日本と韓国がすれ違ってしまう理由は、国民性や歴史的背景にあるといえます(イラスト:えのすけ/PIXTA)

「そっか、日本と韓国って」と検索したことがあるだろうか?

日韓問題の論点をほぼすべて扱い、国内外の信頼される学術論文に基づく両論併記でわかりやすくユーモラスにまとめ上げた、新著『京都生まれの和風韓国人が40年間、徹底比較したから書けた! そっか、日本と韓国って、そういう国だったのか。――文化・アイドル・政治・経済・歴史・美容の最新グローバル日韓教養書』が発売された。

著者は、日本で生まれた韓国人で、フランス・香港・シンガポールで学び働いてきた、著作累計70万部・1億PV突破のベストセラー作家としても知られるムーギー・キム氏。国際感覚と教養をいっきに得られるビジネス教養書として、多方面で反響を呼んでいる。

本記事では、そのムーギー氏が「日本の英雄、韓国の大悪人説である豊臣秀吉」について解説する。

日本と韓国がすれ違ってしまう理由

「韓国に対するイライラと、日本に対するモヤモヤが、1冊できれいさっぱり完全解決」をコンセプトに書き綴った新刊『そっか、日本と韓国って、そういう国だったのか。』だが、あまりにも本書を皆に読んでほしくて、私は実に100冊くらい献本を行ってきた


日本のビジネスインフルエンサーの友人たちに加え、小学校の時の担任の先生を探し出して本書を送ったりもした。

首相官邸の岸田首相にも送ったし、孫正義さんにも送った。また韓国大使館の新任の韓国大使あてにも送ったし、韓国の著名な政治家にも送った。

在日コリアンコミュニティという意味では、民団(在日本大韓民国民団)の中央本部と全地方本部にも送ったし、朝鮮学校や韓国学校にも送ってみた。

これだけ読んでほしいと心から思っているのに、誰からも返事がないのは、ワークフロムホームでオフィスに行っていないからか、それとも突然、謎のムーギー・キムさんとやらから本が送り付けられてきて、警戒心がマックスに高まったからだろうか。

そんな中、唯一丁寧にお手紙で返信をくださった超大物が、かの有名な陶工・第15代沈壽官(ちんじゅかん)氏である。

今回は、その沈壽官氏の400年に及ぶファミリーヒストリーとも重なる、右も左も超納得の、高教養コラムをお届けさせていただきたい。

日本と韓国「歴史問題がどうも決着しない」深い訳で論じてきたように、日本人にとっては「韓国人はしつこい」となり、韓国人にとっては「日本人は過去をすぐ忘れる」という対立構造の根は、多くの方が思われているような近代史ではなく、じつは古代以来の集団的記憶に遡る。

韓国史上、最も悲惨だった「壬辰戦争」

16世紀の終わりに豊臣秀吉が行った「文禄・慶長の役」と日本で呼ばれる「朝鮮出兵」

この戦争は朝鮮半島では「壬辰・丁酉倭乱(じんしん・ていゆうわらん)」、後に「壬辰戦争」などと呼ばれ、その悲惨さが民間伝承や文学などでも民族的記憶として後世に伝えられてきた

前述の沈壽官氏の御先祖をはじめ、有田焼、伊万里焼、波佐見焼などなど日本を代表する陶磁器文化は、この朝鮮出兵で強制連行された朝鮮の陶工によりはじめられたものだ(ただし各地の作陶開始の歴史を読むと、ここはぼかして「朝鮮半島から渡来してきた陶工が……」くらいの、曖昧な書き方をされていることが多い)。

さて、この壬辰戦争はじつは当時、世界最大級の大戦争であり、朝鮮側にとっては青天の霹靂でもあった。

室町時代後半の日本は戦国時代と言われるとおり、100年以上にわたって、日本全国がゆうに100を超える(一説には200とも言われる)小領国に分かれて戦火を交えていて、大陸から見れば「小さな国がさらに細分化して争って、どうするのだ」といった、グチャグチャな状態だったわけである。

それが16世紀終盤にいっきに統一されて、当時の世界有数の軍事大国になり、隣国に攻め入った。世界史を見渡すと、内戦が終われば対外拡張政策がとられるのはよくあることだ。

しかし、朝鮮王朝としては、これまで「格下扱いしてきた、小領国に分裂していた島国」が、いきなり自分を攻めてくるなどとは夢にも思わない。
なにせそのときまで、日本が朝鮮半島に攻め込んだことは、海賊の倭寇(わこう)を除き、なかったのだ(後述する白村江(はくそんこう)の戦いは、百済(くだら)系の主導だった)。 

