考えないといけない。本当だったら、そこまでやらないのですが、『究極のところまでやったよね』と、古いスタッフはそのことを、一つの記念碑のように誇りに思っています」

大きいものも小さいものも、過去に対応した記録はちゃんと残されている。今でも北沢さんは過去の記録を見れば、「あの時、本当に大変だった。みんなで泣いたよ」と思い出し、涙がこぼれる。

「同じパターンは一つもありません。その時、その時、社員それぞれみんな、言うに言えないドラマがあって……」

北沢さんたちは日本から出ていく人だけでなく、日本にやってくる外国人にも対応する。

「外国の方が日本に来て、けがなどをした場合、言葉の問題がありますので、治療や入院手続きの世話をしたり、海外の保険に入っている方には支払い手続きのサポートをしたりします」

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■最もパワーを使うのは1対1の面談

部下の多くは女性だが、部下で苦労した記憶はあまりない。最もパワーを使うのは、1対1の面談だ。

「部下が顧客とトラブルを起こしたときは、最後は私が引き受けてお詫びに行きますが、その都度、時間をとって事態を省みる面談をします。部下ごとの性分もあるし、お尻を押してあげた方が動く人なのか、勝ち気で鼻を引っ張った方が動く人なのかは見てあげないといけない。仕事に関係ないことでも悩みを抱えているようだったら、ちょっと近くをうろうろしてみるとか、何か言いたそうな時にそばにいる距離感を大事にしています」

■60代、70代になっても働き続けたい

もうすぐ60代、北沢さんの描くプランには大きな目標がある。この仕事の認知度を上げるとともに、70代になっても仕事を続けたいと考えているのだ。

もちろん、これは北沢さんが感じている「八方塞がり」の思いとも無縁ではない。

「主人の年金はそれほどないし、私が倒れたら主人も共倒れ、母の介護もできなくなる。ただ、収入のためだけではありません。アシスタンスという仕事は、やはり人が絡む仕事、AIやシステムがあればできる仕事ではありません。社業はコロナ禍の厳しい洗礼を受けていますが、自分で選んだ仕事ですし、会社のルーツを大切に、次の世代に引き渡すためにも長く続けていきたいなって思います」

そこには70代後半で、非常勤勤務に就く大先輩の姿がある。

「皆さん、頭が冴えてはつらつとして。私も頭が働く限り、仕事を続けたいと思いますね」

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黒川 祥子(くろかわ・しょうこ)
ノンフィクション作家
福島県生まれ。ノンフィクション作家。東京女子大卒。2013年、『誕生日を知らない女の子 虐待――その後の子どもたち』(集英社)で、第11 回開高健ノンフィクション賞を受賞。このほか『8050問題 中高年ひきこもり、7つの家族の再生物語』(集英社)、『県立!再チャレンジ高校』(講談社現代新書)、『シングルマザー、その後』(集英社新書)などがある。
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(ノンフィクション作家 黒川 祥子)