「この子のためなら、何だってしてみせる…」

公園に集う港区の母たちは、そんな呪文を心の中で唱え続ける。

そして、子どもに最高の環境を求めた結果、気づき始めるのだ。

──港区は、小学校受験では遅すぎる…、と。

これは、知られざる幼稚園受験の世界。母…いや受験に取り憑かれた“魔女”たちが織りなす、恐ろしい愛の物語である。

◆これまでのあらすじ

娘の華(2)の幼稚園受験のため、お受験塾「ほうが会」に入会した葉月。夫の大樹と受験方針を巡ってギクシャクしていた中、ほうが会の宝川先生から電話が…。

▶前回:気まずい関係のママ友から「話がある」と呼び出され…。明かされた衝撃の“ご報告”とは




Vol.10 本番の面接


「もしもし…」

緊張で、うまく声が出なかった。小さく咳払いをして、もう一度スマホに口を近づける。

「もしもし、篠原です。宝川先生、どうなさいましたか?」

何か深刻な事態でも起きたのではないか。そう身構えていたけれど、予想に反して電話越しの宝川先生の声は明るかった。

「華ちゃんのお母様!遅くに失礼いたします。お父様、スリッパ忘れて行かれたんですのよ。次回いらした時でもよろしかったんですけど、もしお急ぎだったらと思って」

「へ?主人が、スリッパを…ですか?」

「はい、お預かりしておいてよろしいわね?

