トップアスリートの暴力問題や女性問題がたびたび報じられるのはなぜなのか。元ラグビー日本代表で、神戸親和女子大学教授の平尾剛さんは「アスリートは競技の勝利でしか承認欲求を満たすことができない。だが勝利は全能感を植えつける麻薬であり、いつしか『己は特別な存在だ』という勘違いを生む」という――。

■巨人・坂本選手のようなアスリートのスキャンダル

巨人・坂本勇人選手が起こした女性問題の余波が続いている。坂本氏の女性スキャンダルは過去にも報じられ、いまに始まったわけではない。だが「文春オンライン」が公開したLINEでのやり取りや録音された肉声のあまりの生々しさに、社会は嫌悪感をあらわにした。品格を疑うどころか社会通念を著しく逸脱するその言動に、拒絶反応を示したといっていい。

イニング間にキャッチボールする巨人の坂本勇人=2022年9月20日、東京ドーム(写真=時事通信フォト)

にもかかわらず球団からはおとがめもなく、坂本氏本人もなんのリアクションも取っていない。テレビ局をはじめとするマスメディアもいつからか報じなくなった。同じく「文春オンライン」は、「文春に出てた巨人坂本選手のネタ、取り扱いNGです。巨人からこれを扱ったら、長嶋さん関連の情報を渡さないとなっているそうです……」というメッセージが、とあるバラエティー番組でスタッフ全員が共有するグループチャットに流れたことを明らかにした。球団側による直接的な圧力ではなくメディア側の忖度(そんたく)が働いているとは、なんとも薄気味悪い。

報道の自由を放棄するメディアの姿勢、あるいは巨人がいまだに特別扱いされ続ける理由など、この一連の動きには批判したい点がいくつもある。だが今回は、「社会通念から逸脱したスポーツ選手が生まれる構造的な理由」について取り上げたい。

■一部のアスリートの常識の外れ方が大きすぎる

坂本氏のみならずプロ野球選手のスキャンダルは数知れず、また他のスポーツにおいても然るべき常識を身に付けていないアスリートは散見される。大多数が真っ当であることは理解しながらも、一部における常識の外れ方が大きすぎて到底看過できない。

また先の東京五輪でほとんどの現・元アスリートが社会に向けて発言をせずダンマリを決め込んだ。この事実からは、全体の傾向としてアスリートには社会性の欠如という性向があると見立ててよい。程度の違いはあるにしてもアスリートは社会通念との小さくないズレを抱え込んでいる。かつてを振り返れば私にもあったこのズレは(いまもあるかもしれないが)、どのようにして生じるのか。

生来の性格など個人の資質に起因する部分は、もちろんある。だが、全体の傾向として見られる以上、その主因はスポーツを取り巻く環境の方にあると考えざるを得ない。つまり、アスリートに固有の非常識さと非社会性は構造的に生み出されている。

■スポーツ推薦で進学するアスリートの「落とし穴」

以前、少年犯罪を主に扱う弁護士から「なぜスポーツ推薦で進学した者がいとも簡単に身を持ち崩し、違法行為に及ぶまで落ちぶれるのか」と相談を受けたことがある。

彼女によると、非行に走る高校生にはスポーツ推薦で進学した者が多く含まれるという。けがで戦線を離脱し、復帰後も以前のようなプレーができないもどかしさや、レギュラー争いに敗れての失意――。彼らはスポーツを通じて心身を鍛えているはずなのに、それらに耐え切れずに退部し、場合によっては退学にまで至る。この落差がどうしても理解できないのだという。

私はスポーツ推薦での進学を経験していないが、元アスリートとして想像すれば十分にありうる話だと思われる。

スポーツ推薦を受けられる生徒は当然のことながら競技力が高く、試合に勝ち続けてきた経験を持つ。勝てば褒められ、認められる。心身共に不安定な成長期にその養分となる承認欲求を勝利で満たし、それを積み上げることによって彼らは自我を確立してきた。

