拓銀破綻と雪印食中毒事件。平成を代表する巨大経済事件の「敗戦処理」を背負って

北海道拓殖銀行破綻と雪印乳業集団食中毒事件。平成の半ばに起きた二つの事件で、その現場に居合わせ、混乱の真っ只中で事態の収集に奔走した人物がいる。その人物の半生とは。

北海道拓殖銀行破綻と雪印乳業集団食中毒事件。平成の半ばに起きた二つの事件は、今日に至る「失われた30年」への通過点として、記憶に深く刻まれている。しかし、その二つの現場に偶然にも居合わせ、混乱の真っ只中で事態の収集に奔走した人物がいたことはあまり知られていない。

郄橋浩二氏、65歳。

新卒で入行した北海道拓殖銀行では、破綻処理の特命業務を遂行し、その後に中途入社した雪印乳業では、集団食中毒事件に伴う事業再建に深く関わった。平成を代表する二つの巨大経済事件の「敗戦処理」を背負った郄橋氏に、その数奇なキャリアを聞いた。

「日本で一番仕事ができる」と思っていた若手時代

10代後半の息がつまる感覚を今でも覚えている。明確な夢や目標があるわけではなかったが、数十年先まで見通しがつく平坦な人生は、あまりにもつまらなく思えた。

大阪市東大阪市に本社を置く、アルミ建材メーカー・株式会社ツヅキの代表取締役社長・郄橋浩二氏は、自身の少年時代をそう振り返る。

「高専(高等専門学校)って就職はすごくいいんですよ。上級生は県庁や市役所に入っていました。地方公務員が悪いとは言わないけど、それが本当に幸せなの?とは思っていましたね」(高橋氏。以下略)

1957年、福井県生まれ。子供のころから成績は優秀だったが、家庭は裕福ではなかった。中学卒業後は、手に職をつけるために地元の高等専門学校の土木科に進学したが、絵が苦手で図面を引くのが苦痛だった。次第に理系の世界の居心地が悪くなり、大学への進学を決める。しかし、高等専門学校には古文や漢文の授業がなく、国立大学の受験は難しかった。

「現国、数学、英語くらいで受験できて、子供なりのプライドを満たしてくれる大学は、慶應くらいしかなかったんですよね」

受験先は慶應義塾大学商学部に決めた。春に39だった偏差値は、模擬テストを受けるごとに10ずつ増えていき、本番直前には70近くまで達した。結果は見事合格。「普通高校なら東大にも行けたのでは」。自らへの自信はより深まった。

しかし大学に受かっても、暮らしが豊かになるわけではない。学生時代は学費を工面するために、日夜アルバイトに明け暮れた。「早く余裕のある生活がしたい」と、そればかり考えていた。だから一定の収入さえ得られるなら、就職先にこだわりはなかった。貧乏旅行で訪れた北海道に憧れ、地元では名が知れているらしい銀行の面接を受け、すんなり就職を決めた。それが北海道拓殖銀行(以下、拓銀)だった。

1980年、拓銀に入行。初めに配属された室蘭支店を経て人事部に異動した。人事部は銀行ではエリートコース。将来を嘱望される存在として、郄橋氏は栄光への階段を登っていく。

キャリアのピークは、1988年からの香港勤務。当時の香港は、シンガポール、韓国などともに新興工業経済地域(アジアNIES)に数えられ、金融都市として急速に存在感を高めていた。金融の中心街である中環(香港中西区)には、世界中の金融機関がひしめき、中国系や東南アジア系の財閥、投資家、起業家たちが、生き馬の目を抜くような競争を繰り広げていた。日本もバブル経済の真っ只中。時代のうねりのなかで、郄橋氏も華僑向けの大型資金調達を次々とまとめ上げていく。

思い出深いのは、フィリピンを拠点とする通信会社の資金調達案件。「フィリピンが成長するには移動通信が絶対に必要だ」と熱く語る創業者の男に共鳴し、本社の反対を押し切って初期事業資金を貸し出した。のちにその会社はフィリピン最大の通信会社となり、男は「フィリピンのインフラ王」とも呼ばれるようになった。

「当時は、日本で一番仕事ができると思ってましたね」

福井の町で将来に思いを馳せていた少年は、十数年後、アジア経済の最前線を駆け抜ける辣腕の金融マンになっていた。

1995年10月11日。香港勤務を終え、7年ぶりの国内勤務に戻った翌日、東京営業部の営業課長として迎えられたオフィスで噂を耳にした。「月末までにキャッシュが3,000億円足りないらしい…」。拓銀が本格的に破綻の危機に瀕している。昇り詰めようとしていた階段が目の前から崩れていくのを感じた。

薄氷を踏むような破綻処理の特命業務

1997年11月17日、拓銀は経営破綻を発表した。バブル期の乱脈融資が足かせとなり、不良債権処理が難航。資金繰りが急速に悪化した末の破綻だった。北海道内133店舗は北洋銀行、本州63店舗は中央信託銀行への営業譲渡が決まった。

破綻発表の3日後、郄橋氏は北海道の本社に呼び戻された。呼びつけたのは、破綻処理時に頭取代行を務めたWだった。Wは室蘭支店以来の上司で、誰よりも能力を評価してくれた人物である。

「Wの執務室で書類を見せられたんですよ。『倒産予定リスト』と書いてありました。ゼネコンや百貨店など、当時の北海道では力を持っていた企業が名を連ねていて『これが一気に連鎖倒産するのか』と思うと背筋が寒くなって…。