それにしても、ご熱心でいらしゃって本当に良かったわね。わたくしもお力になれて嬉しいわ。きっとお試験もうまくいくわよ、大丈夫。では、ごきげんよう」

「はぁ…はい、ありがとうございます。失礼いたします…?」

宝川先生が何を言っているのか、全くわからない。

戸惑いながらも電話を切ったちょうどその時、玄関のドアが開く音がして、大樹が帰宅した。

「ただいまー」

「ねえ。今、宝川先生から電話があって。スリッパ忘れてるって。大樹、ほうが会に行ったの?」


大樹は、「あっ、スリッパ!」と言うと、失敗を悔やむようにほんの少しだけ顔を歪める。

そして、ゆっくりと葉月に向き直ると、バツが悪そうに口ごもりながら話し始めた。

「葉月。俺たち、あの模試以来ずっと話し合いができてなかったけどさ。俺、やっぱり…華ちゃんのために幼受、頑張りたい。

この前はごめん。甘くみてた自分が情けなくて、それを認められなくて…葉月に当たった」

「大樹…」

「今日、宝川先生に個別指導を受けてきたんだ。先生に言われたよ。『お父様とお母様が同じ方向を向いていないと、幼稚園受験は乗り越えられない』って。

俺の勝手な考えだけどさ、幼受は子どもの試験じゃない。親の試験だね。

華ちゃんが評価されるなんてかわいそうだ、って前は言ったけど、違った。俺たちが、どれだけ華ちゃんを大切に想っているかが試されるんだ」

「うん…」

「葉月。ずっと任せっぱなしでごめん。でももう一度、一緒に頑張ってくれないか?」

私は思わず、大樹に駆け寄って体を預けた。大樹のがっしりとした腕が、私の背中に回される。

「あたりまえでしょ」

互いが互いを抱きしめるその力の強さが、どんな話し合いよりも深く、深く、伝え合っていた。

華のためなら、どんなことだって頑張れる──と。






私は、濃紺のワンピース。

華は、ピンクの小花の刺繍が施された紺のワンピース。

大樹は、濃紺のスーツに華の刺繍と同じ色合いのピンクのネクタイ。

あっと言う間に迎えた11月。第一志望の園の門で、私と大樹は深々とお辞儀をした。

今日は、いよいよ試験当日だ。




願書は先週提出してある。それと引き換えにもらった受験票を受付で差し出すと、持参したスリッパに履き替え、靴を靴袋にしまう。

トイレトレーニングが成功して以来、華は見違えるように成長した。

お手洗いがきちんとできるようになっただけでなく、母子分離やご挨拶などもハキハキとできるようになっていったのだ。

「篠原華ちゃん」

「はいっ!」

幼稚園教諭からの呼びかけに元気に答えて、私と大樹の元から離れ、ズンズンと勇敢な足取りで別室へと誘導されていく。

子どもたちだけが集められて、工作やお絵かきなど、何かの指示行動をさせられるらしい。

待合室でソワソワと耳を澄ますけれど、華の泣き声らしき音は聞こえない。私はホッと胸を撫で下ろした。

「篠原華ちゃんのお父様、お母様」

30分ほど経った頃、今度は私たち両親が呼び出された。待合室を出ると、華を引き渡されて園長室へと誘導される。

華よりも小さな男の子を連れた親子が園長室から出てくると、すぐに入れ違いで中から声がかけられた。

「どうぞ、お入りください」

大樹が、落ち着いた低い声で答える。

「失礼いたします」

私たちは手を繋いだまま、ご挨拶以来2度目となる園長室へと足を踏み入れた。

園長室には、副園長らしき先生ともう1人、全部で3人の先生が揃っていた。

簡単な挨拶の後、促されるままに椅子へと腰掛ける。

「本日はお越しくださいましてありがとうございます」というお声がけをいただいたあとは、早速、大樹に向かって質問が投げかけられた。

「お父様、休日はご家族でどのように過ごされていますか?」

「はい。私どもは娘に、自分で考えて行動できる力を育んでほしいと願っております。そのため、休日は家族で自然環境豊かな場所へ…」

スラスラと答える大樹の受け答えは、それでいて丸暗記したような軽薄さはなく、誠実だ。模擬試験の時の頼りなさは見る影も無い。

「お母様、おうちでお嬢様にどんなお手伝いをしてもらっていますか?」

「はい。できた、という喜びを知ってもらうためにも、特別難しいお手伝いはさせておりません。例えば、洗濯物を…」

私も、想定内の受け答えを無難に済ませる。おそらく、大きな失敗はないはずだ。

最後に園長先生が、華に向かって尋ねた。


「こんにちは」

「…」

華は答えない。この張り詰めた空気に、緊張してしまっているようだ。

凛々しい顔つきのまま、園長先生をじっと見つめている。

「おなまえは?」

「…」

華はまたしても答えない。

「おとしを教えてください」

「…」

― ダメだ…。

全く失望していないと言ったら、嘘になる。けれど、できることはすべてやった結果だから受け入れよう。

そう自分に言い聞かせた瞬間、先生のうちの1人が、手元から1枚の紙を取り出した。

「華ちゃん。これは、なんの絵を描いてくれたのかな?」

先ほど母子分離の時間で描いた絵なのだろう。花畑に、3人の人が描かれている。

「パパとママとはなちゃん」

「パパとママと華ちゃん、何してるのかな?」

「お花みてる…」

一面ピンクの花畑。先月、家族で見に行ったコスモス畑の絵だった。

それは分かるけれど、空にたくさん散りばめられた黄色の丸は?華と私が手に持っている、小さな白いボールは…?

「これは何かな?」

「ほたる。ほたる光っててきれいだったの。あとおだんご。ママと、おつきさまにおだんご作った」

なぜなのかわからない。だけど、思わず目頭が熱くなった。

挨拶も名前も言えないようでは、合格はきっと絶望的だろう。

けれど、幼稚園受験という目標の下で、華と一緒にしてきたたくさんの経験。それらはちゃんと、華の中で大切な思い出になっていたのだ。

― ああ、私。華のこんな成長が見られただけでも、幼稚園受験してよかった…。

心の底からそう感じた、次の瞬間。園長先生が、もう一度華に問いかけた。

「そうなの。じゃあ華ちゃん。お母様の作るお料理の中で、何が一番好きかな?」

華は、キラキラと輝く笑顔を先生に向けて答えた。

「ふりかけごはん!」






「やれるだけのことは、やったよな」

自宅で夕食を囲みながら、大樹が言った。

「結果はどうなるか分かんないけどさ。でも、華ちゃんも俺たちも、成長したよな」

「そう?華はもちろん成長したけど、大樹は成長したかな?」

「しただろ!」

私の冗談に、大樹が笑ってツッコミを入れる。

「いや、冗談抜きで、俺も葉月も成長したよ。だってさぁ、華ちゃんが『ふりかけごはん』って言った時の、葉月の顔…」

「え?私の顔?…また、魔女みたいに怖い顔だった…?」

私は思わず、箸を食卓に置いて唾を飲む。けれど、大樹はゆっくりと首を振りながら言った。

「いや…その反対。めちゃくちゃ優しい笑顔してて、聖母って感じだった」

「あー、バカにしてるでしょー!」

そう言って笑い合う私たちの前には、今夜の夕飯である大盛りのふりかけごはんが、あたたかな湯気を立てていた。






華を寝かしつけた後、私は湯船に浸かりながらスマホをいじる。

試験を終えた今、すべての肩の荷が下りたわけではない。結果が出るまでの数日間、なすすべもなくただ待ち続けるのは、試験を控えているのと同じくらいのプレッシャーだった。

― 終わったってことだけでも、ふたりに報告しようかな。

居ても立ってもいられない、ソワソワした気持ちをどうにかごまかしたくて、マリエさんと敦子さんとの3人のLINEグループを立ち上げる。

けれど少し考えて、結局はマリエさんだけに連絡をすることにした。

― 翔子ちゃんは明日が本番だもんね。連絡なんてしちゃダメダメ。

この時の私は、翔子ちゃんが、敦子さんが、今どんな恐ろしい状況に置かれているかなんて…。

全く、知る由もなかった。




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▶1話目はこちら:「港区は、小学校受験では遅いのよ」ママ友からの忠告に地方出身の女は…

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