誰でも自分の人生に大きな影響を与えた出会いがある。経営者たちの仕事人生に大きな影響を与えた「人・チャンス・言葉」がある。内田洋行社長・大久保昇氏にとっては、仕事を通じて知り合った仲間が、その後の会社の進む道までに大きな影響を与えたという。経済評論家・浜田敏彰氏が聞く。
撮影=鈴木啓介
(左)内田洋行社長 大久保昇氏、(右)経済評論家 浜田敏彰氏 - 撮影=鈴木啓介

■高校ラグビーで自信を取り戻す

私は大阪府藤井寺市の生まれですが、父は和歌山市生まれでした。戦前は不治の病といわれた結核を患い、長い療養でしたが、神奈川にいた姉が養生のために引き取ると、自然に治癒します。神奈川で就職し、東京出身の母と結婚。戦後2人の兄が東京で生まれ、その後、父の兄が大阪で始めた工場を手伝うために大阪に移り、三男の私が生まれました。

そのころ、藤井寺の子供たちはまだ下駄履きです。東京弁を話し、運動靴を履いていた兄たちは、近所のガキ大将に運動靴を古墳のお濠に投げ捨てられても、すぐに言葉もなじみ、年が離れても一緒になって地域の子供たちで遊びます。7つ下の私もついて回っていたようです。

小学生になるころに大きな団地ができました。新住民が流入して藤井寺はベッドタウンに変貌します。団地の友達と遊びながら、クラスでは学級代表も務め、6年生には児童会長にもなりました。ただ、いざ一番前に出るようになると、何か落ち着かなくなってきたのです。中学生になると次第に控えめになり、前に出ないタイプになっていました。

変わったのは、高校に進学してラグビー部に入ってからです。中学は運動部ではないので、最初はついていくのに必死でしたが、厳しい練習をするうちに体力がつきました。部活は勉学でも効果を発揮します。3年生の11月まで全国を目指した部活の仲間と「どうせ浪人」と覚悟していましたが、同期8人のうち私が京大、ほかにも早稲田、東京教育大、大阪市大に現役で合格しました。みんな集中力が身についたようです。

内田洋行社長 大久保昇氏(撮影=鈴木啓介)

学部は工学部で、大学寮に入りましたが、そこは全くの自由空間です。私はすぐ授業に出なくなり、朝から新聞を5紙読み漁り、部屋に誰かが毎日来て夜中まで話す生活が続きます。サークルのようなノリで夜中にバスに乗り、翌朝は成田闘争の三里塚だったこともあります。

そんなことから大学には6年通いました。工学部は研究室推薦で就職するのが常で、推薦を望まない私に残された選択肢は、理科の教師になるか、学部を問わない商社系しかありませんでした。

ただ就活を始めたのも遅く、唯一内田洋行が採用してくれました。高校の教員試験も合格しており少々迷いましたが、3月に入っても何も連絡がなく、内田洋行にお世話になることに決めました。ちなみにある高校から3月29日に採用の連絡がありました。もしあと2週間早ければ、今ごろどこかの学校で理科の先生をしていたかもしれません。

■インターネットに教育的価値を感じた

入社は1979年で、配属はたまたま教育市場の営業職でした。1カ月のうち3週間は出張で岡山の販売店をまわる毎日。大学時代の友人からは「大久保はどうせすぐに辞める」と思われていましたが、仕事は黙々とやり続けました。

転機は4年目です。会社は教育市場でのコンピューターや学校家具など新規領域へのトライアルを始めていました。理科の実験器具は先輩のほうが当然詳しいのですが、コンピューターについては、たとえ多少でも大学で集中講座を受けていた私のほうが詳しく、広範囲なエリアを任されるようになったのです。

1987年、まだネットワークOSがない時代に、岐阜県の中学で、校内すべての教室のパソコンに教材を転送できるシステムを構築します。大学以外の全校ネットワークは日本初のことです。

その後、国から学校にコンピューター導入の大きな補助金が始まり、その頃には本社の経営企画に異動していた私ですが、増員要請から、元の部署である大阪で営業課長となります。しかし、転勤したころにはすでにピーク後でした。

ただ、次のチャンスが眼前に来ていました。インターネットです。まだその草分け時代、京大とある府立高校をインターネットで接続する案件を受注します。高校生が、ネット上の掲示板にミニマガの記事を作成し投稿する実習授業の体験を積むことでセミプロ並みの立派な文章が綴れるように変身していく姿に私は感動します。インターネットに教育的価値を感じました。

