江戸時代の「鎖国」が導いた日本の高度経済成長
戦後の日本はなぜ高度経済成長を実現できたのか。江戸時代までさかのぼって探ります(写真:kattyan/PIXTA)
戦後日本は、なぜ高度経済成長を実現できたのか。手数料と物流という枠組みから世界史を捉えなおし、覇権国家の成立条件について論じた『手数料と物流の経済全史』を上梓した経済史研究者の玉木俊明氏が解き明かす。
高度経済成長と江戸時代からの遺産
経済はいったいどうして成長するのか。これをめぐって、歴史家のあいだでは大きな論争があった。
一つは、有名ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーがいったように、人々は禁欲し、勤勉な生活になったという主張である。もう一つはヴェーバーの論敵であるヴェルナー・ゾンバルトが主張したように、欲望の解放こそ、経済成長の原動力だという立場である。人々は贅沢な暮らしをするために働くというのである。
日本では、ヴェーバーの影響力が強かったため、禁欲的な勤勉性が現代の資本主義を生んだという主張がまだ多数派のように思われるが、この論の大きな問題点は、人々が禁欲したなら、商品は必需品を除いて購入せず、結果的に経済は成長しないという点にある。したがって、ヴェーバーではなくゾンバルトの意見こそが正しいといえる。
人々は、より豊かな生活を目指してたくさん働くようになったのである。それは、日本にも当てはまる。
コロンブスがアメリカを「発見」し、ヴァスコ・ダ・ガマがインドに到着した15世紀末において、ヨーロッパがアジアから輸入していた最大の商品は香辛料であった。しかし、ヨーロッパにおける香辛料の需要はなぜか大きく低下し、それに代わって輸入されるようになったのは茶であった。
ヨーロッパに流入したアジアと新世界の商品
18世紀には、インドから綿織物(インドキャラコ)の輸入が増え、ヨーロッパ各地でその需要は大きく拡大した。
ヨーロッパは、当初は奢侈品として新世界からは砂糖とコーヒーを輸入した。このどちらもアジアが原産であったが、ヨーロッパ諸国は新世界でこれらの商品を生産し、それをヨーロッパに輸入するシステムの構築に成功したのだ。
ヨーロッパは高緯度に位置し、その植生は貧しい。熱帯ないし亜熱帯地方での栽培に適した砂糖、コーヒー、紅茶は、当然ヨーロッパ内部で生産されるはずもなく、植民地から輸入された。ヨーロッパが帝国主義政策をとった理由の一端は、ここに見いだされる。
ヨーロッパ人は、このような舶来品を購入するために一生懸命に働いた。彼らは、海外から輸入される商品(舶来品)を購入し、生活水準を上昇させるために働いたのである。当初上流階級だけしか消費できなかったものが、だんだんと一般の人々の手に入るものになった。それは、ヨーロッパ全体の生活水準の上昇と、経済成長を意味した。
江戸時代の日本は、鎖国をしていた。「鎖国」というと完全に海外と断交したように思われるかもしれないが、実際には、当時の日本は完全に国を閉ざしたわけではなかった。日本は、当時のアジアでよく見られたような「海禁政策」、つまり民間の自由な貿易を禁じ、国家が貿易を管理する体制をとったのである。
日本は、長崎、対馬、薩摩、松前の「四つの口」を通じて海外とつながっており、幕府の管理下で貿易が行われていた。
17世紀の初め頃の日本は、中国から綿、砂糖、生糸、茶などを輸入しており、貿易収支は赤字であった。それを補填するため、日本は銀を輸出していた。17世紀前半の日本の銀産出高は、世界の三分の一を占めていたともいわれており、日本に大量の銀があるうちは問題なかったが、あまりに大量の銀が流出し、また国内の金山や銀山の産出量が大きく減少したため、国内で使用する銀が不足してしまった。そのため幕府は、金や銀の海外流出を完全にストップさせた。そのために日本経済は大転換を余儀なくされたのである。
日本の銀輸出量が減少し、海外からの輸入が難しくなると、日本は、中国から輸入されていた綿、砂糖、生糸、茶、さらに朝鮮から輸入されていた朝鮮人参を国内で生産せざるをえなくなり、すなわち、輸入代替産業が発展したのである。
江戸時代の日本の生活水準上昇
日本の気候はこれらの商品の栽培には適していなかったが、徐々に綿、砂糖、生糸、茶、朝鮮人参の国産化に成功していった。朝鮮人参の国産化により、朝鮮との貿易は大きく減少することになる。
日本は、ヨーロッパと比較するなら、生体的に豊かであった。日本がまがりなりにも鎖国をすることができたのは、そのためである。日本と帝国主義政策をとったヨーロッパとは異なり、鎖国をし、輸入代替産業を発展させたのだ。
そのため、日本社会は豊かになっていった。日本人は、より多くの消費財を購入するために一生懸命に働くようになった。
明治になると、綿と生糸は、日本の主要な輸出品になった。江戸時代、銀産出量減少に伴い、やむなく国産化に取り組んだことで、結果的に日本は重要な輸出品を獲得することができたのである。
しかしまだこの時点では、日本の経済成長は手工業で生産される消費財に基盤をおいたものであり、ヨーロッパのように蒸気を用いた機械によって消費財を大量に生産することはなかった。
19世紀末以降産業革命に成功した日本は、繊維産業を中心に経済を成長させていった。しかし欧米諸国、とくにアメリカと比較したなら、消費水準は依然として低かった。
