源頼家に妻を奪われたが…泰時の盟友・安達景盛(新名基浩)が剛腕政治家に成長するまで【鎌倉殿の13人】

写真拡大 (全5枚)

安達景盛 あだち・かげもり

安達盛長の嫡男。源頼朝の跡を継ぎ、鎌倉殿となった頼家とは、あまり仲が良くない。

※NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式サイトより

……そりゃ、妻を奪った相手と仲良しな訳ありませんよね。もっとも、妻のゆう(演:大部恵理子)は源頼家(演:金子大地)の方を気に入っていたようですが……。

まぁそれはそうと父・安達盛長(演:野添義弘)の跡を継いで鎌倉殿を支え続けた安達景盛(演:新名基浩)。

劇中では少年時代から丸々としたビジュアルに対して、何か頼りなさげな性格が視聴者の印象に残ったであろう弥九郎(景盛)。しかし頼家の追放後には、鎌倉殿の跡を継いだ源実朝(演:柿澤勇人)の側近として活躍します。

やがて剛腕政治家として本領を発揮し、執権・北条氏も抱え込んで鎌倉幕政に重きをなしていきました。

そして第5代執権・北条時頼(ときより)の時に宿敵の三浦一族を滅ぼし(宝治合戦)、北条氏と安達一族の地位を盤石のものとします。

今回はそんな安達景盛の生涯を駆け足で紹介。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習になれば幸いです。

パッとしない頼家時代

安達景盛は生年不詳、通称は弥九郎。『吾妻鏡』では頼家に愛妾を奪われるシーンからの登場となります。

頼家はそのまま景盛を攻め滅ぼそうとしますが、尼御台・政子(演:小池栄子)に叱られて兵を引き上げ、景盛は命拾いしたのでした。ちょっと情けない感じですが、まだ若い内は仕方がありません。

やがて乱行三昧の挙げ句に出家させられ、伊豆修善寺に幽閉された頼家は政子に対して

「安達景盛めを引き渡して下さい。こっちで処分したいので」

……於安達右衛門尉景盛者。申請之。可加勘發……

※『吾妻鏡』建仁3年(1203年)11月6日条

と書状で訴えており、よほど景盛を怨んでいたことが判ります。もちろん政子は

「何を言ってるんですか、ダメに決まってるでしょ。あと、今後は手紙も寄越さないで下さい」

……御所望條々旁不可然。其上被通御書事。向後可被停止之趣……

※『吾妻鏡』建仁3年(1203年)11月6日条

とバッサリです。こうして政子に助けられた恩返しとばかり、景盛は実朝の下で忠義に励んだのでした。

実朝に忠義を尽くし大活躍

その後も景盛は実朝と政子の側近として活躍、元久2年(1205年)には旧友である畠山重忠(演:中川大志)討伐の先陣として戦います。

更に牧氏の変(北条時政による実朝暗殺計画)、平賀朝雅(演:山中崇)暗殺、宇都宮頼綱(うつのみや よりつな)謀反未遂など多くの案件で幕府の決定に影響を及ぼしました。

建暦3年(1213年)には和田義盛(演:横田栄司)ら一族を滅ぼし、建保6年(1218年)に実朝が右近衛少将に叙任されると、景盛は秋田城介(あきたじょうのすけ。出羽城介)に任じられます。

以来、この秋田城介の官職は代々安達家が世襲することになりました(途絶期あり)。

また所領としては武蔵・上野(現:東京都・埼玉県・群馬県)と出羽(山形県・秋田県)地方を治め、勢力基盤を強固なものとします。

建保7年(1219年)に実朝が暗殺されると菩提を弔うために出家、法号を大蓮房覚地(だいれんぼう かくち。覚智)と称しました。

亡き実朝の為に高野山に金剛三昧院を建立、現地に隠棲したため高野入道とも呼ばれた景盛ですが、遠く離れていながら鎌倉幕政に参与し続けたと言います。

実朝の菩提を熱心に弔いながら、実朝が安心して成仏できるよう鎌倉の行く末にも目を光らせ続けた景盛は、テレワークのはしりとも言えるでしょうか。

出陣する泰時たち。その傍らには景盛も従った。月岡芳年筆

もちろんここ一番では鎌倉へ戻り、承久の乱(承久3・1221年)に際しては政子の檄文(演説)を代読し、北条泰時(演:坂口健太郎)に従って東海道を上洛しました。

劇中では少年時代から喧嘩していたやんちゃ仲間と堂々の上洛。大河ドラマでもしっかりと描かれるのが楽しみですね。

ほかにも泰時とは親密な関係を保っており、泰時の嫡男・北条時氏(ときうじ)に自分の娘(後の松下禅尼)を嫁がせ、生まれた北条経時(つねとき)・北条時頼(ときより)は後に執権となりました。