Wが『浩二、どう思う』って聞くから『これはマズいでしょ』って答えました。そしたら、Wが『じゃあ、お前がなんとかしろよ』って」

こうして郄橋氏は、破綻処理に係る特命業務を命じられる。ミッションは大きく二つ。一つは、できる限り多くの顧客を営業譲渡先に引き継ぎ、連鎖倒産の数を減らすこと。もう一つは、主要な株主を説得し、翌年の株主総会で事業譲渡の決議を得ることだった。

それからは怒涛の日々である。あるときは土下座し、あるときは凄んで、顧客や株主の首を縦にふらせた。現在ならば、国が経営破綻した銀行を国有化し、不良債権処理を進める金融再生法などの各種法令が整備されている。しかし当時の法律は銀行の経営破綻を想定しておらず、郄橋氏は法的な後ろ盾がないまま、顧客や株主を説得しなければならなかった。

薄氷を踏むような仕事を周囲は嫌い、特命業務の稟議書を受け付ける上司は誰もいない。仕方なく頭取代行のWのもとに赴くと、Wだけが稟議書の承認欄に印を押した。

「破綻発表翌年の3月31日に株主名簿が確定するので、大株主には『3月31日まで株を保有してほしい』と頼み込むんですけれど、相手は売りたいに決まっていますよね。紙くずになる株なんだから。でもこちらとしては、何とか株を持ち続けてもらい、株主総会で事業譲渡に賛成してもらわないといけない。

だから、足に抱きついてでも『売らないでくれ!』って…そうするしかないですよね。相手からは嫌われて当然の仕事ですが、僕としては会社の決着をつけなきゃいけない、という気持ちでした」

1998年6月、拓銀は株主総会を開催し、出席者の3分の2以上の賛成を得て、事業譲渡を決議した。会場は異様な雰囲気に包まれ、一部株主からは反対の怒号も飛んだが、事前の大株主への説得工作が効いた。生存が危ぶまれたゼネコンや百貨店も倒産を免れ、債権は営業譲渡先に引き継がれた。郄橋氏の銀行員としての最大にして、最後の任務は、こうして幕を閉じた。

雪印食中毒では経営再建計画の目玉を取りまとめる

そして時が経ち、2000年夏。

連日30℃を超える真夏日のなか、郄橋氏は大阪や兵庫の住宅地を歩き回っていた。手元のリストには数え切れないほどの住所と氏名が記されている。一軒一軒を訪ね、食中毒被害への怒りに震える消費者に向き合わなければならなかった。

2000年6月末に発生した雪印乳業集団食中毒事件は、その夏における最大級の社会的関心事だった。製造工程の一部が汚染されていたために、毒素である黄色ブドウ球菌を含む低脂肪乳などが大量に出荷された。有症状者は14000人超。過去に例を見ない大規模食中毒事件だった。次々と明るみになる杜撰な衛生管理や隠蔽体質も大きな批判を集め、日に日に報道は加熱。雪印乳業の一挙一動に険しい眼差しが向けられていた。

拓銀を離れてから2年、郄橋氏は雪印乳業の経営企画室にいた。拓銀の特命業務中、大株主だった雪印乳業に謝罪に出向いた際に「次はうちに来ないか」と入社を請われた。雪印乳業は約1100万株を保有していて、破綻後には更に優先株式10億円を加えた巨額の損失が見込まれる。とても断るわけにはいかず、次の職場が決まった。

雪印乳業でも郄橋氏はいくつかの成果を挙げた。最初に配属された国際部では、経営陣が数年間も頭を悩ませていたタイからの事業撤退を、わずか半年間でまとめている。次に異動した医薬品部ではPL(製造物責任)訴訟を担当し、医薬品製造における訴訟リスクを洗い出した。しかしどこか仕事には白けていて、経営企画室に移るころには退職する機会を窺っていたという。

「組織に信用されてないと感じていましたね。医薬品部のときも『製造の意思決定の構造に問題があるので、PL対策を抜本的に見直したほうがいい』と報告したら、当時の社長が『これまで牛乳を作ってきたんだから、医薬品だって作れるだろう』と。やはり僕みたいな『外国人(中途入社者)』は信用されないんだなって。それで会社を辞める準備を始めたんですよ」

集団食中毒の発生は、その矢先のことだった。PL対策の進言を退けた社長は詰めかける報道陣に「私は寝てないんだ」と言い放ち、世間からの集中砲火を浴びる。事態が急速に悪化するなかで、郄橋氏は有症状者のクレーム対応を命じられた。

さらに、経営再建計画の策定にも参加を求められた。経営再建計画の目玉だった、ネスレ日本との業務提携では交渉の最前線に立ち、契約の締結を主導。2001年2月、雪印乳業はネスレ日本との合弁会社「ネスレ・スノー」の設立に漕ぎ着ける。

「こういう仕事が僕の居場所だったんでしょうね。僕より経歴が立派なビジネスパーソンはたくさんいるだろうけれど、『人の役に立つ』という意味では、僕もそれなりに仕事をしてきたのかなと」

これまでのキャリアを振り返って、郄橋氏はそう話す。かつて「日本で一番仕事ができる」と自負していた能力が最も認められ、注目も浴びたのは、皮肉にも二つの巨大経済事件における「敗戦処理」でのことだった。