開戦前の朝鮮では、礼儀正しかった足利幕府にかわった豊臣秀吉からの使者への面会を拒んだり、答礼としての使節団派遣を拒んだり、文書が無礼であると無視したりしていた。

しかし、対馬の宗氏(朝鮮王朝にも服属しており、官職や米を得ていた)の仲介もあり、約150年ぶりに特使を派遣して、日本の情勢調査を実施した。

ところが、国防増強を説く黄允吉(ファンユンギル)ではなく、警戒不要論を唱えた金誠一(キムソンイル)の一派が重用されたために、せっかく防備を固めはじめていたにもかかわらず、武装解除をしてしまっていたのだ。

「平和ボケ」が招いた致命的な損害

これは、リーダーと側近が愚かなら、一国が傾くことの典型例でもあろう。このような判断を下したときの国王、宣祖(ソンジョ)と、派閥争いに明け暮れた重臣たちの罪は非常に重い。

当時、釜山(プサン)に上陸しても朝鮮軍があまりに無防備で何も反撃してこないので、日本側も驚くほどのラクな進撃となったようだ。

ちなみに、2回目の出兵である「慶長の役」のときは、反戦派・和平派の小西行長と主戦派の加藤清正の不仲が表面化しており、小西行長が朝鮮王朝に加藤清正軍の来襲場所とタイミングを先に知らせて討伐するように密使を送ったという逸話も伝わっている。しかし朝鮮側は「罠に違いない」と信じず、結果的に加藤清正軍に大量殺戮を許すこととなったという。

当時の朝鮮王朝はすでに建国から200年が経っており、「文禄の役」までは戦争もなく平和そのもので、儒教を学んだり陶磁器をつくったり、王を称える詩集の編纂に熱心な、軍事的緊張感のない平和ボケした国であった。

それが、百戦錬磨の武将を大量に抱える日本が、当時の総兵力の約半分ともされる大軍を送り込んできたのだ(朴永圭『朝鮮王朝実録 改訂版』[キネマ旬報社]等によれば、約30万の当時の日本の総兵力のうち約15万が渡海したという)。これに対して朝鮮では、開戦当初は国防体制がまったく追いついていなかった

この戦いは、かつては日本国内では豊臣秀吉や加藤清正が「英雄扱い」されることも多かったが、朝鮮側としては「民間人、女性、子どもも大量に虐殺された悲劇」として歴史に深く刻まれている。

軍神が祀られる神社に感じた違和感

当時、日本には戦功を示すために首を持ち帰る習慣があった。しかし、外国から首を持ち帰るのは重くてかさばるので、耳や鼻を削いで、何万人もの耳と鼻を塩漬けにして日本に持ち帰った。

それを埋めた耳塚が、秀吉を祀る京都の豊国神社のすぐ傍にいまでもあるのを、ご存じであろうか。とくに悪名高いのが、秀吉軍が老若男女、赤子に至るまで大虐殺した「南原(ナムウォン)城の戦い」である。

私は実際に、本書執筆期間中にはじめてこの耳塚を訪問したのだが、妻や子ども、家族が耳や鼻を削がれているシーンと、その鼻をサムライが数えているシーンを想像して、花が飾ってある塚を前にしばらく頭を垂れ、犠牲者の冥福を祈ったものである。

同時に、この耳塚のすぐそばに秀吉が神様として立派な神社に祀られていることに、正直怒りを感じたものだ。

当時、秀吉の軍の従軍僧として戦地に渡った慶念(きょうねん)が記した『朝鮮日々記』には、秀吉軍による略奪・殺人・焼き討ちが地獄のようであり、道が無数の死人で溢れ返り、二度と見るべきでない惨状だと記されている。

なお「文禄の役」では、7万人もの人々が秀吉の指示によってほぼ皆殺しにされたという記録もある、「第二次晋州城の戦い」で命を失った人々は、いまも晋州城で厳粛に追悼されている。

私はこの原稿を書くためだけに、コロナ禍のなか、わざわざ晋州城まで行き、中を見てきたくらいである。

ここで「論介(ノンゲ)」という、韓国のジャンヌダルク扱いされているヒロインを紹介しよう。日本では馴染みはないと思うが、韓国ではほぼ誰もが知っている歴史上のヒロインである。

「植民地支配より、豊臣秀吉のほうがひどかった」

「晋州城の戦い」で夫を失った彼女は、民衆を皆殺しにした豊臣秀吉の軍が祝勝会を開いているときに、その武将たちの宴に臨席させられていた。
彼女は妓生(キーセン)=芸妓に扮して、隙をついてひとりの武将に近づくと、その武将を強く抱きしめて道連れにして、19歳にして晋州城の隣の大きな河である南江(ナンガン)に身投げしたのだ。