■専門領域を超えて集まったコミュニティ

1994年、通産省の「100校プロジェクト」に参画します。全国の小中高に専用線をはり、インターネットで接続する日本初の試みです。入札参加は4社。当時は各社もインターネットの工事がよくわかっていない状況で、みんな手探り。その中で担当した中部地区が大手ベンダーの他地区に先駆け、最初に接続に成功したことは自信になりました。

通産省の「100校プロジェクト」のメンバー。最後列右から2番目、腕組みをしているのが当時の大久保氏。

このプロジェクトでは、さまざまな出会いに恵まれます。2年目に各地区で成果発表会があり、実施学校、インターネットを研究する大学などが参加します。先端的なことに関心の強いみなさんですから、話は尽きません。紅茶とケーキだけの公式プログラムだけでは面白くないので、終了後に私達で自主的にビールありの交流会をやり、教育議論は大いに盛り上がりました。

実はプロジェクト3年目に予算が止まり、他社は手を引きだします。しかし、教育の情報化を進めることを途中でやめるわけに行きません。ICTを活用した新しい授業を行いたい。そうした思いを持った全国の人達は、プロジェクト終了後も有志で集まり、私も一緒になってさまざまな活動を各地で続けます。現在、毎年、東京・大阪で1万人以上の来場者が訪れるように成長したNew Education EXPOという教育関係者向けのイベントは、この現場の先生達の実践知を伝えるために草の根的に私が始めたものです。また成果検証を目的に教育総合研究所の前身となる部署も立ち上げます。

地域や専門領域を超えて集まるコミュニティは刺激的でした。95年当時は名古屋市の商業高校で英語を教えていた影戸誠さんほか全国各地の多くの現場の先生。研究者では、村井純氏と日本初のインターネット接続を行った早稲田大学の後藤滋樹教授ほか。官僚では後に文部科学副大臣になられる通産省の鈴木寛さん。こうした方々はインターネットの教育活用黎明期を支えたいわば同志であり、今も新たな分野に挑戦し続けられています。ただこのおかげで私はゴルフを覚える機会を失いましたが。

視野を広げた経験は、社長になった今も役に立っています。内田洋行は公共、オフィス、情報という3つの事業枠で展開してきましたが、以前は各事業が分断されていました。そこで新たな視点で全社をマトリックス的に俯瞰することから、売上の6割のICT技術など、各事業間での共通のリソースや市場ノウハウが活用できる再構築を進めています。

このように柔軟な見方ができるようになったのも、ビジネスの枠を超えて同じ志を持ったみなさんと出会えたからだと考えています。(内田洋行社長・大久保昇氏)

■関わった人が引寄せられた形での「出会い」

大久保社長は人生を変えた出会いとして、「100校プロジェクト」で知り合った方々の名前をあげた。ただ、表現としては「出会った」より「引き込んだ」が真実に近いのではないか。

自分から前に出る性格ではない。また、中高時代の愛読書が、難しい内容も多いブルーバックスだったことからわかるように、興味のあることにまっすぐに取り組み克服していくタイプ。熱量を持って取り組むうちに、関わった人が引き寄せられたのだろう。いわばブラックホール型のリーダーだ。勢いを止めずDXで世界に後れをとる日本全体を巻き込んで、社会変革を起こしてくれそうな気がしてならない。(経済評論家・浜田敏彰氏)

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大久保 昇(おおくぼ・のぼる)
内田洋行 社長
1954年、大阪府生まれ。79年京都大学工学部卒業後、株式会社内田洋行入社。96年New Education EXPO開始。98年内田洋行教育総合研究所設立。2003年取締役教育システム事業部事業部長。05年取締役常務執行役員。08年取締役専務執行役員。14年代表取締役社長就任、現在に至る。
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浜田 敏彰(はまだ・としあき)
経済評論家
1955年生まれ。79年東京大学法学部卒業後、大蔵省(現財務省)入省。大阪税関長、消防庁審議官、財務省大臣官房政策評価審議官、税務大学校長などを歴任。現在、関西大学客員教授。
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(内田洋行 社長 大久保 昇、経済評論家 浜田 敏彰 構成=村上 敬 撮影=鈴木啓介)