Jリーグは今年、発足から30周年を迎えた。2014年にチェアマンに就任し4期8年務めた村井満さんは、任期最終年の2021年に毎週1枚の色紙を用意して、朝礼を開いた。34節34枚の色紙の狙いを、ジャーナリストの大西康之さんが聞く――。(第4回)
撮影=奥谷仁

■「ぜひ伝えたいことがある」と言われて会ったら…

--「Jの金言」シリーズ第1弾もいよいよ佳境に入ります。今回は村井さんが5月15日「Jリーグの日」の直前に話された「シャレン!こそJリーグ」。シャレン!とは社会連携の意味。で、シャレン!といえば、2018年に「Jリーグを使おう!」の企画で注目されたJリーグ理事(2020年に退任)の米田惠美さんが有名です。

【村井】米田さんの話に行く前に前段がありまして。話は2016年の9月に遡ります。この日、私は「スポーツナビ」の企画で中村憲剛選手(元日本代表、川崎フロンターレ)と対談しました。憲剛選手のほうから「チェアマンにぜひ伝えたいことがある」ということで、私は「ずいぶん突然だね」くらいに、のんきに構えていました。

--いきなり先制パンチを喰らったみたいですね。

【連載】「Jの金言」はこちら

【村井】そうなんです。憲剛選手のいる川崎フロンターレが地元で子供たちと算数ドリルをやったり、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の人を呼んでイベントをやったりしているのは知っていましたから、「フロンターレは頑張ってるよね」とか言っていたら、憲剛選手にこう言われたのです。

「誤解を恐れずに言うと、Jリーグの努力は甘いと思うんですよね」と。

■海外経験ゼロで超一流になった「申し子」

--一選手がチェアマンに。それはまた強烈な。

【村井】一選手と言っても、憲剛選手は「Jリーグの申し子」みたいなところがあるんです。猫背で痩せていて。子供の頃は年代別の日本代表に選ばれるような選手ではなく、地元の高校から中央大学に進みます。憲剛選手が3年のとき、中央大学は関東大学リーグの二部に降格。主将を務めた4年生で二部優勝して一部昇格を決めています。

2003年、J2の川崎フロンターレに入団して、その後は海外に行くこともなく川崎一筋。2006年にイビチャ・オシム監督の日本代表に呼ばれ、2016年に最年長の36歳でJリーグの年間最優秀選手に輝いています。海外に行かなくても超一流になれることを示した選手といえます。

■強豪にしただけでなく、川崎の街ごと変えてしまった

【村井】憲剛選手がすごいのはフロンターレをJ1の強豪に押し上げると同時に、川崎の街を変えてしまったことです。

憲剛選手が入団した頃のフロンターレは年間の平均入場者数が3000人くらいのチームでしたが、コロナ前には2万6000人が詰めかける人気チームになっていた。東京と横浜のベッドタウンで、スポーツ不毛の地と呼ばれた川崎市は、サッカーで輝いた。その根底には憲剛選手たちがやってきた地道なホームタウン活動があったんです。対談で憲剛選手は地域貢献活動について、こうも言いました。

「Jリーグは一応やってはいるものの、非常に形式的なことに終始しているように見えるんです。生意気ながら、本気で体を張ってホームタウン活動をしている僕らの側からすれば、Jリーグがもっとアイデアを出してくれればと思うんですよね」と。

■強烈なパンチを喰らって目が覚めた

--実際にやってきた人の言葉だけにキツイ。

【村井】Jリーグ規約の21条には「Jリーグに入会するクラブはホームタウンを定めなければならない」とあって、その2項には「ホームタウンでは社会貢献活動をしなくてはならない」と書いてある。そんなことをちゃんと決めている競技団体というのは世界にも例がないくらい画期的なものなんです。

でも2014年にチェアマンになった私は就任直後からいろんなことがドタバタとあって、自分の中でこの「社会貢献活動」の軸が定まっていませんでした。すでにJクラブ全体では年間2万件の社会貢献活動をしていましたから、ひとクラブに換算すると年間400回にも及ぶ地域活動をしていることになる。Jクラブは毎日のように街に出て活動をしていることになるのです。

