厚生労働省や文部科学省など、国がこれまで何をしてきたのかを探った(写真:pixta)

2023年3月末に、1000人を超える有期雇用の研究者が無期雇用への転換直前で雇い止めされかねない問題で、9年前にはあのノーベル賞受賞者がこの危機を明確に予見していた。長い猶予期間があったのにもかかわらず事態を回避できなかった責任は、誰にあるのか。政府の担当者や政治家を直撃した。

いわゆる有期雇用者の無期転換ルール(有期雇用が通算5年で無期転換申込権が発生)は、民主党政権下だった2012年8月に成立した改正労働契約法で定められた。ただ、翌年に自民党・公明党の議員(2012年12月に自公政権へ交代)が議員立法による特例を設け、研究者の無期転換申込権の発生を10年に延ばしたのが当時の経緯だ。

一般の労働者も研究者も有期雇用の通算期間の起算日は、いずれも改正労働契約法が施行された2013年4月1日になる。研究者の場合、そこから10年になる2023年4月1日まで雇用が続いていれば、無期転換申込権を得る人が多い。

しかし、多くの大学や研究機関では、有期雇用の研究者らを無期雇用に転換するためのお金が十分にない。2004年度の国立大学法人化を契機に、財務省によって大学が比較的自由に使える安定財源の運営費交付金は2015年度までに総額で1割以上削られた。そのあおりで各大学などは無期雇用のポストの数を削減している。その後も運営費交付金は増えていない。

そうした事情がある中、各大学や研究機関は「10年特例」による無期転換申込権の発生を阻止するために2023年3月末までに有期雇用の研究者を雇い止めにする――。すべてはわかりきっていたシナリオだ。政府や政治家は、そこに対して事前にどう対処するかが問われていたはずだった。

山中伸弥氏が抱いた危機感

この「10年特例」ができた発端は、iPS細胞の研究で2012年にノーベル医学生理学賞を受賞した、山中伸弥氏の働きかけだった。

改正労働契約法の施行を受け、山中氏は自身が所長だった京都大学iPS細胞研究所で働く有期雇用の研究者らが、最長で5年しかいられなくなることを危惧した。そうなれば、プロジェクトの進展に大きな支障をきたす。日本全国の他の研究プロジェクトでも、同じような問題が起こりかねない。そこで山中氏は、政治家らに対応を要請した。

これに対し、自公の政治家が動いた。国会議員5人(自民党衆院議員の塩谷立氏、渡海紀三朗氏、大塚拓氏、公明党衆院議員の斉藤鉄夫氏、伊藤渉氏)が議員立法として、研究者らの無期転換申込権発生までの有期雇用期間を倍にする「10年特例」を含む「改正 研究開発力強化法」を2013年11月に国会に提出。採決では民主党なども賛成に回り、同年12月に成立した。

当時の詳細な経緯や背景をまとめた書籍『改正研究開発力強化法』(科学新聞社、2015年発行)には、2014年に行われた山中氏と国会議員らの対談が収められている。

その中で、山中氏は「10年特例」に「かなりの人は安心されたと思います」と謝意を述べつつ、「10年後にはそういう方々がクライシスになりますから、それはまた何とか対策を立てないと、今30歳の人は40歳になり、40歳の方は50歳になっていよいよ転職が利かない年齢になってきます」と懸念を示していた。そのうえで、「そこをまた次の問題として、国の制度(による対応)も必要」と指摘していた。これに対し、国会議員らも同意していた。

厚労省も文科省も制度には手をつけず

では実際、「10年特例」ができて以降から今までに国は何をしたのか。厚生労働省・労働関係法課の小川武志課長補佐は「厚労省としては、無期転換ルールを逃れる目的での雇い止めはしないように、周知徹底を図ってきた」と話す。