剛腕を発揮して三浦一族を滅ぼす

やがて嘉禄元年(1225年)に政子が亡くなると高野山に籠もり、永らく鎌倉幕政を遠く見守っていた景盛。しかし三浦一族の専横に耐えかねた宝治元年(1247年)4月4日、沈黙を破って鎌倉へと舞い戻ってきたのです。

今日。秋田城介入道覺地〔俗名景盛。藤九郎盛長息〕自高野下着。在甘繩本家云云。

※『吾妻鏡』宝治元年(1247年)4月4日条

安達一族は亡き頼朝の側近ではありましたが、対して三浦一族はそれ以前から代々源家に仕え続けた名門。安達一族を成り上がり者として軽侮していたのでした。

今や鎌倉幕政において、北条&安達と三浦が2トップ。先の宮騒動(寛元4・1246年)によって政治的劣勢となった三浦一族を追い落とす、千載一遇のチャンスです。

だと言うのに、嫡男の安達義景(よしかげ)や嫡孫の安達泰盛(やすもり)、そして執権にして外孫の北条時頼(兄・経時が亡くなって執権を継いだばかり)は何もしません。

(ちょっと言いすぎかも知れませんが、少なくとも景盛にとっては焦れったかったのでしょう)

息子らを叱りつける景盛(イメージ)

日來高野入道覺地連々參左親衛御第。今日殊長居。内々有被仰合事等云云。又對于子息秋田城介義景殊加諷詞。令突鼻孫子九郎泰盛云云。是三浦一黨當時秀于武門。傍若無人也。漸及澆季者。吾等子孫定不足對揚之儀歟。尤可廻思慮之處。云義景。云泰盛。緩怠禀性。無武備之條。奇怪云云。

※『吾妻鏡』宝治元年(1247年)4月11日条

【意訳】最近、高野入道がちょくちょく時頼の館へやって来る。今日は特に長居して内々の打ち合わせをしていった。
また息子の義景をボロッカスに批判し、孫の泰盛もケチョンケチョンに貶されたとか。
曰く「三浦は武力にモノを言わせて横暴の限りを尽くしておる。油断しとると今に奴らの軍門に屈することになる。だと言うのに、お前らと来たらどんだけ怠け者なのか、武力を養うどころか戦支度の一つも出来とらんとはどういうことじゃ!」とのこと。

とまぁ、大層なお怒りよう……もういい、お前らには任せておけぬ!とばかりに景盛は三浦一族に対して挑発の限りを尽くして合戦に持ち込もうとするのでした。

一方の三浦一族でも棟梁の三浦泰村(みうら やすむら。三浦義村の次男)は北条&安達一族との争いは望んでいません。しかし弟の三浦光村(みつむら)・三浦家村(いえむら)たちは宮騒動で生じた劣勢を挽回するべく、景盛の挑発に暴発寸前。

続々と両軍に馳せ参じる武士たち。そしてついに6月5日、北条と三浦の武力衝突が勃発してしまいました。

「兄者、事ここに至ってまだ躊躇われるか!」

棟梁の泰村が最後まで和平の意思を示した……と言うより、ここまで来ると肚を括れなかったために三浦方は惨敗。ついには一族500余名が自刃して果てたのです。

ここに源家累代の御家人であった三浦一族は滅亡。もはや抗する者のなくなった北条家(得宗家)による専制体制が確立されたのでした。

終わりに

景盛の孫・安達泰盛。竹崎季長『蒙古襲来絵詞』より

かくして、北条氏の盟友として鎌倉幕政に不動の地位を築いた景盛はすっかり安堵したのか、宝治2年(1248年)5月18日に高野山で亡くなりました。

初登場時こそ政子に助けられていたものの、その恩義から忠勤に励み、北条の守護者に成長した安達景盛。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも承久の乱くらいまでは観られそうなので、これからも新名基浩さんの好演に注目ですね!

※参考文献:

高橋慎一朗『人物叢書 北条時頼』吉川弘文館、2013年7月北条氏研究会 編『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社、2001年6月細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月細川重男『宝治合戦 北条得宗家と三浦一族の最終戦争』朝日新書、2022年8月