ドラフト指名を目指した徳島・吉村優【写真:球団提供】

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徳島インディゴソックスの150キロ右腕、現役大学院生でもある23歳・吉村優の挑戦

 10月20日に行われたプロ野球ドラフト会議。競合の末に1位指名されるなど、夢への挑戦権を掴んだ一方で、名前を呼ばれず夢断たれた者もいる。四国アイランドリーグplus・徳島インディゴソックスの23歳・吉村優投手は、高校野球と大学アメフトで2つの「甲子園」を経験。しかも、現役大学院生という異色のキャリアで、独立リーグからNPBに挑んだ。1年半見守った記者が、そのチャレンジを振り返った。(文=THE ANSWER編集部・神原 英彰)

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 126人。今年のドラフト会議で指名された人数である。対して、NPBを目指す高校・大学生に義務付けられたプロ志望届の提出者は341人。加えて、その義務のない社会人野球、独立リーグの在籍者を合わせれば、さらに多くの者が「10.20」に夢を乗せて見守り、多くの者が「10.20」に夢破れたことになる。

「指名漏れ」という言葉は「戦力外」と同様、秋の野球界で悲哀の色に塗られ、野球ファンの関心を引く。

「やり切りました。たくさん悔しい想いをしてきて、今も悔しいけど、毎日を全力で1日も妥協せずにやってきた。NPBを目指すのは今日で終わり。後悔はないです」

 最後まで指名を続けたソフトバンクの選択終了からおよそ40分後。LINEの電話口から聞こえる吉村の声は、清々しさを感じさせるものだった。

 ドラフト直前、多くのメディアが異色の経歴の選手を取り上げたが、彼もそこに分類される一人だった。初めて会ったのは昨年5月。高校・大学の先輩で、現在は指導者として活躍する内田聖人さんから「面白い後輩がいるんです」と紹介された。内田さんが運営するジムで取材した際、言われた目標に驚いた。

 大学アメフト部を経て、野球に転向し、1年半後の2022年ドラフト会議で指名を目指す――。

 語ってくれた経歴は、確かに異色に満ちていた。最初に握ったのは白球。小学2年生で観た06年夏の甲子園、斎藤佑樹を擁する早実が優勝した。「自分も早実で甲子園優勝したい」。受験で早実中に入り、早実高2年夏は背番号16の控え投手で甲子園出場。登板はなかったが、1学年下の清宮幸太郎とともに4強入りした。

 3年夏は斎藤と同じ背番号1をつけた。西東京大会8強で敗退したものの、完全燃焼。「自分のゴールは高校野球と決めていた。燃え尽きられたので、惰性で次の4年間を使ったらもったいない」。野球には区切りをつけ、また新たなフィールドで日本一を目指したいと、早大進学後はアメフト部に入部した。

 未経験の楕円球に持ち替えたが、司令塔のクォーターバックとして血の滲む努力を重ね、3年冬に大学日本一を決める甲子園ボウルに出場。タッチダウンも記録した。4年生では副将を務め、コロナ禍に見舞われた1年間を奔走。そして、部活を引退した翌日、再び野球に転向する決断を下した。理由はこうだ。

「高校の時に決めていた限界とか、得られていた達成感なんて本当にちっぽけだったと思うくらいの毎日でした。本気ってこういうことなんだと学んだので、この4年間の経験を持って野球に戻ったら、自分はもっと上のステージに行けるんじゃないかと思ったんです」

 対人競技で鍛えた肉体は強さを増した。練習を始め、ほんの数か月で高校時代に134キロだった最速は145キロに到達。後に1年足らずで150キロに届くことになる。

 週に一度は本屋に入り浸る読書家。しかも、基幹理工学部情報理工学科に在籍した理系で、早大大学院に進学。大学で執筆した卒論は「相槌を打つチャットボットがブレーンストーミングに与える影響」。AIの技術で人間の心理にアプローチし、チームビルディングに結びつける研究をスポーツ界に将来生かしたいという。

 現役大学院生がドラフト指名されたら、大学アメフト部在籍とともに異例だ。「僕の中では、野球も勉強もずっと2つ一緒にやってきて、両方が両方に良い影響を与えるもの。勉強を辞める選択肢はなかった」。取材中に「過去に取材してきて、伸びる選手と伸びない選手の差はどこに感じますか?」と逆質問もされた。