しかし、無期転換を強いるには安定財源が足りない構造が、雇い止めを誘発しているのは上述の通りだ。山中氏が述べていたように国の制度自体を何らかの形で変えなければ、いくら「周知徹底」をしたところで大量の雇い止めを防げない。

研究者を無期転換の対象に含める労働契約法自体が妥当なのか。ルールの見直しを含めて制度の適切な在り方を検討してきたか。その点を問うと、小川氏は「改正労働契約法の原則を変える特例自体を文部科学省の法令でやっているので、仮に研究者を無期転換の対象から外す検討をするのであれば、基本的には(所管は)文科省だ」と主張した。

厚労省からボールを投げられた形の文科省・人材政策推進室長の岡貴子氏にこれまでの取り組みを尋ねると、「研究環境の整備が進むように、さまざまな施策をしてきている。例えば、人事給与マネジメント改革により、雇用環境を整備したところに運営費交付金を手厚く配分している。ポストドクター等の雇用・育成に関するガイドラインも設けている」と話す。

ただ、文科省がこの人事給与改革の評価ポイントとして示す内容は、若手の研究者や女性研究者らの雇用環境の整備や促進などだ。改正労働契約法と特例に沿った無期転換の推進を求める内容ではない。また、ポスドクとは大学院博士後期課程の修了から数年以内の研究者を指すもので、これも若手向けの支援だ。山中氏が懸念したベテラン研究者の雇用危機の回避とは関係ないのではないかと問うと、岡氏は「そこは捉え方による。我々は全体的な研究環境の整備を進めている」と答えるのみだった。

文科省が今年の2月に行った調査によると、国立大学85法人と大学共同利用機関4法人では2023年3月末で有期雇用が通算10年になる人が3099人おり、このうち1672人が2023年3月末までに契約を終了する通告を受けているという。不要な人材ばかりがリストラされるわけではない。昨年度も研究主催者から最高ランクの成績評価を受け、雇用継続を望まれているような人材も多く含まれている。

「当事者意識がなかった」


自民党衆院議員の大塚拓氏は「改正研究開発力強化法は、あくまでも最低限の矛盾を解消したもの」と述べ、その後に見直しの議論が進まなかったことを問題視する(記者撮影)

「10年特例」を含む議員立法を出したうちの1人、自民党衆院議員の大塚拓氏も今回、東洋経済の取材に応じた。大塚氏は民主党政権下で成立した改正労働契約法自体に「大きな問題があった」と指摘したうえで、「実は、当時の厚労省の責任者も、改正労働契約法で研究者の状況を考慮しなかったことはミスだったと認めていた」と明かす。

研究プロジェクトの期間は一般的に、5〜7年程度とされる。だが、もしも5年で雇い止めされかねない状況であれば、入って最初の1年は準備期間、後ろの1〜2年は転職活動をせねばならず、2〜3年ほどしか研究に集中できない。大塚氏はこうした問題点を挙げたうえで、「研究者の無期転換までの期間を10年に延ばす特例を議員立法で急いで整備することで、緊急避難的に対処した」と当時を振り返る。

有期雇用10年での大量雇い止め危機が迫るまでの猶予期間だったこの9年間、何をすべきだったのか。大塚氏は、「本来は、そもそも研究者にも無期転換の縛りがあるべきかどうか、それが研究開発の現場を見たときに適切なのかを、労働政策審議会(労使双方の代表者や有識者が参加する厚生労働相の諮問機関)でしっかりと議論すべきだった。問題の根本はそこにある。労働界も厚労省も文科省も、誰も当事者意識がなかった」と指摘する。

あと残り半年足らずで、このままでは多くの研究者が研究の世界から去らざるをえなくなる。岸田政権が成長戦略の第一の柱とする「科学技術立国の実現」に対して大きなマイナスになることは間違いない。残り時間は少ないが、政府は研究者の大量雇い止め問題について責任の所在を明らかにしたうえで、早急に対応を考えるべきだ。

(奥田 貫 : 東洋経済 記者)