日本の小学校には根拠不明な謎のルールや指導法がたくさんある。現役小学校教員の松尾英明さんは「例えば、『各学年に配当されていない漢字は指導してはいけないし使ってもいけない』というもの。そのため、児童が小2までは『登校』を『とう校』と教員は交ぜ書きする。また、『漢字が書けないと将来困る』といった児童への指導法はウソの脅し文句と言える」という――。

※本稿は、松尾英明『不親切教師のススメ』(さくら社)の一部を再編集したものです。

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■児童が読めない漢字もばんばん板書している理由

学習指導要領には「学年別漢字配当表」が別表として記載されている。ここに記されている漢字については、当該学年のものを読めるようにし、前学年のものを書けるようにすることと定められている。要するに、全国どこでも指導の漏れ落ちがないようにという温かい配慮である。

これが拡大解釈されて、誤解されていることが結構ある。「学年に配当されていない漢字は指導してはいけないし使ってもいけない」という「謎ルール」である。学習指導要領が最低限の内容を示しているということを考えれば、その解釈が誤りであることは明確である。

加えて、学習指導要領中にも「当該学年以前の学年又は当該学年以降の学年において指導することもできる」と明言されていることなのだが、慣習的に「謎ルール」の方を頑なに信じている風潮が学校現場には未だに結構ある。

それを信じている教師たちは親切にも、簡単な熟語であってもわざわざ交ぜ書きで書く。例えば「登」は3年生の配当漢字であるため、2年生までは必ず「とう校」と書く。「道徳」という教科は1年生からあるにも関わらず、「徳」の字の配当が4年生であるため、黒板にも「道とく」と書き続け、子どもはそれを連絡帳にも同じように写して書く。道徳という言葉は「徳」という字そのものにこそ意味があり、この漢字を知らずして道徳の授業とは何なのかを子どもが理解するかどうかの方に疑問が残る(生きていく上で「得する道」だと思っていたという、教える側にとっては笑えない笑い話もある)。

■児童が「その漢字は習ってません」と言わなくなる

不親切教師たるもの、配当表など一切気にせず、とにかく黒板にばんばん漢字を書いていく。読めないであろう漢字には振り仮名を付けるぐらいの配慮をすれば十分である。この繰り返しで、子どもは漢字をどんどん読めるようになる。

逆に「習った字しか黒板に書かない」を忠実に続けていると、配当表にある漢字以外は一切読めないということになる。ばんばん漢字を使って板書していると、子どもたちは「その漢字は習ってません」と言わなくなる。漢字の使用が当たり前になる。習ってもいない漢字を、振り仮名なしでも読めるという子どもが続出する。

難字クイズの例(哺乳類の名前)(出典=『不親切教師のススメ』より)

余裕があれば、絶対に習わないような漢字のクイズを出すのもいい。例えば私の学級では、低学年であっても漢字の読みクイズを実施する。1個でもできれば十分というようなものである。取っ掛かりがないと答えようがないので、テーマだけはヒントとして与える。

(この例のテーマは「みんなが知っている哺乳類の名前」である。加えて「哺乳類っていうのは、赤ちゃんの時にお母さんのおっぱいを飲んで大きくなる動物のことだよ」とも教える。答えは、1かば 2らくだ 3しまうま 4こうもり 5いるか 6りす 7もぐら 8あざらし 9しゃち 10となかい である)

こういったことをやっているうちに「自分たちも作りたい!」と言うように必ずなる。そのタイミングで空欄となった漢字シートを渡せば、子どもがクイズを自作するようになる。

それを印刷して配付し、全員で楽しむことができる。全部は用意してあげないという不親切教師的漢字指導法である。

漢字は、知的な遊び道具にもなる。遊びの幅は、ある程度自由な方が楽しい。漢字の使用に下手な制限を加えることで、せっかくの学力向上の芽を摘まないことが大切である。

■「漢字が書けないと将来困る」のウソ

「漢字が書けないと将来困るよ」とは、私が小学生時代に実際に言われていた言葉であり、今も学校現場の随所で聞かれる声である。「漢字の書き取り○ページ」という宿題が今でも出されているのを見聞きすると、当時の苦痛が思い出される。「将来困るよ」はやりたがらないことを強制するための脅し文句としては効果抜群であった。