具体的に言うなら、20世紀初頭にヘンリー・フォードによってアメリカで自動車の大量生産がはじまり、耐久消費財を基軸とする経済成長がはじまったのに対し、日本では、自動車はまだまだ一般の人々の手の届かない商品であった。
日本において、消費水準の高まりは戦後、とくに1950年代末から1970年代初頭にかけての、高度経済成長期のことであった。
日本の1945年8月の生産指数は、1935-37年を100とすると。8.7にすぎなかった。第二次世界大戦で、日本がいかに大きな被害を受けたのかがここからわかる。さらに、1934-36年の消費者物価指数を100とした場合、1949年第2四半期の物価指数は247.8となり、インフレも激しかった。
日本は、このような状況から立ち直り、高度経済成長を経験したのである。その大きなきっかけとなったのは、1950-53年の朝鮮戦争特需であった。1949年の輸出額が5億1000万ドルであったのが、1956年には25億100万ドルと、約4倍になった。鉱工業生産指数は、同時期に100から316に大きく増加した。
戦後の日本は、軍事に対する投資が大きく減り、その分を経済成長のために投資することができた。戦前から戦中にかけての日本の重工業の発展は、軍事産業と大きく結びついていた点で、戦後とは大きく異なる。
高度経済成長と耐久消費財
日本は世界史上稀に見るほどの高度経済成長を経験した。1955年頃から1973年頃までの年平均経済成長率は、約10パーセントであった。経済成長の大きな要因は、設備投資=第二次産業の進展と高い貯蓄率に求められよう。設備投資の費用を、海外から借りる必要はなく、国内の銀行からの借金(間接金融)で賄うことができたのである。おそらく他の後発国と比較するなら、外国からの借金をあまりせずに経済成長を成し遂げたのである。
輸出が拡大しただけではなく、日本国内においても、耐久消費財(洗濯機・電気冷蔵庫・テレビ・クーラー・自動車など)の需要が増え、日本人の生活は豊かになっていった。日本は、大衆消費社会となっていった。日本人は、生活水準の向上を目指して、一生懸命に働いたのだ。高度経済成長期には、たしかに第二次産業が大きく発展したが、その根底には、消費財を購入し、より豊かな生活がしたいという欲望が横たわっていたのである。
戦後の日本では軍事に対する投資が大きく減り、その分を経済成長のために投資することができた。石油の一滴は血の一滴と言われた戦前・戦中とは異なり、原油価格は大きく低下した。それは1970年頃まで1バレルあたり2ドルを下回るほど安かった。
また日本では若い労働力が多かったので、賃金は比較的少なくてすんだ。1ドル=360円の固定相場制のもと、日本の経済力が上昇して実質的には円がそれ以上に強くなっても、実質円安のため、輸出を増大させることができた。
農業労働者の数が減少し、工業労働力として重要な若い労働者が都会に出てきた。市部と郡部の人口比をみると、1945年には27.8対72.2だったのが、1980年には76.2対23.8と逆転する。日本は急速に都市化した社会となった。
また新規学卒就業者数をパーセンテージでみると、1955年は中学60パーセント、高校31.4パーセント、大学が8.6パーセントだったのが、1975年にはそれぞれ、6.1パーセント、58.6パーセント、35.4パーセントと、高校・大学卒の比率が急上昇する。そのため、比較的高度な技術や知識をもつ労働者の比率が増えた。金の卵と言われた中卒の労働者が、集団就職により都市で働いた。しかも、人口ピラミッドは三角形であり、給料が低い若年労働者が大量にいたことが、高度経済成長を支えた。このように、すべてがうまく循環していたのだ。
しかも日本経済は、1973年の第一次石油ショック、1978-79年の石油ショックも乗り越え、省資源型経済の実現に成功した。そのため1971年のニクソンショック、とくに1985年のプラザ合意以降円高が進んだにもかかわらず、輸出を伸ばすことができ、経済は成長することになった。日本経済成長の主要因は、第二次産業にあった。それは、高度経済成長の名残とみなすことができよう。
戦国時代への回帰か
高度経済成長とは消費財、とりわけ耐久消費財を人々が購入することで経済が成長した時代であったことはここで見た。
日本は、いうまでもなく、高度経済成長期に大きく輸出を増やした。しかしそのために必要な資金や労働者は、おおむね国内で賄うことができた。この点において、高度経済成長とは、江戸時代の経済制度の図式の一部を踏襲したということができるのである。
日本は国内だけではなく海外に工場を建設し、しかも国内にも外国人労働者がどんどんと入ってくるようになった。それは、新しい市場を求めて海外に日本人町を建設した戦国時代から江戸初期の姿に似ているといえるのかもしれない。
こういう観点から考えるなら、高度経済成長とは、じつは江戸時代初期に実行された鎖国というシステムの影響がまだ強く感じられたタイプの経済成長であったと捉えることも可能なのである。また江戸時代には消費財を、高度経済成長期には耐久消費財を購入するために、日本人は勤勉に働いたのだ。
江戸時代の日本は、その後重要な輸出品となる綿と生糸を生産するようになった。必要な労働力と資本は、自国で調達した。
高度経済成長期の日本も、労働力と資本を自国で賄ったのだ。むろん日本人も日本企業も海外に進出していったが、この点において、日本は、多くの工業諸国とは決定的に違っていたのである。
(玉木 俊明 : 京都産業大学経済学部教授)