世界中でほぼ同じものが作られているビッグマックの日本における価格が安いことは何も喜べない(写真:Andrey Rudakov/Bloomberg)

iPhoneや外国オーケストラ公演が、日本人には高嶺の花になってしまった。これまでも日本は円安によって貧しくなっていたが、今年3月からの急激な円安で、それがはっきりとわかるようになった。

昨今の経済現象を鮮やかに斬り、矛盾を指摘し、人々が信じて疑わない「通説」を粉砕する──。野口悠紀雄氏による連載第78回。

iPhoneはもはや高嶺の花

アップルは9月7日、新機種iPhone14シリーズを発表した。日本での価格は、最も安いタイプで11万9800円。 Pro Maxは約20万円だ。

昨年9月にリリースされたiPhone13シリーズでは、最も安いタイプが9万9800円だったから、20%の値上げになる。9月1日、円が急落して、1ドル=140円台となったことの影響だ。

これに先立つ7月1日、アップルは、日本での販売価格を引き上げていた。iPhone13を11万7800円から1万9000円値上げ。iPhone13 Proは14万4800円から2万2000円引き上げた。これも円安の影響だ。

一方、厚生労働省が発表した令和2年「賃金構造基本統計調査」によると、大学新卒者の賃金は、男女計で22.6万円だ。

上で述べた価格のiPhone13を、なんとか買うことはできる。しかし、Pro Maxを買ってしまえば、食費も残らない。iPhoneは、普通の日本人にとっては、もはや高嶺の花だ。

高嶺の花となったものは、他にもある。日本経済新聞(2022年9月12日)は、オーケストラの来日コストが上昇していると報じた。

大編成のオーケストラの場合、100人以上の人と楽器が移動する。航空運賃などが高騰しているため、経費が1億円以上増えているという。

このため、あるコンサートでは、入場料を、当初1万2000〜2万8000円と発表していたが、チケット発売日の直前に、1万5000〜3万2000円に値上げした。記事は、「一流オケの来日ツアーが、今後、激減するのではないか」としている。

日本人の文化環境は著しく低下する。

これまでも、外国のオーケストラやバレエの日本公演のチケット代は高かった。ただ、「贅沢」とは思っても、チケットの価格よりは、座席を取れるかどうか、どの位置に取れるかのほうが重要事項だった。しかし、1人3万円以上となれば、考え込んでしまう。

新型コロナの感染で、外国オーケストラやバレエの公演からは、この数年、足が遠のいていた。コロナが終わればもとのように行けると思っていたのだが、そうしたことはもうできないだろう。そう考えると、なんとも情けない気持ちになる。

私たちの世代の学生時代は、外国のオーケストラやバレエを実際に見たり、聞いたりするなど、夢のまた夢だった。いま、再びその時代に舞い戻ってしまった。円の購買力が固定為替時代の水準に戻ってしまったから当然のことなのだが、それにしても、なんと憎っくき円安だろう!

アメリカのビッグマックの値段は、日本の2倍

イギリスの『エコノミスト』が「ビッグマック指数」を発表している。これは、「ビッグマック価格がアメリカと等しくなる為替レート」に比べて、現実の為替レートがどれだけ安くなっているかを示すものだ(数字が低いほど、購買力が低い)。しかし、これはわかりにくい概念だ。

この指数よりも、「ある国のビッグマック価格を日本円に直すといくらか」を見るほうが、直感的にわかりやすい。

2022年7月時点での各国のビッグマックの価格を日本円に換算してみると、図表1のようになる(換算レートは、9月末の市場為替レート)。9月30日に改定されたばかりの日本のビッグマックは410円で計算した(7月末時点では390円だった)。

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日本では410円だが、1位のスイスは949円であり、「法外な値段だ」と感じる。アメリカは738.1円で、日本の1.9倍になる。イギリスやドイツも、日本より大分高い。

中国が483円で、日本より2割弱高い。2021年6月には日本より安かったのだが、ついに中国のほうが日本より高くなってしまった。韓国の463円も、日本より高いと感じる。

窓を開けないと、世界の状況がわからない

以上で述べたのは、これまでも静かに進行していた現象だ。2022年の円安で改めて気づいた。

この状況は、下降するエレベーターに乗っているようなものだ。

自分のいる高さは、本当は下がっているのだが、エレベーターに同乗している人たちとの相対的な位置関係は変わらない。だから、下がっているのがわからない。

エレベーターには窓がないから、こうしたことになるのだ。

自分の位置を正しく知るには、エレベーターの「窓を開ける」必要がある。日本にはいま、外の世界が見える窓を開けることが必要だ。

ビッグマック指数で日本の購買力が低くなったことは、多くの人が知っていた。しかし、これまでは、それが私たちの生活に直接影響する問題だとは考えていなかった。

なぜなら、ビッグマックは、アメリカと同じものを日本で作れるからだ。日本の安い労働力を使って、価格が安い(しかし同じ品質の)ビッグマックを作れる。だから、わざわざアメリカまで(あるいは他の国まで)高いビッグマックを買いにいく必要はない。日本で安いビッグマックを買えばよいだけのことで、さして大きな問題だとは感じていなかった。

しかし、iPhoneでは事情が違う。残念ながら、日本企業ではiPhoneと同じ品質のスマートフォンを作ることができない。だから、アメリカで高い労働力を使って作ったiPhoneを買わざるをえないのだ。日本の賃金が低いことは、iPhoneの価格を引き下げるのに、何も寄与しない(正確にいうと、アメリカの高い労働力を使っているのは、iPhoneの設計に関してである。製造は中国の工場で行っている)。

こうした問題は、以前から存在していたものだ。このところの急激な円安のために、多くの人が気づくような形でそれが表れたのだ。

結局のところ、「安い日本」が問題なのでなく、「賃金が安い日本」が問題なのだ。日本で賃金があがらないこと、円安が続くこと、それらが問題だ。

このまま続けば、どうなる?

実は、「安い賃金で作れるから大丈夫」と言ったビッグマックも、いつまでも日本の価格が安いままに留まっているとはかぎらない。

なぜなら、ビッグマックを作るためには、牛肉や小麦粉など、輸入に頼らざるをえない原料が必要だからだ。それらの価格は、いま高騰している。だから、価格高騰が続けば、いくら日本の賃金が安いからといって、ビッグマックの価格を維持し続けるのは難しくなるだろう。日本マクドナルドは、ちょうど9月30日からビッグマックの価格を従来の390円から410円に引き上げた。

輸入価格高騰の半分程度はウクライナ問題などの海外要因によるが、半分程度は円安による。ウクライナ問題がおさまっても、構造的な円安が続けば、日本は貧しさのスパイラルから脱却することはできない。

このままの事態が続けば、日本人には高くて手が届かないものが続出するだろう。「舶来品」という言葉は、長らく死語となっていたのだが、それがよみがえるかもしれない。

そして、20年後の日本は、信じられないほど貧しい国になってしまいかねない。

日本に来ても賃金は安いので、外国の有能な人材は日本に来なくなる。日本の有能な人材は外国に流出する。要介護人口は増えるが、介護してくれる人は外国にいってしまう。

こうした事態を、どうすれば食い止めることができるだろうか?


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(野口 悠紀雄 : 一橋大学名誉教授)