この言葉は一見正しいようで、実はほぼ正しくない。もっと端的に言って、ウソである。漢字は書けるよりも読めることの方がはるかに大切だ。手書きが減って文書の作成はパソコンやスマホ入力が中心の今、昔に比べると漢字を手書きする機会は大幅に減った。手書き文化の生き残りのはずの年賀状の作成すら、ほとんどが印刷という時代である。

では、漢字が書けないままでいいかというと、それも全く違う。学習とは、それを直接使う機会がないから要らないというようなものではない。その理論が通用するならば、家庭科のように実用性が高く生活に密着した教科以外、ほとんどの教科は必要がなくなってしまう。算数など、直接生活で使わないものだらけであるが、あれは論理的な思考法や算数的な考え方を身に付けること自体に大きな意義がある。漢字はそれ自体が意味をもつ特別な文字であり種類も豊富で、書き順や旁(つくり)にも意味がある。多く学ぶほどに奥深さと面白さがわかる価値の高いものであると言える。

ただ、漢字学習の重要性と、脅してでも漢字を書けるようにさせるべしという話は、また別物である。漢字は、本人のもつ語彙力の差によって、その習得スピードがかなり異なる。同じ新出漢字一つを覚えるにも、最初から覚えている子どもや見てすぐ覚えられる子どももいれば、何回も覚える努力を何日かしてやっとという子ども、どんなにやったつもりでも一向に覚えないという子どもも混在している。

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この状態の子どもたちに対し「漢字が書けないと将来困る」と伝えるのは、いかにマイナスが大きいかということがよくわかるかと思う。無駄な優越感と劣等感とをそれぞれ植え付けるだけである。

■「漢字の書き取り○ページ」は単なる苦行

漢字の指導については、そのうち書けるようになるよう「ぼちぼち」くらいでいいのである。将来困ることは特にないだろうが、書ける方が何かと便利だし、楽しいし嬉しいということを教えればよい。授業冒頭で少しずつ新出漢字を教えて個別に練習する時間をとり、定期的に小テストを行う。小テストの前にも自分でテストしてみる時間をとり、間違えた字は自分なりに家でも練習をしてくるのである。これを続けているだけで、漢字はぼちぼち書けるようになる。

松尾英明『不親切教師のススメ』(さくら社)

ちなみにこの指導の間、特にノートを集めたり進捗状況をチェックしたりはしない。一律の漢字書き取りのような宿題も出さない。不親切教師のスタンスとしては、本人の自由な選択と結果への自己責任が基本である。

つまり、漢字練習もセルフチェックであり、どれくらいの量をするか、あるいはしないかも自己決定できる。教師にどうしても直接見てもらいたいならば提出してもいいのだが、どちらかというとその漢字の間違えやすいポイント(例えば、「春」ならば五画目の始まりの位置)を大きく板書して、自分で点検させた方が学力向上には効果的である。

また、子どもの将来を慮っての親切心からだとは思うが、冒頭で触れたような「漢字の書き取り○ページ」「漢字をノートに○行書いてくる」といった類の宿題の出し方そのものも、考えものである。

既に書ける字を何個も書くという、単なる苦行としか思えないその単調な行為の目的は、一体何なのであろう。語彙力は個人差の大きいものなのだから、取り組み方については一度教えたら、不親切と言われようが後は個々に任せればいいのである。必要な子どもは自分なりに必要な字を覚える努力をしてくるし、既に覚えている子どもは不要なのでやらないというだけである。

「漢字が書けないと将来困る」などというウソの脅し文句を決して使わない。一方で、新出漢字についての一通りの指導は漏れなく行い、取り組み方については自己決定を続けさせていく。このあたりの指導のバランス感覚が求められるところである。

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松尾 英明(まつお・ひであき)
公立小学校教員
「自治的学級づくり」を中心テーマに千葉大附属小等を経て研究し、現職。単行本や雑誌の執筆の他、全国で教員や保護者に向けたセミナーや研修会講師、講話等を行っている。学級づくり修養会「HOPE」主宰。『プレジデントオンライン』『みんなの教育技術』『こどもまなびラボ』等でも執筆。メルマガ「二十代で身に付けたい!教育観と仕事術」は「2014まぐまぐ大賞」教育部門大賞受賞。2021年まで部門連続受賞。ブログ「教師の寺子屋」主催。
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(公立小学校教員 松尾 英明)