写真=iStock.com/matimix
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■「条件付きの承認」でしか自我を確立できない

だが、勝利すればという「条件付きの承認」によって築かれた自我は脆い。条件が満たされなければすぐに崩れてしまうからである。

本来、成長期にある子供は、自らの存在を条件なしでそのまま肯定される経験を積み重ねながら、時間をかけて自我を築くものだ。家では家事を手伝い、学校では勉学に励み、習い事や部活動では友達同士で切磋琢磨(せっさたくま)しながら、自我の輪郭を描く。手助けして他者の力になれたという実感を手繰り寄せ、時に他者との比較において優劣を確認しながら、子供は成長していく。

この成長プロセスには失敗も付きまとう。いや、むしろ失敗だらけである。

善かれと思って取った言動が望む結果につながらなかった、努力しても報われなかったなど、小さな挫折を繰り返す。大人の励ましを受けながら紆余(うよ)曲折を経て大人へと続く階段を上ってゆく。だからこの時期の子供に必要なのは、失敗や挫折を含んだ「無条件の承認」である。山あり谷ありの成長期にある子供は、「安心して失敗できる環境」が必要となるのである。

■「勝負の厳しさ」を子供に背負わせるのは重過ぎる

勝てば認められるというのは、裏を返せば「負ければ認められない」ということである。ここには失敗すれば承認を失うことへの焦燥が生まれる。この焦燥には、自分の存在が揺さぶられるかもしれないという切実さが込められている。つまり条件付きの承認は、安心どころか不安を、それも生の実存を脅かすほどの不安を子供にもたらす。

勝てば認められ、負ければ認められないという「勝負の厳しさ」は、競争を本質とするスポーツに内在する論理である。スポーツをする以上は避けて通れないのはよくわかっている。

ただこの厳しさは大人だから折り合えるのであって、心身共に成長期にある子供には荷が重い。幼い頃から一つのスポーツに打ち込んできて(あるいは打ち込まされてきて)、競争をけしかけられてきた子供は、それ以外に承認欲求を満たす術に乏しい。生きる実感を得る唯一の手段がスポーツであるとしたら、しかもそこで得られるのが条件付きの承認であるとすれば、それはあまりに過酷である。

子供にとって勝つか負けるかという勝負は、自我の確立がかかった死活問題である。勝って安堵(あんど)し、負ければ悲壮に打ちひしがれる。付加価値でしかない勝利を当然の結果として受け止め、敗北すれば自我が欠落するほどの喪失感をともなう心境は、想像するだけでつらい。得るためではなく失わないための競争なのだから、負けが続けば、いや、たった一度の負けでさえ、途端にその支えを失って自分を持ち崩すことになるのは必然的な帰結である。

■子供を狂わせる「勝利」という麻薬

勝利とはある種の麻薬である。勝利はこの上ない恍惚(こうこつ)をもたらすからだ。

スタジアム全体に歓喜が渦巻き、観客からの賞賛を全身に浴びた時の興奮と、日々の努力が報われたような達成感は、なにものにも代え難い。悔しさを押し殺すべく複雑な表情を浮かべる対戦相手を見れば、優越感も湧く。全身の細胞が活性化し、体の隅々にまで力が漲るようなあの感じは確実に癖になる。

この恍惚もまた、子供を狂わせるものの一つである。

まだ未熟な子供たちの日常には、禁止や当為が張り巡らされている。してはいけないことやすべきことに縛られた日常を過ごすなかで、早く大人になりたい、早く自由を手にしたいと望むのが子供である。そんな窮屈な日常から、たとえ一時的ではあっても勝てば解放される。周囲から手放しで賞賛され、一人前の大人として認められたような感覚に陥る。一足飛びで大人になったようなこの感じは、達成感や優越感はもとより人生の舞台が好転したかのような高揚感を子供にもたらす。