 慣れない取材で恐縮し、自分が答えることで精一杯になることが多いが、どこか達観して、自分を成長させることに興味が向いている。面白い若者だと思った。

高校野球の3年間がなければ今の自分はないし、大学アメフトの4年間がなければ今の自分はない

 出会いから1年3か月。今年8月に取材した時、彼は独立リーガーになっていた。

 クラブチームを経て、今年1月に徳島インディゴソックスに入団。「本気でプロを目指す1年間にする」。よりレベルの高い環境を求めた。しかし、9年連続NPB選手を輩出している独立リーグ屈指の強豪。実戦経験も少なく、「速い球を投げるだけの人」(吉村)はキャンプでチームメートにボコボコに打たれた。

 生活も楽ではなかった。家賃4万円の1Kで初めての一人暮らし。給与も恵まれたものではない。スーパーでは値上がりする野菜とにらめっこ。朝晩、納豆ご飯でしのぎ、体重も2、3キロ落ちた。再会がてら食事をご馳走すると「久しぶりにお腹いっぱい食べました」と真っ黒に日焼けした顔で頭を下げられた。

 その時、彼は「本当に今は生きるために稼いでいる感じですね」と笑って言った。

 早実野球部と早大アメフト部の出身、2つの競技で「甲子園」を経験し、理系出身でもある。異次元の「ガクチカ(「学生時代力を入れたこと」の就活用語)」を持ち、望めば誰もが羨むような一流企業への就職もあっただろう。実際、高校・大学の同級生には、テレビ局や商社などの大手企業に勤めている者もいる。

 ただ、本人は「今しかできないことだし、僕しかできないこと。良い経験ができている」と言い、置かれた環境を楽しんでいた。

 7月に先発デビューすると、そこから3連勝。最速150キロの直球のみならず、実戦の中で磨いたカットボール、フォークなどを武器に、投手としての総合力を上げた。実際、複数球団のスカウトが吉村の登板をチェック。夢への距離はゆっくりではあるものの、少しずつ近づいている手応えはあった。しかし――。

 10月20日、午後8時10分。チームメートが3人指名されたのをよそに、吉村の名前が呼ばれることはなかった。

 冒頭の電話の第一声。「1年間、一緒に戦った仲間が3人も指名されて凄く嬉しかったし、それぞれに思い出のある選手なので感動しました」。仲間の指名を何よりも喜んだ。そして、自分の結果に悔しさを滲ませながら、どこか清々しさを感じさせたのは、自身の選択と、その道で全力を出し切った自負があるからだろう。

「高校野球部の3年間がなければ、今の自分はないし、大学アメフトの4年間がなければ、今の自分はない。アメフトをやったから新鮮な気持ちでもう一度、野球に取り組めたし、野球の常識も疑って取り組めた。この1年間、毎日を全力でやってきた。1日も妥協せず、毎日すべてやり切った最高の状態でベッドに入ろうと、それを目標にしてやり切った。24歳になる年で初めてドラフトを目指すのはハンデかもしれないけど、僕としてはアメフトを4年間やってきたことが武器になりました」

 前例のない挑戦は、その挑戦自体に価値があると語られることがある。吉村もそうだった。24年間の2年と考えれば大きいが、80年、90年間の人生の2年と考えれば、そう大きいものではない。しかし、それを嫌った。「大人の方はそう言ってくれても、絶対に『良い経験だった』で終わらせたくなかった」と悔しがった。

 それほど、人生を懸けたNPB挑戦は今年限りと決めていた。今後は大学院の修士論文と向き合いながら、クラブチームなどで野球を継続するか、企業への就職活動をするか、検討していく。何かと「多様性」が叫ばれ、常識を壊し、価値観のアップデートが求められる今の時代を象徴するチャレンジでもあった。

「スポーツの分野でパイオニアになりたいと思ってチャレンジを続けてきた。自分はプロにはなれなかったけど、僕より身体能力が高い人はたくさんいる。そういう人が考える力を身につけ、新しい挑戦をしてくれたら面白いと思います。僕なんかでも影響を受けてくれる人がいて、例えば、早実野球部から早大アメフト部に入る選手もいるんです。チャレンジをする人がいるから、影響を与えられる。僕自身はこれから人生のパイオニアになることを目指して、チャレンジを続けたいです」

 ドラフト直後、指名を受けた選手たちの夢が多く語られた記事をメディアは掲載した。

 一方で、メディアは指名漏れのリストも並べた。多くは名前のみで、コメントはない。しかし、その一人一人には、語られることのない感情とストーリーがある。

 吉村優は生涯、忘れ得ぬ「10.20」を過ごし、また新たな人生を歩き始めた。

(THE ANSWER編集部・神原 英彰 / Hideaki Kanbara)