このいきさつから、「義妓・論介」という尊称で呼ばれることが多い。

この論介の話はその後広く伝えられ、数十年後や100年以上経った後に、祈念堂などがどんどん建てられ、いまでも広く語り継がれる伝説のヒロインだ。

同様に、この壬辰戦争で戦い命を失った人たちが、その後100年以上経った後に「高位に昇進」し、国を護るために命を捧げた「義人(正義の人)」として、崇められている。

ちなみにこの辺りが韓国っぽいというか、儒教っぽいところなのだが、論介が身投げした岩まで「義岩(正義の岩)」と呼ばれ、神聖視されている

なおこの「義妓・論介」、いまでも晋州の人々から大きな敬意を集めており、ちょうど私が晋州から私の父の墓がある高霊郡に向かうタクシーの中で運転手さんに「はじめて晋州城に行ってきた」旨を話すと、「論介は、本当は妓生ではないのに、夫の仇をとるために妓生に扮してまで……」という話が始まった。

私が「晋州の人は日本をどう思いますか?」と話を向けると、

「植民地支配されたときよりも、豊臣秀吉の侵略のほうがひどいことをたくさんされた」

と、その運転手さんは言葉に力を込めていた。

日韓両国の歴史を学ぶと、この壬辰戦争の爪痕を含め、学べば学ぶほど民族的記憶が再生産されていく。そして儒教文化の韓国ではこうした過去の記憶も脈々と受け継がれていくのだ。

これに対して日本では「負の歴史」は水に流される傾向にあり、その武将がのちに「軍神」として神格化され、崇め奉られたりするのである。

たとえば、加藤清正の本拠地であった熊本県でいまも行われている藤崎八旛宮の例大祭は、かつては通称「ぼした祭り」と呼ばれていた。

これは、「朝鮮を滅ぼした祭り」という意味に由来するとも言われており、この殺戮の歴史を、なんとお祭りにしてしまったのだ(この呼称はさすがに近年になって問題視され、現在は使われていない)。

それぞれの国民の集団的記憶が生む溝

日本側としては、かつてはこの朝鮮出兵を豊臣秀吉の唐入り」「朝鮮征伐」などと呼び、「加藤清正の虎退治」の逸話を伝えるなど、戦前まで英雄視してきた。いまでもこの両者は多くの人に尊敬されている。

そして、「古代には三韓征伐を通じて属国だったのに、朝貢をしなくなったから征伐した」などという正当化の言説を信じている人もまだ一部には存在する。

また、秀吉目線の、

「明(みん)攻めに道を貸して案内してくれなかったから朝鮮に攻め込んだのだ」

という言い分も語られている。

しかし、たとえば北朝鮮の金正恩総書記が、

「うちに朝貢するなら、日本は攻撃しない。アメリカを爆撃するから、日本を通過させてくれ。道案内や、食糧の補給もするように。ちなみに日本はもともと、うちらの祖先の高句麗(こうくり)がつくったからね」

とか言ってきたら、どう思われることだろうか。

朝鮮にとって、秀吉による壬辰戦争はそういうことなのである。

なお、古代の「三韓征伐」については、『古事記』や『日本書紀』でつくられた神話にもとづいており、創作だというのが学術的な常識である。

たとえば、塚本明三重大学助教授(当時)の論文「神功皇后伝説と近世日本の朝鮮観」(1996年)や塚口義信著『神功皇后伝説の研究』(1980年・創元社)にも記載されており、ネット検索で論文を読めるのでご参照いただきたい。

それにしても、朝鮮はただでさえ契丹(きったん)やらモンゴルやら女真族(じょしんぞく)から攻め込まれて苦労が多いのに、「壬辰戦争」にしても「征韓論」にしても、明や清(しん)などの中国王朝が弱体化するたびに日本からも攻め込まれては、朝鮮側が日本に歴史的警戒感をいだくのも当然であろう。

しかし日本側にしてみれば、さらに遡って7世紀に「白村江の戦い」のときに「新羅と唐に負けた」という集団的記憶が、そのときに創作された「古代の神話」とともに、その後の歴史の正当化につながっていくのである。

日本と韓国の間の歴史認識問題とは、遡れば100年前の日韓併合どころか、400年前の秀吉が起こした「壬辰戦争」、そして1300年前に遡る「白村江の戦い」が、その背景に存在するのだ。

だからこそ、相手国へのイライラとモヤモヤを解消するには、「そっか、日本と韓国って」と検索し、「日本の視点」「韓国の視点」の両方を知り、両サイドから見た歴史を理解し、「両国の集団的記憶」を理解することが不可欠なのである。

(ムーギー・キム : 『最強の働き方』『一流の育て方』著者)