■「自分は全能だ」という勘違いを生むプロセス

大人に近付いた。この実感が子供には更なる成長を促す。そう考える私たちは、だから勝利こそが子供に自信をつけ健やかな成長をもたらすと信じ込んでいる。

ただ勝利がもたらすこの自信は、たちまち容易に慢心へと変わる。

試合に勝ち、賞賛を浴び続ければ、自分はもう一人前なのだと勘違いする。もしそれを正す指導者や親がいなければ、勝負に勝つために身に付けたエゴイズムも後押しして、自分は常人とは異なる特別な人間だと思い込む。やがて少々なら社会通念を無視しても許されるとさえ考えるようになる。

こうなれば社会通念と自分の考えとのズレを修正する必要がなくなるし、むしろ社会通念からの逸脱は己が特別な人間であることの証左であると肯定的に解釈するようになる。

こうして「全能感」を獲得するに至る。勝利は、その取り扱い方を間違えれば「全能感」を植えつける麻薬になりえるのである。

写真=iStock.com/SIphotography
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■競技を取り上げられたら何も残らない自分に絶望する

スポーツ推薦生が非行に走るのは、この「全能感」がただの思い込みであったと気付き、スポーツを取り去れば空っぽに過ぎなかった自分を突き付けられたからである。また、一部のアスリートが著しく社会通念から逸脱する行為に至るのは、成長期に勝ち続けたことで「全能感」を内面化し、自分はなにをしても許される存在なのだと高をくくっているからだ。

いずれも自我が形成される大切な時期に、スポーツだけに取り組み、勝利だけを追い続けたからである。勉学も、友達や家族と過ごす時間も犠牲にして、練習に明け暮れたからである。

むろんこうしてスポーツをする子供全員が、慢心の果てにある「全能感」を内面化するわけではない。

■「自信」と「慢心」の境目を大人がしっかりと見極める

元メジャーリーガーの松井秀喜氏は高校時代の恩師から読書を勧められたという。また東海大仰星高校ラグビー部の湯浅大智監督は、勉強をして本を読み、映画も見て見聞を広めろと指導している。選手としてだけでなく人間としての成長をも促す大人が周りにいれば、「全能感」を内面化せずとも済む。

しかしながら競技力だけを高める、つまり勝利だけに固執する大人に囲まれた子供は「全能感」を追わざるを得なくなる。それを求めて脱落する、あるいはいざ手に入れても「スポーツバカ」になる。どちらにしても不幸な結末にたどり着くこの隘路(あいろ)は、指導者や親などの子供を取り巻く大人たちは理解しておかなければならない。

どこまでが自信でどこからが慢心か。それがやがて「全能感」へと肥大化するのはどこからか。その境界を見定めることは容易ではない。だからといって諦めてはならない。見極めようとする姿勢を手放さずにじっくり観察するなかで「見極める目」を身に付けるしかない。

差し当たっていまの私たちにできることは、子供が行うスポーツを大人が行うプロスポーツと同じように捉えないことだろう。子供が行うスポーツでは勝敗が自我の形成に深く関わること、勝利が人を狂わせる麻薬にもなりうることを自覚して、節度を保っての指導や応援を心がける。せめて勝敗に一喜一憂しないでおくことくらいはすぐにでもできるはずだ。

個々人によるこうした心がけが、ひいてはスポーツ界全体の健全化につながる。そう私は考えている。時間はかかるかもしれない。それでもやるしかない。

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平尾 剛(ひらお・つよし)
神戸親和女子大教授
1975年、大阪府生まれ。専門はスポーツ教育学、身体論。元ラグビー日本代表。現在は、京都新聞、みんなのミシマガジンにてコラムを連載し、WOWOWで欧州6カ国対抗(シックス・ネーションズ)の解説者を務める。著書・監修に『合気道とラグビーを貫くもの』(朝日新書)、『ぼくらの身体修行論』(朝日文庫)、『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『たのしいうんどう』(朝日新聞出版)、『脱・筋トレ思考』(ミシマ社)がある。
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(神戸親和女子大教授 平尾 剛)