パティシエールの佳奈さん(仮名・28歳)は最初に勤務したお店でオーナーによる壮絶なパワハラ被害に遭った女性。流血事件に発展したオーナーによるパワハラの結果、後輩は大きなトラウマを負ってしまったようです(写真:Koji_Ishii/Getty Images Plus)

「パワハラが原因でうつ病になった」「職場で受けた仕打ちのせいで人と接するのが怖くなった」「就労が困難になり困窮した」……ブラック企業という言葉が定着して久しい日本社会では、こういった体験を見聞きすることは決して珍しくないだろう。

本連載ではそうしたハラスメントそのものについてだけでなく、まだ十分に語られてきていない「ハラスメントを受けた人のその後の人生」について焦点を当てる。加害者から離れた後の当事者の言葉に耳を傾けることで、被害者ケアのあり方について考えられると思うからだ。

今回インタビューに応じてくださったのは、パティシエールとして働いている佳奈さん(仮名・28歳)。美味しいお菓子を提供する職場とは思えない流血事件を経て、トラウマを抱え職を離れた後輩に対して思うこととは。

警察も労基も解決できなかった

――前回伺ったお話では、直接的な暴力が常態化していたこと、お菓子を投げつけるなど職業倫理としてもありえないことがおこなわれたこと、また暴力の果てに命に関わる事件が起こったことを伺いました。しかし、それくらいわかりやすくひどい状況だと、近隣住民にも事情が知れ渡っていたのではと思ってしまいますが。

実際、近所の人たちの間ではよく知られていました。お店は商店街の中にあったので、怒鳴り声が外にも聞こえていたそうなんです。近所のお店の人たちが警察に通報したり、労基(労働基準監督署)に連絡したりと、積極的に動いてくださって。

ただ、お巡りさんは店の外まで見にくることしかできず、労基からは何か書類が届いていましたが、オーナーは破り捨てて、それでおしまいでした。立ち入り検査がされるでもなく、おしまい。

一度、自分も交番に行って相談したことがあるんです。親身に聞いてはくれたんですけど、「僕らは現場を目にしないと乗り込めないんですよ」ということで。「近くで待機することはできるから、いざとなったら電話してください」と言われたんですけど、いざというときに電話できる状況なわけなくて。労基にしても同様で、何か決定的な証拠を押さえないと踏み込めないという話でした。

――必要なときに警察や労基が頼れないというのは重大な社会課題ですね。

そうですね。警察や労基の権限がもっと強くならないと助からない人だらけだと思いますし、今の法律ではどういう状況なら頼れるのか、どういうときなら動いてくれるのかというノウハウが社会に浸透していなさすぎると感じます。それさえしっかり知らされていれば、私たちの場合も助けてもらえたと思っています。

――警察や労基が絡む事態に至っても、やはりこの店を離れようとは思わなかったのでしょうか。

むしろ私が後輩を守らないとと思ったんです。当時はスーシェフもいなくて、立場的にも私がオーナーに次ぐポジション。この人をなだめられる人がいるとしたら私だけ。後輩とお店を守るのに精いっぱいでした。

過酷なパティシエ業界、同業者への相談は機能せず

――同業者と話すことはありましたか?

当時、同業の友達に相談したことはあります。でも総じてみんな余裕がなかったというか。程度の差はあっても労働時間が長いのはどこも一緒で、みんな睡眠不足だし、手は荒れてボロボロ、疲労でいっぱいいっぱいで、他人の悩みに寄り添える状態じゃありませんでした。

でも、どのお店も過酷な労働を強いているとはいえ、怒鳴ったり暴力を振るったりする上司や先輩の話は滅多に聞きませんでした。

同業者がそんな感じだったので、ネット上の異業種の友達が本当に心の支えでした。仕事の話をすると当たり前に心配してくれたんです。それが常識的な世界との唯一の接点でした。

――親を頼ろうにも、低賃金すぎて実家への行き帰りの交通費が捻出できない、というのはよく見聞きしたケースですが、佳奈さんの場合はいかがでしょう。

わかります。月々の稼ぎからすると新幹線代が高すぎて。

――そもそも家族が助けになってくれる家庭環境の方ばかりではないですしね。

私の場合、親との関係はいいです。ただ、だからこそ実家は絶対に頼れなかったんです。

――どういうことでしょうか?