正直に言うと「Jリーグにできることにも限度がある」とぼんやり考えていた時期だった。強烈なパンチを喰らい、目が覚める思いでした。

■「ああ俺は何をやってるんだろう」

--そこをズバッと突いてくる憲剛選手も、かなりのものですね。

撮影=奥谷仁

【村井】最初に思ったのは「彼は自分自身のドライバーズシートに座ってるな」ということです。私はチェアマンになってから、いろんな人にああ言われ、こう言われて右往左往しているようで、自分で自分のハンドルを握っているような感覚があまりありませんでした。

一方で憲剛選手たちには「チェアマンやリーグに言われようが言われまいが、俺たちはこうやるよ」っていう、自分の人生とか社会とかに対する強烈なオーナーシップを感じたんですよね。それが羨ましくもあり、「ああ俺は何をやってるんだろう」と思いました。

--村井さんがいたリクルートにも「圧倒的当事者意識」という言葉がありますよね。創業者の江副浩正さんは会社や上司の不満を言っている社員を捕まえては「何が気に入らないの?」と聞き、社員が不満をぶちまけると「じゃあ、君はどうしたいの?」と聞きました。「あそこはこうすればいい。ここはこうすべきだ」と社員は思いの丈を語ります。しばらくすると江副さんはこう言うんですね。

「じゃあ予算と人をつけるから、それ君がやってよ」

社員はびっくりしますが「だって君の言う通りなんだから」と江副さんは任せてしまう。評論家を当事者に変える江副マジックの一つです。

■批評より提案、評論より行動である

【村井】批判より提案、評論より行動です。やはり自分の人生は自分のオーナーシップ、自分のドライバーズシートに座って、事故に遭うかもしれないけれど自分でハンドルを動かしていくことが大事だな、と思います。やれば何か言われるかもしれないけど、まずやってみる。憲剛選手の一言で、その気持ちを思い出しました。

それで社会課題解決に向けてチャレンジしている人や地域創生に取り組んでいる人々に出会っていきました。その中で縁があったのが米田惠美さんです。リクルート時代から面識はありましたが、単なる会計士、経営コンサルというよりも社会課題を知るために自ら保育士の資格を取得したり、在宅診療所にも従事したりする現場目線を大事にする実践家でした。

■人々が地域を好きになるためにJリーグを使ってもらう

--慶應義塾大学の在学中に公認会計士の資格を取り、大手会計監査事務所のアーンスト・アンド・ヤング(EY)を経て、組織開発コンサルティングの「知惠屋」の副社長だった方ですね。

【村井】そしてJリーグフェローの契約を締結、次の年の2018年に理事になってもらいました。ガバナンス含む組織改革に加えてホームタウン活動・社会連携活動の領域をお願いしました。

彼女は「シャレン!」という言葉を生み出し、「クラブも自分たちだけで頑張ろうとしないで社会から色々アドバイスをもらおう」「街の人にオーナーシップを持ってもらうことが大事」「Jリーグに関わりたいと思ってもらうためにはどうしたらよいか」と話し合い、「Jリーグをつかおう」というコンセプトに至りました。

“Jリーグが”社会に貢献するというスタイルから、“地域の人たちが”に主語を転換し、Jリーグを使えるように自らを変えていこうというものです。連携して活動を共にし、地域社会を豊かにし、結果としてクラブが地域になくてはならない存在になる。そこを目指しました。

■サッカーは手段の一つでしかない

--アウェーのスタジアムで福島の子供たちのマーチングバンドが演奏を披露する復興支援や、障害者の就労体験の場としてスタジアムを利用する試み、地域の介護予防や防災活動にクラブを活用する、などさまざまな活動を加速させたいということだったのでしょうか。

撮影=奥谷仁

【村井】憲剛選手に「クラブ任せにしないで、Jリーグがしっかりしてください」と言われてから2年かかりましたが、自分の中では彼との約束が果たせたのかな、と思っています。Jリーグ25周年の記念イベントで「シャレン!」コンセプトのお披露目をしたのですが、その場に憲剛選手にも来てもらいました。サッカーは手段の一つで、本当の目的は日本の社会をどうやって豊かにできるか。スポーツで豊かな国にすることができるかです。

まあ、あまり堅苦しく考えることはなくて、簡単なことからできることで自分らしい行動をとってもらえればいいんだと思います。

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大西 康之(おおにし・やすゆき)
ジャーナリスト
1965年生まれ。愛知県出身。88年早稲田大学法学部卒業、日本経済新聞社入社。98年欧州総局、編集委員、日経ビジネス編集委員などを経て2016年独立。著書に『東芝 原子力敗戦』ほか。
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(ジャーナリスト 大西 康之)