当時、私は傷だらけでした。服で隠れない部分に――隠れる部分もでしたけど――一目見て暴力を振るわれているとわかるような傷やあざがたくさんあったし、ストレスで体も顔も肌がひどい状況でした。だから親には会いたくなかったんです。こんな姿を親が見たら卒倒か発狂してしまうと思って。

気にするところが違うって今ならわかります。親に心配されるような状況だということは自覚できていたけれど、心配されることを受け入れることはできなかったんだと思います。

流血した後輩は心に深い傷を負ってしまった

――オーナーが逃亡したことでお店が営業停止になり、職を失ってからはどのように過ごされていたんでしょうか。

次の仕事に就くまでの半年間くらいは、とにかく休んでいました。お金に余裕があったのでできたことだと思います。そのときやっと実家に帰ることもできました。

あとは、それまでまったくできていなかったことなんですけど、当時住んでいた街の気になっていたご飯屋さんにいろいろ行ってみました。本当に楽しかったです。他にも、それまでの反動でとにかくたくさん買い物しましたね。

――立ち入ったことを伺うようですが、前回、稼ぎは手取りで12万〜13万円ほどしかなかったと伺いましたが、蓄えはあったんですね。

低賃金でしたけど、使う暇がなさすぎてけっこう貯まっていたんです。ようやく使えるようになったという感じで。お金のこと以外にも、やっとまともに眠れるし、開放感しかなかったですね。後輩は例の事件の当日中に意識を取り戻したので、その日私は家に帰って眠ったんです。そして目を覚まして日付を確認したら丸2日寝ていて驚きました。

――半年間、精神的にはいかがでしたか?

私は元気でした。それもネットの友達がいたからですね。だからそのときに話し相手になってくれた友達のことはものすごく大事に思っています。

――私”は”大丈夫でした、というのは?

後輩のほうはそういうわけにはいかなかったんです。流血事件の後、お菓子を作れない……というか、材料に触れることすらできなくなって。食べるのもです。ケーキを食べても吐いてしまうようになりました。それに、オーナーが自宅に来るかもしれない恐怖で眠れなくなってしまって、しばらく私の家に泊まっていました。

それから数年のうちに住む場所は離れてしまったんですけど、ずっと仲がいいです。その後輩、何年もかかってしまったけど、つい最近菓子職人として復職したんです。それが本当にうれしくて。今は都内のパティスリーで働いています。

――後輩の方の回復のために、佳奈さんは多大な貢献をされたのだと感じました。

いえ、最近は逆のことを考えていて。あの店で働いていたとき、私がそばにいて、励ましてきてしまったせいで、後輩を縛っていたのかもしれないって後悔しているんです。

在職時はあの子を守るためにがんばったつもりだったけど、本当の意味で守ることって、私も辞めるから一緒に逃げようって言ってあげることだったんだと思うんです。そうしていれば搬送されることも、トラウマを背負うこともなかったんじゃないかって。

私もマインドコントロールにかかっていたんだと思います。「今中途半端な状態で辞めたらこの子も後悔する」って思ってた。ずっと悔やんでいます。

パワハラ後遺症から立ち直って今思うこと

――佳奈さんは現在もパティシエールとして働かれているんですよね。

はい。半年の休養を経て再就職したお店は本当にいい環境で、そこでの経験を元に独立して、今は自分のお店を経営しています。今ではお菓子を作ることが楽しくて仕方がないって心から言えます。


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今日はこれを伝えたいと思って来たんですけど、私は「あれがあったから今がある」とは思っていません。そんな考え方はしちゃいけないと思う。というのも私、あの店を辞めてからのほうがずっと、何倍も菓子職人としての能力が伸びたんです。知識や技術は平穏な環境があってこそ身につくもの。本当に……本当に無駄な時間を過ごした。まともな職場で働き始めていたら、もっと早く今みたいになれてた。

こういうことを言えるようになるまで時間がかかってしまったけれど、つらい経験をしたぶん能力がつくなんてことはないって断言します。どんどん伝えたい。ひどい環境にいるからこそメンタルが強くなったなんて思わなくていい。ひどい環境から離れることは逃げじゃないって言いたいです。

――現在、労働環境について相談を受けることもあるかと思うのですが、自分なりの伝え方のポイントがあれば教えていただきたいです。

逆に聞きたいくらいなんです、どうしたら伝わるのか。実際に相談を受けることはあります。でも、本人が納得しないときも多くて。「あなたの立場ならそう言えるけど、自分はそうじゃないんだ」となったら何も言えなくなってしまいますよね。

――この連載の初回でインタビューしたパワハラ被害者の支援NPOの代表の方がおっしゃっていたのは、渦中にいる人には声が届きにくくなるので、周りの人が劣悪な環境に身を置く前に知識をシェアしてほしいということでした。

そうですね、私が被害に遭っていた当時よりも労働についての知識はだいぶ広まってきているように思います。それでもやっぱり、「うちの業界はこれが当たり前なんだ」といった言い方で劣悪な労働環境を正当化するような人はまだまだいるとも感じます。

ハラスメントは害でしかない。あっていいものではない。看過しないという姿勢を強く持って、各々が自分のいる業界に責任を持って関わっていくしかないのかなと思います。

本連載では、お話を聞かせてくださる、ハラスメント被害者の方を募集しています。パワハラ、セクハラ、モラハラ、アカハラ……など種別は問いません。応募はこちらからお願いします。(ヤフーニュースなど外部サイトの方は、お手数ですが東洋経済オンラインをご覧ください)

(ヒラギノ 游ゴ : ライター/編集者)